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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:256~258頁
《古代大阪は豊かな工業国家だった》
これにはもうひとつ理由がある。
それは和泉(いずみ)・河内(かわち)から摂津(せっつ)の
小丘陵地帯の広域にわたって、
須恵器(すえき)(陶器)生産の窯(かま)跡が
大量に発見されていることである。
それまでの土器と違って須恵器は、
粘土の質がよくないといけない。
しかし、
良い土はそんなに大量にあるものではない。
だが、河内湖埋め立てのために、
丘陵を削る際にその副産物として
適当な土が大量に手に入った。
一方で耕地をふやし、
一方で当時の重要工業製品である須恵器を作る。
この智恵がなくては、
とても世界最大の陵墓は造れなかったのである。
その証拠には古墳時代の終わりに近づくと、
この大規模な陶業もまた終わりを迎える。
そしてより豊富に、より上質の土がえられる
土地へ窯業の中心が移動してしまう。
また『日本書紀』には歴代にわたって
堤(つつみ)を築く、
池を作るという記事が続出する。
茨田(まむだ)の堤、堀江、感玖(こむく)、
石河という河内・和泉の地名が続出し、
4万余頃(けい)
(頃は中国では百畝(せ)(アール)の面積をいう)の
田を得たと〔仁徳紀〕一四年の部分に書いてある。
概算ではあるが、
河内国と摂津国は田が
1万千3百町歩と1万2千5百町歩、
前者の大半と後者の3分の2が
この開田によって生まれた地域で、
約2万ヘクタール(約2万町歩)という数字になる。
もっともこれは10世紀の
『倭名類聚鈔』のもので、
もちろん古墳時代以後の開田分も含むが、
その規模からみて、
巨大古墳時代がその最盛期だったことは間違いない。
倭王はその大文明が立証するように
高度の知性をもっていた。
国民を奴隷扱いして、経済を無視し、
自己破壊に陥るような愚か者ではなかったとみえる。
こうみてくると、この「古墳築造者の交替」という
根本的な大問題(プロブレム)を知らずに、
ただ見かけの上だけで、
古墳はこんな形をしているという型式分類をして、
その形は「……ではなかろうか?」という
手探りの想像説ばかり並べる説は、
キレイな図などが入っていて
見かけは立派にみえても、
事実上は雑多な個人意見ばかり生み出して、
混乱に輪をかける有害な行為だったことが
はっきりわかる。
学問にも順序があり段階がある。
子どもにもできる
昆虫採集や虫の形のスケッチの段階で、
昆虫の進化の歴史を語るのはムチヤだということに
気がつかなければいけない。
なぜ高松塚や稲荷山鉄剣や藤の木古墳が、
いまだに謎のままなのか?
という疑問の答えは、
それを考古学者に求めるのが
間違いという簡単なことなのである。
これにもましてヒドイのが古墳は
宇宙人が作ったUFO発着用の航空設備だけ!?
というような説である。
私(加治木義博)の発見した古墳や
通称の直列を航空標識のようなものと
錯覚しているのである。
この空想の幼稚さは、
何万光年もの彼方にしか
生物の存在できる惑星のない宇宙からはるばる、
地球を探し当てて光速でやってきたほどの宇宙人が
、
峯ケ塚ていどの古墳を造るのでも、
何年もかかるような原始的な土木工事を
えんえんと監督するかということである。
もうひとつおかしいのは、
何世紀にもわたってUFOが来続けていたとして、
ではなぜ、それが世界中のどの国の歴史書にも、
『日本書紀』にも載っていないのか?
ということである。
大規模に古墳を造り続けていた地域は
九州東部と中国東部と近畿圏だけだということも、
UFO説の理屈に合わない。
地球は広く、人類は至るところにいたのに、
狭い日本列島の中の、
また狭い地域のどこが良くてそんな
「航空標識」を作り続けたのか?
説明がつかない。
さらにさらにオカシイのは、
その古墳の中に、
手間のかかる石棺なんかを固い岩で制作して、
その中には下手(へた)な手造り
(UFO人から見ての話だが……)の
金冠や剣や鏡や土器などを入れてある。
なぜ空から見おろす標識の中に、
空から見えないように幾重にも隠して、
宇宙からもってきた異金属などは入れなかったのか?
これもコジツケ説明もできないほどの大変な謎だ……。
こんな説は、いちいち、
まともに数え上げるのもバカバカしいほど
非論理的な「思いつき」にすぎないのである。
少し知性があれば、
そんな子どもだましに引っかかることはない。
未確認飛行物体(UFO)は確かに実在するが、
それは地球物理学で説明のつく自然現象と、
人工の飛行物とであって、
絶対に宇宙人とは関係がない。
数万光年の彼方からやってこれる
生物は絶対にないし、
太陽系宇宙の中には別の人類がいる可能性もない。
実在するはずのないものを信じるのは、
思考力に欠陥のある人間だけなのである。
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
WAJIN:30~32頁
《仁徳系10代の天皇の子孫が一人もいない!?》
だがこの『新撰姓氏録』には、
もっとはるかに重大な驚くべき事実がある。
それはこの「皇別」全部の中に、
仁徳天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで、
第16代から第25代までの
10代の天皇たちの子孫が
『一人もいない』という事実である。
先にもお話ししたとおり、
この仁徳天皇系の天皇たちは、
どこからみても実在したことは間違いなく、
文部省も仁徳以後は実在の確かな天皇としているのだ。
それなのになぜ、子孫がまったくいないのだろう?
かりに先の説のように
「古代氏族が自分の家系を偽って
天皇家に結びつけたもの」だったら、
『新撰姓氏録』は、
そんなことにはなっていないはずである。
偽(いつわ)って「天皇が祖先だ」というのなら、
仁徳天皇から武烈天皇までの10代は、
それ以後の、
身近で比較的系譜(けいふ)のはっきりした
天皇たちを先祖だというより、
ウソが暴露される恐れが少ないし、
また応神天皇より以前の古い天皇たちに
結びつけるよりは、
よほど、本当らしくみえるからである。
それなのに一人も、それをしていない。
この事実は先の「偽造説」の学者が空想したような
「家系の偽造」説がまるで的はずれであったことを、
何よりも強く立証している。
「皇別」というのは
「先祖が天皇から別れた家系」という意味で、
『新撰姓氏録』にはこのほかに
「先祖が神代の神々だという家系」の「神別」と、
「崇神天皇以後に海外から移住してきた家系」
を意味する
「諸蕃(しょばん)」との三種類に分類されて、
弘仁(こうにん)六年(815)
現在の五畿内の豪族1182氏が登録されている。
だから、分家する皇子をもたなかった天皇と、
終世独身だった女性の天皇以外は、
継体(けいたい)天皇以後はもちろん、
時代の古い神武から応神(おうじん)までの
歴代天皇の子孫まで、
たくさんの氏族が
「皇別」と認められて記録されているのである。
この内の応神以前の天皇は、
幾度もいうが現在、
すべて実在しなかった架空の天皇として、
義務教育では抹殺されている。
それなのに
その『架空』のはずの天皇たちの子孫は確かにいて、
『実在した』と教育している仁徳以後の
10代の天皇たちの子孫は、
ただの一人もいないということは実に奇妙なことで、
これを文部省はどう説明するのか?
歴史教育のあり方にも疑問を投げかける
重大な問題だといわねばならない。
『新撰姓氏録』が書かれたのは9世紀初めで、
5世紀末からは300年ほどしか経っていない。
その間にほかの天皇系の子孫が繁栄しているのに、
仁徳系の子孫だけが完全に絶滅することはありえない。
ことに仁徳以後の10代といえば、
上田正昭京都大学名誉教授の、
いわゆる「河内(かわち)王朝」時代で、
須恵器(すえき)の大工業地帯を経済バックに繁栄して、
巨大古墳に象徴される、
古代日本の各皇朝期の中でも
最盛期といっていい時代である。
それなのに、
その子孫はいったい、どうなったのだろう?
いわゆる「河内王朝」は
実在しない幻だったのであろうか?
ただ一つ、
これに対する答えのようなものがないわけではない。
それは『記・紀』をざっと読んだ感じでは、
仁徳以後の各天皇たちが、
次々に兄弟を殺し尽くしてしまうから、
子孫がなくても当たり前のように見えるからである。
だが系譜をよく検討してみると、
殺されなかった皇子が残っている。
反正天皇の高部(たかべ)皇子。
雄略(ゆうりゃく)天皇の岩城(いわき)皇子。
顕宗(けんそう)、仁賢(にんけん)両天皇の弟・
橘(たちばな)王などがいる。
また天皇たちに殺された兄弟たちの王子が、
一人も生き残らなかったということも考えられない。
それは暗殺された市(いち)の
辺押羽(へおしは)の皇子の子供だった
仁賢、顕宗の両天皇が生きのびて、
兄弟そろって皇位についたことでもわかる。
10代もの天皇に
「完全に一人の子孫もない」などということは
現実には考えられない。
いっそう、謎は深まるばかりである。
つぎに考えられるのは、
この10代の、
いわゆる「河内王朝」は、のちの大和政権とは
別系統の王朝だったのではないか、
という見方である。
それなら
当然「皇別」の中に入れるわけにはいかない。
除外されているということになる。
この「別系統」という考え方には根拠がある。
それは神武から応神までの各代はすべて
「父子相続」なのに、仁徳系は皇位継承法が
「兄弟相続」にがらりと変わっているからである。
こうした「相続法」は世界的にみても古来、
各国ごとに独特の法則があり、
それは何よりも厳重に守られて、
容易に破られるものではなかった。
そのことがわかっていると、
仁徳皇朝になって「皇位継承法」が、
がらりと変わってしまったことは、
見逃すことのできない重大な変化なのである。
もう一つ『記・紀』全体を通してみると、
この皇朝の変わっている点が目につく。
それは天皇たちの
「和風諡号(わふうしごう)
(贈り名=これは誤解による間違った名だが)」が、
前後の天皇たちのそれにくらべて
どうみても短くあまりにも粗末すぎるのである。
大雀(おおさざき)(仁徳)、
イザホ別(わけ)(履中)、
水歯(すいば)別(反正)、
アナホ(安康)、
オケ(顕宗)、
オオケ(仁賢)といった調子である。
また、
長い男浅津間若子宿祢(おあさづまわくごのすくね)
(允恭)も、
よくみると「宿祢(すくね)」
という臣下にしか使わない称号をつけてある。
どれをみても好意や敬意のこもった
「扱いぶり」ではない。
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
WAJIN:122~124頁
《幻にすぎなかった「河内王朝」》
これまでお話ししたことは、
過去の倭の五王説や河内王朝説とは非常にちがう。
倭の五王は五人とも同系ということで
「倭の五王」という名をつけたのであって、
今わかったように、
前の二王と後の三王が全然別の系統だったのだから、
とても「倭の五王」とは呼べない。
また「河内王朝」も同じことだ。
途中で仇敵の別の「王朝」に
変わってしまったものを一つにして
「何々王朝」と呼んだのでは、
王朝を区別する役にはたたない。
それにくらべると、
古代の中国人のほうがはるかに立派である。
『宋書』をみればそのことがひしひしとわかる。
そこには「倭の五王」などという、
いい加減な名前もついていないが、
家系についてもいい加減なことは
いっさい書いていない。
「珍」は「讃の弟」とはっきり書いてあるが、
「済」は何も書いてない。
これは前の二人と関係がないという証拠なのだ。
わかっていれば興のように、
はっきり「済の世子(せいし)」とか、
「武」のように「興の弟」と書いてある。
それは、手紙と貫ぎ物をもっていった倭国の使者に、
根掘り葉掘り中国の役人がたずねて調べたうえで、
希望する官位を与えるかどうか、
重臣たちが検討する制度だったからである。
だから『宋書』の記録の文章は短くても、
わかっていることはすべて書いてある。
この済の場合、それが書いてないのは、
倭国の使者が、
政権の中身が変わったことで不利になるのを恐れて
「親子・他人」といった、
はっきりした返事ができなかった証拠なのだ。
「世子」というのは中国では天子の後継者を意味する。
太子とは少しニュアンスが異なるが、
世継ぎの資格のある子供という意味に
使われていることが多い。
日本では後世、
大名などの世継ぎの意味になってしまったが、
この『宋書』の場合は、
それは「血を分けた子供」という意味である。
済~興~武はその親子兄弟がはつきりしている。
だから
「家系が断絶したのは、珍のとき」だったのである。
済は「百済」を名乗りにしているから当然、
百済王系で、血統の絶えた倭王家を継いだ。
しかしその血統関係は宋には、
はっきりいえなかったし、
『宋書』も不明のままにしておいた。
こうした事情を考えられなかった
『記・紀』や三国史記』の著者は、
無名の天皇に1代ズレたつぎの王名をつけてしまった。
これがなぜ王名がズレたかという理由なのだ。
そして第15のキーでもある。
「5世紀の工業地帯大阪の主力製品」
大阪府全域に須恵器の窯跡が大量に見つかっているが、
百舌鳥(もず)古墳群の南、
石津川の上流を挟む丘陵地帯にある
東西南北10数kmの
「陶邑(すえのむら)」は、
規模も出土品も最大で、
5~8世紀の古代経済が、
どんなものだったかを伝えてくれている。
その地域の北西の瑞に
「景初三年鏡」を出土した和泉黄金塚古墳がある。
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
WAJIN:125~128頁
《仁徳系は讃・珍で亡び、最後に武が支配を確立した》
こうしてみてくると、
私たちの「予想」というものが、
どれくらい頼りないものか、よくわかる。
この章の読み始めから、
「なるほど! そうだったのか!」と
思われた時が幾度かあったと思うが、
それはまたすぐつぎの答えが出てきて、
ひっくり返ってしまった。
全編がドンデン返しの連続だった。
しかし私(加治木義博)は作家ではない。
面白オカシク作品を「作って」いるわけではない。
どうしても必要なことを、
順を追ってお話ししているのであって、
いっペんに結論をお話しすることは、
この仕事では不可能だし、
それでは「なぜそうなるのか?」という
あなたの興味にも答えることができない。
しっかりした理由をお話ししなければ、
過去の「常識?」とまるで違う結論など、
バカバカしくて読めないからだ。
だから、うるさいとは思ったが一つ一つに
「第○○のキー」というのを
付け加えてきたのである。
途中だけ読んで
「加治木説はオカシイ」
といわれたのでは何にもならないからである。
しかしそのためにずいぶんヤヤコシク
感じられたと思う。
整理してみよう。
『記・紀』と『三国史記』は
事実を書いてはいるが、
天皇や王をダぶらせたり、
名前をズレてつけたりして、
『宋書』の五王の記録と合わない。
時代と順序を正確に伝えているのは
『宋書』だから、それによって整理すると、
本来の仁徳天皇家は讃と弟の珍の2代だけで終わり、
その後に百済王の済がすわり、
須恵器(すえき)(セラミック)産業を経済基盤に
河内湖周辺の開発と巨大古墳の造営を進めたが、
意見が合わずに追放した旧臣の武が
高句麗王を頼って亡命し、
高句麗王はスパイを済の身近に潜りこませて、
国力消耗を進めた後、
武が高句麗軍を率いて攻めこむと、
仕事に疲れ平和に慣れた
国民はひとたまりもなく敗れて、
済は殺され、次いで立った病身の王子も殺された。
そして高句麗に後押しされた
武が総督として支配した。
だが、常に高句麗に圧迫されて自由のない武は、
宋の政府に援助を訴えて、
独立して高句麗の支配から逃れようとした。
実はそれだけではない。
彼は宋に遣使した翌年には南斉(なんせい)に、
その3年後には梁(りょう)に、
それぞれから
鎮東(ちんとう)大将軍と
征東大将軍に任命されている。
どんなに必死だったかが推測できる。
これを『記・紀』と『三国史記』は、
あちらこちら間違えながら「歴史」らしく編集した。
そして無名の天皇「殺された允恭天皇」に
1代ズレたつぎの王名
「入れ替わった允恭天皇の名」をつけてしまった。
そのため天皇や王の名と内容とがズレて、
年代のおかしさとともに、
まるで何がなんだかわからないものになってしまった。
そのためありえない名乗りが次つぎに謎を生み出し、
多くの「幻」が生まれたのである。
これが「倭の五王」と呼ばれ、
「河内王朝」と呼ばれてきたもの、
そして奇妙な兄弟相続が続く異様な王朝・
仁徳系皇朝と考えられていたものの前半の真相だ。
この物語の後半は安康天皇から始まるが、
その記事は前半の天皇たちよりもさらにひどくなる。
安康天皇は允恭天皇の第二子と書いてあるが、
その下に「一説では第三子だという」
と小さい字で書き込みがしてある。
允恭天皇が死んだとき皇太子の
「木梨(きなし)の軽(かる)の皇子(みこ)」が
「暴虐を行ない、婦女に淫す、
国人これを謗(そし)る」と
書いてあるような情況だったので、
群臣はみな後の安康天皇・穴穂の皇子についた。
皇太子は弟を殺そうと兵を集めたが、
誰も味方にならないことを知って、
物部大前宿祢の家へ逃げこんだが、
穴穂の皇子の軍勢に囲まれて
とうとう自殺してしまった。
ここでもその下に
「一説では伊予の国に流したのだという」と
「割り注」が書きこんである。
こうして天皇になったが、
弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子の妻に
大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹
「幡梭皇女(はたひひめみこ)」をと思って、
根の使主(おみ)を使いに出すと、
大草香が感激して宝物を献上したが、
根の使主はそれを横領して、
それを隠すために大草香を讒言(ざんげん)する。
天皇は確かめもせずに怒りのあまり
大草香を攻め殺してしまう。
しかしこの『日本書紀』の記事がおかしいのは、
その「幡梭皇女」というのは、
履中天皇の妃なのである。
これは「木梨」が
金波鎮漢紀・武であることとも合わせて、
このあたりの天皇が
二重、三重にこんがらかっていることを示している。
そして天皇は大草香の妻を自分の妃にしてしまう。
ところがその連れ子の
眉輪(まよわ)王(目弱(もくじやく)王)に
父の仇として殺されてしまう。
だがこの「目弱王」も木の満致のことで、
やはり金波鏡漢紀・武であることは、
『コフン』で、もうよくご存じのとおりなのである。
つぎが雄略天皇で、
『日本書紀』では天皇は
「允恭天皇の第五子」と書いてある。
この人物は安康天皇が殺されたと聞くと
「兄たちを疑って」、
八釣(やつり)の白彦皇子(しろひこのみこ)を斬り殺し、
坂合の黒彦皇子(くろひこのみこ)と、
眉輪王をかばった
円の大臣とを眉輪王もろとも焼き殺してしまう。
次いで皇太子の
「市(いち)の辺(へ)の押磐(おしは)皇子」を
鹿狩りに誘いだして、だまし討ちにして殺し、
その弟の御馬(みま)皇子も殺して天皇になる。
そして妃にするつもりだった百済の池津姫が、
石川の楯(たて)という男と淫したといって
二人をはりつけにして焼き殺してしまう。
そのあとに
「だから天下は大悪天皇だと誹謗(ひぼう)した」
と書いてある。
まだいろいろあるが、
「吉備の上道の臣・田狭(たさ)」の
妻が美人だと聞いて、
田狭を任那の知事に任命して、
その妻を自分のものにした、という記事もある。
もっともこれは、『聖書』の中の
「ダビデ王が、
美女バテシバを自分のものにした話
(『サムエル記下第十一章』「コフン」参照)の
悪用だし、
他の事件も同じ話が名前だけ変えて
繰り返し出てくるので、
『日本書紀』の編集者が、
仁徳以後の天皇たちを
「大悪天皇」として悪く印象づけようと、
こうした「悪王列伝」をわざわざ編集したのだ、
ということを暴露してしまっている。
ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2016年1月11日月曜日
須恵器と北方系文化①
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《参考:年表・資料》
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
139~143頁
《須恵器と北方系文化》
《陶器と古墳》
日本の陶質土器の技術的な基礎は須恵器であろう。
古墳前期には、
弥生式土器の系統をひく赤焼の土師器が、
日常雑器として、
また祭祀や葬儀にも使われていたが、
大阪府南部の丘陵地帯で、
突然大陸系の硬貨の陶質土器の生産が開始された。
これが陶器である。
学術用語としては、陶器との混乱をさけ、
「須恵器」の字をあてている。
須恵器については、雄略7年の状に、
百済から渡来した各種の工人にまじって、
新漢陶部高貴の名前がある。
陶部とは須恵器の工人推定されるところから、
この年を須恵器生産の開始とみなす研究者が多かった。
たしかに、須恵器が古墳の副葬品として普及するのは、
中期末から後期になって、つまり雄略のころであるが、
それはそのころまで須恵器が副葬品としては
必要でなかったからにすぎない。
集落遺跡で発掘されたり、
あるいは、古墳の墳丘や、
時には埴輪円筒の中へ置かれた須恵器は、
副葬品ではなく、葬送儀礼に使ったものでろうが、
最近では中期古墳でいくつも検出されている。
大山古墳と百舌鳥陵山古墳ではいずれも
造出しに古式須恵器が使われている。
これらの須恵器は、
丘陵に傾斜を利用した細長い窖窯を構築して、
還元状態で焼いてるから、
質は硬く、灰色かねずみ色をしている。
ところが、誉田山古墳にたてられている埴輪は、
もちろんその一部であろうが、須恵質のものがあって、
すでに窖窯技術が埴輪製作にも
応用されていたと考えられる。
中期古墳はすでに須恵器の時代になっていたのである。
数年前、奈良の柳本古墳群の渋谷向山古墳で、
埴輪円筒で、
埴輪円筒の底に置かれた須恵器の甑が発掘されている。
この古墳は典型的な前期の前方後円墳であり、
またその甑も古い形式に属すから、
もしこの須恵器が後の時代の混入物でないなら、
須恵器の年代をひきあげるか、
逆に大和の前期古墳の存続期間のある部分を
河内、和泉の5世紀型古墳と並存させる必要が生じた。
《大阪府南部窯址群》
古墳中期の須恵器生産は、
大阪府南部の丘陵地帯で大規模の行なわれた。
4世紀末から8世紀頃までの窯址が
約千個所は発見されているから
その盛んな状況が推察される。
ところが、
この地帯が、とりわけ窯業に適した土地でないことは、
律令制の弛緩にともなって、
9世紀になると急激におとろえ、
中世以降の窯業が、
瀬戸・常滑・備前・越前・信楽などに
移っていくことからも察知できる。
大阪府南部の生産地帯は、大部分が堺市、
一部が和泉市や狭山町にひろがっているが、
初期の窯址は、いずれも和泉国大島郡、
8世紀以前は河内国茅渟県とよばれた地域内にある。
私は研究を進める過程で、
大阪府南部窯址とか阪南窯址群とよんだが、
窯址の分布範囲外に阪南町ができたので、
大阪府南部窯址群と呼んでいる。
最近、この窯址群にたいして
陶邑古窯群とよぶ人があるようだが、
陶邑というのは、
崇神紀に大田田根子説話ででているにすぎず、
この広大な、
また数世紀にわたる窯址群の総称することはできない。
神話と歴史との混同をさける考古学に、
まぎわらしい用語をもちこむことは、暗に、
『日本書紀』を
文献批判ぬきで肯定していることになるので、
私には使えない。
大阪府南部窯址群が、
百舌鳥・古市の二大古墳群の南方に位置することは、
この古墳群に象徴される5世紀の国家的勢力が
土器生産を掌握していたのであろう。
ここでの生産物は、たんに中央の支配者の需要を
満たすだけでなく、地方の大小の豪族にも与えられ、
それが国家の政治体制を維持する一助になったことは、
全国各地に分布する古式須恵器の存在からも推測できる。
さらに興味深いのは、一体須恵器生産とは、
当時の中央政権の朝鮮半島への進出に伴って摂取された
文化現象なのか、
それとも支配者そのものが渡来者であるため、
彼ら特有の日常土器を製作する必要から
開始された政治現象かということである。
これは難解なことである。
教科書流にいえば、
大陸文化の摂取ですべては方が付くのだが、
もし土器の製作技術だけの摂取であれば、
当時の日本では普通に使っていた土師器の形態を
新技術をで作るはずであろう。
ところが須恵器の大部分は、
たとえば甑(ほぞう)のように
土師器なかった形態、別の表現をすると異なった
日常生活でないと使わない形態である。
もう一つ例をあげると、
須恵器には穀物を蒸すために
必要な甑がその最初から製作されているが、
これは古墳前期の土師器にはなかったのである。
むしろ、6世紀ごろから、
甑が消耗的性格がつよいため、
土師器で模作されるようになっている。
どうも、須恵器生産の開始の諸現象には、
大陸からの文化の摂取では説明しきれない面がある。
《豪族と須恵器》
須恵器生産は、古墳後期、つまり6世紀になると
九州・中国・四国・中部、
そして関東の一部にもひろがった。
各地の豪族の要求で、
工人たちが派遣され定着することもあれば、
一時期の生産活動で他へ立ち去ることもあったが、
須恵器は広汎に分布するようになった。
須恵器にあらわれている中期と後期の差は、
そのまま他の面にもあてはまることが多い。
新しい墓制として、
北九州や畿内で中期に出現した横穴式石室は、
後期になるとひじょうに普及を見せる。
いま一つ例をあげると、
前期古墳には全く存しなかった
金属製の耳飾りをつける風習が
中期には華麗な姿であらわれるが、
後期にはほとんどの古墳の遺骸に、
たとえ銅環に金箔をおしただけの粗末なものであっても
必ず伴うようになった。
《中期古墳の終わり》
中期において、畿内に北九州、
ときには瀬戸内海沿岸など
一部にあらわれたこれらの新しい文化は、
朝鮮半島の文化に共通した面が強い。
しかもそれは、
漢文化の影響を直接受けたものでなく、
北方の騎馬民族、
およびその系統の王が支配する諸国に源流がある。
須恵器、横穴式石室、金銀の耳飾りのほか、
金冠、乗馬に適した挂甲、
横穴式石室を飾る壁画と数えあげると
終わることを知らない。
後期とは、これらの北方的文化が
全国的に浸透した時期のことである。
中期には、奈良県島根山古墳のように、
儀器化した石製腕輪類を大量に埋納した
前期の性格を残す古墳や
群馬県藤岡市白石稲荷山古墳のように、
石製模造品が副葬品の中心をなすような古墳が、
築かれていたが、後期には見られなくなった。
私は、倭王武の墓と推定できる河内大塚の築造で、
中期は終わったとしている。
これを境にして、超大型の墳丘を営造することは、
しばらく、とだえ、中央の支配者たちの古墳も、
その規模が著しく縮小するのが後期の特色である。
それは、中央政権の衰退を物語るかも知れないが、
それは朝鮮半島における国際的関係での衰退にすぎず、
国内にあっては、
逆に支配体制を強めたことになるかも知れない。
このような状況のなかで、日本の各地で、
まさに爆発的な勢いで群集墳が出現するのである。
「写真」岩橋千塚の古墳群の群集状況:
『井辺八幡山古墳』による
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:186~188頁
《百済は大阪が先か、朝鮮半島が先か?》
まだお疑いの方は次の事実を
何と説明していただけるであろうか?
この大阪府南部には、
3世紀の景初三年(239年)の
銘の入った鏡を出土した
和泉黄金(いづみこがね)塚古墳をはじめとして、
4世紀に入ると古墳が続々と造られていく。
その中には幾度もいうように、
世界最大の墓とされるものや、
それに近い巨大なものが幾つもある。
このことはこの地域が、
当時としては世界有数の大国の一つだった
可能性を証明しているのである。
また他方、この地域ばかりでなく、
淀川以北はるばる北摂の兵陵地帯にまで
府下全域にわたる、
おびただしい
須恵器(すえき)生産の窯跡(かまあと)が
発見されている。
これまた当時としては
有数の大工業圏の実在といわねばならない。
古墳と時を同じくしたこの窯跡こそ、
当時の国力の基盤となったものの一つで、
これなくしては大古墳はあり得なかったとも考えられる。
国家の隆盛とは経済力の隆盛である。
ところが古墳時代を論じたものに、
この窯業の果たした役割について
全く気づいていないものがある。
そんなにうかつではけっして真相はつかめない。
これほど重要な要素を落としているようでは、
まともな結論が出るはずがない。
その一つが、この地方の百済帰化人感なのである。
「感」という字をわざわざ選んだのは、
それは観とか説とか呼ぶに値しない、
何の根拠も立証もない
「感じだけのもの」にすぎないからなのだ。
戦前戦後の前時代的な史学にわざわいされて、
「帰化」という言葉を亡命と感違いし、
7世紀後半の百済滅亡後、
天智三年に百済王善光らを
難波に居(はべ)らしめき、といった
「読ませ方」にまどわされて、
4世紀末に始まる
この巨大な超大国の存在を忘れた先入感だけで
「細々(ほそぼそ)とした亡命者のみじめな生活ぶり」を
空想するといった百済帰化人感のことなのである。
もうお気づきのように、
帰化人感とは「無力な亡命者」
という潜在意識なのである。
それが選りによって、
この[超大国摂河泉(せつかせん)地域]
をみじめな
「百済」に改名することが出来たという考え方は、
あまりにも不合理すぎる。
知性的ではない。
この帰化人を[応神紀]にみる
弓月(ゆづき)の君らとしてみたところで、
なぜ超大国の王である応神天皇が、
流れ者の母国名を、
自分の繁栄の中心地全帯につけるという
大改名をする必要があったか理解できない。
それは後世になってつけられた、という考え方は、
[仁徳紀]にすでに「その陵地と定めた土地を
百舌鳥耳(モズミ=百済)原という」と出ている
事実にさえ気づかないでいるのである。
この地方の百済の名はどうみても
応神~仁徳王朝そのものが
もっていた名の一つとみるほかないのだ。
<4~5世紀の百済と新羅>
○百済の拡大コース>
熊毛百済(屋久島・種子島)→大隈半島→宮崎→
大分→四国→大阪百済
○新羅の拡大コース
薩摩半島:知覧新羅(鶏林時代)→熊本→福岡:
白日別新羅(斯盧時代)→朝鮮新羅
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:220~222頁
《百済王の方が君臨していたか?》
倭・韓の王名が、ずらりと一つになってしまったとき、
それでは『記・紀』と『三国史記』
とに書いてあることは、
食い違う部分は嘘だったのか?
と、先まわりしすぎた方もあったかと思う。
しかし、この王名の一致は、
『三国史記』の編集者の間違いが原因で生まれた
事実無根の見かけだけのものに過ぎなかった。
一人が幾役もこなしたのではなく、
各国の王の上に君臨していた天皇の名を、
各国の王の名だと勘違いした
編集者の早とちりだったのである。
だから、『記・紀』に書かれた事件も、
『史記』や『遺事』に書かれた歴史も、
そのあらすじは本当に実在したのである。
ただその王名を、あるべき位置、
すなわち四カ国に君臨した
天皇のところへ戻しさえすれば、
奇妙な幻影は雲か霧のように消えてしまうのだ。
これが「倭の五王の真相」である。
倭の五王ばかりではない。
その前後の倭・韓の歴史は、
こうした事実を前提として
読むべきものだったのである。
だが、それは逆ではないか、
実は百済王の方が君臨していたのではないか?
という意見もあると思う。
ことに朝鮮側の学者は、
国民感情としてもそういう疑問をおもちになると思う。
その点を系譜で確かめてみよう。
┌─文周──三斤
(珎) (済) (興) │
(讃) ┌─久尓辛──毘有──蓋鹵─┤ ┌─
腆支─┤ │ (武) │
└─毘有? └─昆支──牟大─┤
│ (武)
└─武寧
興までの4代はピッタリで問題はない。
しかし、より明確になるはずの後世の部分、
『宋書』の記録者が生きていた当時である興と武の部分は、
どうみても倭の五王の記録とは合わない。
また『三国史記』の腆支から武寧に至る間の記事も、
完全に倭王とは別の同時存在になっている。
そして何よりも腆支王12年、
東晋は彼を
使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に任命し、
毘有王も3年に宋に遣使朝貢して
先王と同じこの爵号をうけている。
彼らはあくまで百済王であって倭王ではないと
『三国史記』は記録している。
この場合『宋書』は倭王は倭王とハッキリ書き、
『三国史記』も百済王は百済王と
ハッキリ書いているのである。
これを逆転させるだけの証拠群がそろわないかぎり、
百済王が倭の五王だったという
主張をうけいれる人はない。
ことに『宋書』は、
倭王と同時存在である百済王を公平に記録している。
そして常に「百済王の肩をもって」
倭王が主張する百済への君臨を認めようとはせず、
百済を削ったという事実は読者もよくご存知だ。
単純に百済王が倭の五王だったとするわけにはいかない。
では、『三国史記』の編者たちは、
そんなものをなぜ王名として
平気で記録してしまったのだろうか?
倭を嫌い敵視さえした朝鮮の史官が、
こともあろうに麗々しく、
朝鮮半島の三国が倭に隷属していたことを示す証拠を、
大量に各国の王名としてなぜ特筆大事したのか?
それはこれまでに繰り返しお話ししたように、
倭王の名と知らなかったこともあるが、
それ以前に、彼らはできるだけ
『事実』を書き残そうという真剣な気持ちで、
記録をそのまま編集したということである。
彼らはそれらが倭王の名であったことを
知っていた可能性も高い。
それでも書き残さずにはおれなかった。
「真実の追求」それこそ真の史家の資格であり、
存在価値である。
口から出まかせの講演をしたり、
売れさえすればいいという売文屋になったりと、
眉ツバものの史家の多い現在と比べて、
『三国史記』の編集者たちは、
賞賛にあたいするといわねばならない。
ただ間違ってはいけないのは、
君臨とはいっても近代の帝王のように、
経済権などまで、すべてを掌握していたのではない。
それは倭・韓の王が除正を求め、
それを
册命した宗主国としての中国の立場を考えてもわかる。
中国はたしかに一段高い地位にいて
王の任免権を握っているように見えるが、
毎年定期的に税を取り立てるわけではない。
各国が自主的に、それぞれ貢物を届けるだけである。
このことは倭王の主張にもはっきりと書かれている。
六国「諸軍事」というのは、
兵権を掌握してはいるが、
搾取する絶対王権ではない。
現代ふうにいえば、倭国の傘の下に、
朝鮮各国が入っていたということなのだ。
こうみてくると、
これまで謎に包まれたままだった
朝鮮半島への古墳の波及、
副葬品中の曲玉の存在、
大阪に巨大な産地があった須恵器の半島への
普及が別に不思議でもなくなる。
それを敵国であった高句麗までが
証明しているものさえあるのだから、
疑ってみる余地さえもなくなる。
[広開土王碑]には、はっきりとこう彫ってある。
「而(しか)るに倭、辛卯(しんぼう)年を以て
渡海し来り、百残(百済)、新羅を破り、
以て臣民と為(な)す」
しかもその高句麗もまた実は「ジンム」で
お話ししたように日本そのものだったのである。
『浦和レッズ』 『ひねもす至福の時』
『誕生日の花と花ことば』
『湘南ベルマーレ』
『サンフレッチェ広島』 《明星院・広島県(歴史&地名)他》
『広島・明星院』
『広島・明星院』
『madiのブログ』
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
139~143頁
《須恵器と北方系文化》
《陶器と古墳》
日本の陶質土器の技術的な基礎は須恵器であろう。
古墳前期には、
弥生式土器の系統をひく赤焼の土師器が、
日常雑器として、
また祭祀や葬儀にも使われていたが、
大阪府南部の丘陵地帯で、
突然大陸系の硬貨の陶質土器の生産が開始された。
これが陶器である。
学術用語としては、陶器との混乱をさけ、
「須恵器」の字をあてている。
須恵器については、雄略7年の状に、
百済から渡来した各種の工人にまじって、
新漢陶部高貴の名前がある。
陶部とは須恵器の工人推定されるところから、
この年を須恵器生産の開始とみなす研究者が多かった。
たしかに、須恵器が古墳の副葬品として普及するのは、
中期末から後期になって、つまり雄略のころであるが、
それはそのころまで須恵器が副葬品としては
必要でなかったからにすぎない。
集落遺跡で発掘されたり、
あるいは、古墳の墳丘や、
時には埴輪円筒の中へ置かれた須恵器は、
副葬品ではなく、葬送儀礼に使ったものでろうが、
最近では中期古墳でいくつも検出されている。
大山古墳と百舌鳥陵山古墳ではいずれも
造出しに古式須恵器が使われている。
これらの須恵器は、
丘陵に傾斜を利用した細長い窖窯を構築して、
還元状態で焼いてるから、
質は硬く、灰色かねずみ色をしている。
ところが、誉田山古墳にたてられている埴輪は、
もちろんその一部であろうが、須恵質のものがあって、
すでに窖窯技術が埴輪製作にも
応用されていたと考えられる。
中期古墳はすでに須恵器の時代になっていたのである。
数年前、奈良の柳本古墳群の渋谷向山古墳で、
埴輪円筒で、
埴輪円筒の底に置かれた須恵器の甑が発掘されている。
この古墳は典型的な前期の前方後円墳であり、
またその甑も古い形式に属すから、
もしこの須恵器が後の時代の混入物でないなら、
須恵器の年代をひきあげるか、
逆に大和の前期古墳の存続期間のある部分を
河内、和泉の5世紀型古墳と並存させる必要が生じた。
《大阪府南部窯址群》
古墳中期の須恵器生産は、
大阪府南部の丘陵地帯で大規模の行なわれた。
4世紀末から8世紀頃までの窯址が
約千個所は発見されているから
その盛んな状況が推察される。
ところが、
この地帯が、とりわけ窯業に適した土地でないことは、
律令制の弛緩にともなって、
9世紀になると急激におとろえ、
中世以降の窯業が、
瀬戸・常滑・備前・越前・信楽などに
移っていくことからも察知できる。
大阪府南部の生産地帯は、大部分が堺市、
一部が和泉市や狭山町にひろがっているが、
初期の窯址は、いずれも和泉国大島郡、
8世紀以前は河内国茅渟県とよばれた地域内にある。
私は研究を進める過程で、
大阪府南部窯址とか阪南窯址群とよんだが、
窯址の分布範囲外に阪南町ができたので、
大阪府南部窯址群と呼んでいる。
最近、この窯址群にたいして
陶邑古窯群とよぶ人があるようだが、
陶邑というのは、
崇神紀に大田田根子説話ででているにすぎず、
この広大な、
また数世紀にわたる窯址群の総称することはできない。
神話と歴史との混同をさける考古学に、
まぎわらしい用語をもちこむことは、暗に、
『日本書紀』を
文献批判ぬきで肯定していることになるので、
私には使えない。
大阪府南部窯址群が、
百舌鳥・古市の二大古墳群の南方に位置することは、
この古墳群に象徴される5世紀の国家的勢力が
土器生産を掌握していたのであろう。
ここでの生産物は、たんに中央の支配者の需要を
満たすだけでなく、地方の大小の豪族にも与えられ、
それが国家の政治体制を維持する一助になったことは、
全国各地に分布する古式須恵器の存在からも推測できる。
さらに興味深いのは、一体須恵器生産とは、
当時の中央政権の朝鮮半島への進出に伴って摂取された
文化現象なのか、
それとも支配者そのものが渡来者であるため、
彼ら特有の日常土器を製作する必要から
開始された政治現象かということである。
これは難解なことである。
教科書流にいえば、
大陸文化の摂取ですべては方が付くのだが、
もし土器の製作技術だけの摂取であれば、
当時の日本では普通に使っていた土師器の形態を
新技術をで作るはずであろう。
ところが須恵器の大部分は、
たとえば甑(ほぞう)のように
土師器なかった形態、別の表現をすると異なった
日常生活でないと使わない形態である。
もう一つ例をあげると、
須恵器には穀物を蒸すために
必要な甑がその最初から製作されているが、
これは古墳前期の土師器にはなかったのである。
むしろ、6世紀ごろから、
甑が消耗的性格がつよいため、
土師器で模作されるようになっている。
どうも、須恵器生産の開始の諸現象には、
大陸からの文化の摂取では説明しきれない面がある。
《豪族と須恵器》
須恵器生産は、古墳後期、つまり6世紀になると
九州・中国・四国・中部、
そして関東の一部にもひろがった。
各地の豪族の要求で、
工人たちが派遣され定着することもあれば、
一時期の生産活動で他へ立ち去ることもあったが、
須恵器は広汎に分布するようになった。
須恵器にあらわれている中期と後期の差は、
そのまま他の面にもあてはまることが多い。
新しい墓制として、
北九州や畿内で中期に出現した横穴式石室は、
後期になるとひじょうに普及を見せる。
いま一つ例をあげると、
前期古墳には全く存しなかった
金属製の耳飾りをつける風習が
中期には華麗な姿であらわれるが、
後期にはほとんどの古墳の遺骸に、
たとえ銅環に金箔をおしただけの粗末なものであっても
必ず伴うようになった。
《中期古墳の終わり》
中期において、畿内に北九州、
ときには瀬戸内海沿岸など
一部にあらわれたこれらの新しい文化は、
朝鮮半島の文化に共通した面が強い。
しかもそれは、
漢文化の影響を直接受けたものでなく、
北方の騎馬民族、
およびその系統の王が支配する諸国に源流がある。
須恵器、横穴式石室、金銀の耳飾りのほか、
金冠、乗馬に適した挂甲、
横穴式石室を飾る壁画と数えあげると
終わることを知らない。
後期とは、これらの北方的文化が
全国的に浸透した時期のことである。
中期には、奈良県島根山古墳のように、
儀器化した石製腕輪類を大量に埋納した
前期の性格を残す古墳や
群馬県藤岡市白石稲荷山古墳のように、
石製模造品が副葬品の中心をなすような古墳が、
築かれていたが、後期には見られなくなった。
私は、倭王武の墓と推定できる河内大塚の築造で、
中期は終わったとしている。
これを境にして、超大型の墳丘を営造することは、
しばらく、とだえ、中央の支配者たちの古墳も、
その規模が著しく縮小するのが後期の特色である。
それは、中央政権の衰退を物語るかも知れないが、
それは朝鮮半島における国際的関係での衰退にすぎず、
国内にあっては、
逆に支配体制を強めたことになるかも知れない。
このような状況のなかで、日本の各地で、
まさに爆発的な勢いで群集墳が出現するのである。
「写真」岩橋千塚の古墳群の群集状況:
『井辺八幡山古墳』による
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:186~188頁
《百済は大阪が先か、朝鮮半島が先か?》
まだお疑いの方は次の事実を
何と説明していただけるであろうか?
この大阪府南部には、
3世紀の景初三年(239年)の
銘の入った鏡を出土した
和泉黄金(いづみこがね)塚古墳をはじめとして、
4世紀に入ると古墳が続々と造られていく。
その中には幾度もいうように、
世界最大の墓とされるものや、
それに近い巨大なものが幾つもある。
このことはこの地域が、
当時としては世界有数の大国の一つだった
可能性を証明しているのである。
また他方、この地域ばかりでなく、
淀川以北はるばる北摂の兵陵地帯にまで
府下全域にわたる、
おびただしい
須恵器(すえき)生産の窯跡(かまあと)が
発見されている。
これまた当時としては
有数の大工業圏の実在といわねばならない。
古墳と時を同じくしたこの窯跡こそ、
当時の国力の基盤となったものの一つで、
これなくしては大古墳はあり得なかったとも考えられる。
国家の隆盛とは経済力の隆盛である。
ところが古墳時代を論じたものに、
この窯業の果たした役割について
全く気づいていないものがある。
そんなにうかつではけっして真相はつかめない。
これほど重要な要素を落としているようでは、
まともな結論が出るはずがない。
その一つが、この地方の百済帰化人感なのである。
「感」という字をわざわざ選んだのは、
それは観とか説とか呼ぶに値しない、
何の根拠も立証もない
「感じだけのもの」にすぎないからなのだ。
戦前戦後の前時代的な史学にわざわいされて、
「帰化」という言葉を亡命と感違いし、
7世紀後半の百済滅亡後、
天智三年に百済王善光らを
難波に居(はべ)らしめき、といった
「読ませ方」にまどわされて、
4世紀末に始まる
この巨大な超大国の存在を忘れた先入感だけで
「細々(ほそぼそ)とした亡命者のみじめな生活ぶり」を
空想するといった百済帰化人感のことなのである。
もうお気づきのように、
帰化人感とは「無力な亡命者」
という潜在意識なのである。
それが選りによって、
この[超大国摂河泉(せつかせん)地域]
をみじめな
「百済」に改名することが出来たという考え方は、
あまりにも不合理すぎる。
知性的ではない。
この帰化人を[応神紀]にみる
弓月(ゆづき)の君らとしてみたところで、
なぜ超大国の王である応神天皇が、
流れ者の母国名を、
自分の繁栄の中心地全帯につけるという
大改名をする必要があったか理解できない。
それは後世になってつけられた、という考え方は、
[仁徳紀]にすでに「その陵地と定めた土地を
百舌鳥耳(モズミ=百済)原という」と出ている
事実にさえ気づかないでいるのである。
この地方の百済の名はどうみても
応神~仁徳王朝そのものが
もっていた名の一つとみるほかないのだ。
<4~5世紀の百済と新羅>
○百済の拡大コース>
熊毛百済(屋久島・種子島)→大隈半島→宮崎→
大分→四国→大阪百済
○新羅の拡大コース
薩摩半島:知覧新羅(鶏林時代)→熊本→福岡:
白日別新羅(斯盧時代)→朝鮮新羅
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:220~222頁
《百済王の方が君臨していたか?》
倭・韓の王名が、ずらりと一つになってしまったとき、
それでは『記・紀』と『三国史記』
とに書いてあることは、
食い違う部分は嘘だったのか?
と、先まわりしすぎた方もあったかと思う。
しかし、この王名の一致は、
『三国史記』の編集者の間違いが原因で生まれた
事実無根の見かけだけのものに過ぎなかった。
一人が幾役もこなしたのではなく、
各国の王の上に君臨していた天皇の名を、
各国の王の名だと勘違いした
編集者の早とちりだったのである。
だから、『記・紀』に書かれた事件も、
『史記』や『遺事』に書かれた歴史も、
そのあらすじは本当に実在したのである。
ただその王名を、あるべき位置、
すなわち四カ国に君臨した
天皇のところへ戻しさえすれば、
奇妙な幻影は雲か霧のように消えてしまうのだ。
これが「倭の五王の真相」である。
倭の五王ばかりではない。
その前後の倭・韓の歴史は、
こうした事実を前提として
読むべきものだったのである。
だが、それは逆ではないか、
実は百済王の方が君臨していたのではないか?
という意見もあると思う。
ことに朝鮮側の学者は、
国民感情としてもそういう疑問をおもちになると思う。
その点を系譜で確かめてみよう。
┌─文周──三斤
(珎) (済) (興) │
(讃) ┌─久尓辛──毘有──蓋鹵─┤ ┌─
腆支─┤ │ (武) │
└─毘有? └─昆支──牟大─┤
│ (武)
└─武寧
興までの4代はピッタリで問題はない。
しかし、より明確になるはずの後世の部分、
『宋書』の記録者が生きていた当時である興と武の部分は、
どうみても倭の五王の記録とは合わない。
また『三国史記』の腆支から武寧に至る間の記事も、
完全に倭王とは別の同時存在になっている。
そして何よりも腆支王12年、
東晋は彼を
使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に任命し、
毘有王も3年に宋に遣使朝貢して
先王と同じこの爵号をうけている。
彼らはあくまで百済王であって倭王ではないと
『三国史記』は記録している。
この場合『宋書』は倭王は倭王とハッキリ書き、
『三国史記』も百済王は百済王と
ハッキリ書いているのである。
これを逆転させるだけの証拠群がそろわないかぎり、
百済王が倭の五王だったという
主張をうけいれる人はない。
ことに『宋書』は、
倭王と同時存在である百済王を公平に記録している。
そして常に「百済王の肩をもって」
倭王が主張する百済への君臨を認めようとはせず、
百済を削ったという事実は読者もよくご存知だ。
単純に百済王が倭の五王だったとするわけにはいかない。
では、『三国史記』の編者たちは、
そんなものをなぜ王名として
平気で記録してしまったのだろうか?
倭を嫌い敵視さえした朝鮮の史官が、
こともあろうに麗々しく、
朝鮮半島の三国が倭に隷属していたことを示す証拠を、
大量に各国の王名としてなぜ特筆大事したのか?
それはこれまでに繰り返しお話ししたように、
倭王の名と知らなかったこともあるが、
それ以前に、彼らはできるだけ
『事実』を書き残そうという真剣な気持ちで、
記録をそのまま編集したということである。
彼らはそれらが倭王の名であったことを
知っていた可能性も高い。
それでも書き残さずにはおれなかった。
「真実の追求」それこそ真の史家の資格であり、
存在価値である。
口から出まかせの講演をしたり、
売れさえすればいいという売文屋になったりと、
眉ツバものの史家の多い現在と比べて、
『三国史記』の編集者たちは、
賞賛にあたいするといわねばならない。
ただ間違ってはいけないのは、
君臨とはいっても近代の帝王のように、
経済権などまで、すべてを掌握していたのではない。
それは倭・韓の王が除正を求め、
それを
册命した宗主国としての中国の立場を考えてもわかる。
中国はたしかに一段高い地位にいて
王の任免権を握っているように見えるが、
毎年定期的に税を取り立てるわけではない。
各国が自主的に、それぞれ貢物を届けるだけである。
このことは倭王の主張にもはっきりと書かれている。
六国「諸軍事」というのは、
兵権を掌握してはいるが、
搾取する絶対王権ではない。
現代ふうにいえば、倭国の傘の下に、
朝鮮各国が入っていたということなのだ。
こうみてくると、
これまで謎に包まれたままだった
朝鮮半島への古墳の波及、
副葬品中の曲玉の存在、
大阪に巨大な産地があった須恵器の半島への
普及が別に不思議でもなくなる。
それを敵国であった高句麗までが
証明しているものさえあるのだから、
疑ってみる余地さえもなくなる。
[広開土王碑]には、はっきりとこう彫ってある。
「而(しか)るに倭、辛卯(しんぼう)年を以て
渡海し来り、百残(百済)、新羅を破り、
以て臣民と為(な)す」
しかもその高句麗もまた実は「ジンム」で
お話ししたように日本そのものだったのである。
2016年1月10日日曜日
倭の五王と古墳
『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
『浦和レッズ』 『ひねもす至福の時』
『誕生日の花と花ことば』
『湘南ベルマーレ』『サンフレッチェ広島』
《明星院・広島県(歴史&地名)他》
『広島・明星院』
『広島・明星院』
『madiのブログ』
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
135~137頁
《倭の五王と古墳》
《讃・珍・済・興・武》
中国の史書から古墳の年代を知ることの
むずかしさについては
『魏志』に記された卑弥呼の冢で少し述べた。
13回にわたる倭国と宋(南朝)の
外交関係を記録しており、
さらに『梁書』などにもその後の状況を
二度記録している。
この一連の外交記事に登場する
讃・珍・済・興・武の国王を
倭の五王と総称している。
倭の五王を中央政権の大王という前提にたって、
一字一音で表している倭王たちが
漢風諡号でのどの天皇にあたるかの
研究は古くから盛んであり、
最後の王からたどると、
武・雄略、
興・安康、
済・允恭、
珍・反正の四人の関係については
異説がほとんどないが、
讃は仁徳説と履中説がある。
このほか、
石上神宮に伝世してきた鉄製の七支刀の銘文から、
旨という一字表現の倭王の存在を
推定することもできる。
七支刀は、
百済製で4世紀後半の年号を刻んでおり、
それは中期のごく初めか直前にあたるだろう。
私が興味をおぼえるのは、
『魏志』では日本側の国王を
卑弥呼や壹與と表現し、
飛鳥時代の状況を述べた『隋書』でも、
姓は阿毎、字は多利思比孤などと
日本音で記しているのに、
古墳中期の倭王だけを、
例外なく一字一音の漢字で記していることである。
これは中期の国王たちが、
中国への遣使にさいして便宜的に
中国流の表現をしたのでなく、
そのように
自ら称していたのではないかと考えている。
古墳中期に倭の五王が南朝と交渉をもっていたことは
文化のうえでどのような影響があったのであろうか。
しかしその前に倭の五王の陵について
もう少し説明しておこう。
百舌鳥古墳群の盟主は大山古墳である。
仁徳陵に指定されている
わが国最大の前方後円墳である。
この前方部から、
明治5年に竪穴式石室が発見され、
長持形石棺のそばに
金銅製の甲冑などが置かれていた。
それから年代を割出すと、
現在履中陵に指定されている
古墳の陪塚七観山から出土した
甲冑や武器類のほうが
古そうだという意見がでている。
技術面から説明すると、
大山古墳前方部の甲冑は金銅装をほどこした
鉄板と鉄板とを鋲留にする技術で製作しており、
これにたいして七観山の方は、
一般的には、
革綴の技術が鋲留に先行することは、
同じ形式の短甲についてはいえることである。
仁徳と履中の関係は父と子であるから、
現在、履中陵に指定されているのが仁徳陵で、
大山古墳が履中陵とする説や、
さらに仁徳の実在を認めず、
大山古墳を反正陵とする説などがではじめている。
大山古墳の年代についての疑問は
尊重されるべきだが、
一つの問題がある。
というのは、
七観山との比較の対象が前方部の石室や
その副葬品であり、
当然この古墳の本来の被葬者は後円部に
埋葬されているだろうということである。
後円部とは別に、
前方部にもしばしば埋葬施設はあるけれども、
大山古墳の場合は、
前方部でも頂上から下の斜面であり、
特異な埋葬個所である。
仮に、前方部のこの埋葬が、
大山古墳の本来の埋葬より
相当おくれている場合は、
仁徳陵を積極的に否定したことにならないが、
その逆の場合は、
仁徳陵かどうか根本的な検討がいる。
すでに発表したことだが、
大山古墳の墳丘の長さは486メートルである。
これは適当に設計した結果の偶然の数字であろうか。
私は戦後に中国大陸で発掘された
二本の物差しに注目した。
一つは、洛陽の晋代の古墳から出土した骨尺で、
その目盛では一寸が2.4センチになる。
同じ単位の骨尺は、
遼陽の古墳からも発掘されていて、
4世紀ごろの中国で使用されていた
物差の一寸は2.4センチ、
一尺が24センチであることの
推定ができるようなった。
この物差をあてはめると、
大山古墳の墳丘は、当時の中国尺の二千尺、
後円部の直径が千尺ではなかったかということが
仮説としてうかんできた。
このように、
古墳中期に中国からうけいれた文化の一つが、
晋尺であったことが推定されるようになったが、
副葬品のも種々の中国製品がある。
晋の時代の古墳からは、
前漢や後漢時代の銅鏡と共に
位至三公鏡が多数出土していて、
晋代に流行していたことが分かるが、
位至三公鏡は前期古墳に少なく、
百舌鳥古墳群をはじめ中期古墳に多い。
これも南朝との交渉がもたらしたのであろう。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《履中陵・第2の被葬者?》
前方部、謎の円丘(付近から形象はにわ)
大阪府堺市の履中天皇陵
(上石津ミサンザイ古墳)から出土、
宮内庁書陵部が保管するはにわの公開で、
同陵前方部に被葬者とは別の重要人物が
埋葬されているとの見方が、
27日までの考古学者の分析で強まった。
前方部に類例のない円丘があり、この付近から、
通常埋葬施設の上部に配置する形象はにわが
見つかっているため、
巨大古墳築造をめぐる謎がさらに深まった。
履中陵は、
世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の南にあり、
縦の長さは360メートル、
後円部の直径200メートル、
全国3番目に規模の前方後円墳で、
築造形式などから5世紀初めごろのものとされる。
墳丘上は未調査だが、
測量で平たんな前方部の南端に庇のようなくぼみに
囲まれた直径約30メートル、
高さは数メートルの円丘が確認され、謎とされてきた。
宮内庁が研究者らを対象に
初公開したはにわは家形や杯形、
靭形などの形象はにわ・18点で、
いずれも5世紀初めの様式。
1986年12月、
地元の大学生がこの円丘付近から盗掘し、
押収されたものが中心。
白石太一郎・国立歴史民族博物館教授によると、
通常は後円部に主たる被葬者を葬り、
その上部に家形はにわなどを
方形に配置、周囲に杯形はにわなどを並べる。
写真:履中陵の前方部から出土した
盃形はにわ=宮内庁書陵部展示目録から
(毎日新聞:1994.10.28)
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《仁徳陵・被葬者は別人?
(後継・履中陵より新しい可能性)》
宮内庁公開(はにわ比較で確認)・5世紀後半築造か?
大阪府堺市にある
世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造年代は、
次代の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)より遅い
5世紀後半である可能性が大きくなった。
25日、宮内庁書陵部が公開した
陵墓出土のはにわの比較によるもので、
2陵の築造順が墳丘出土遺物で確認されるのは初めて。
仁徳天皇は5世紀初めごろ在位したとされるが、
築造時期と食い違うことから
被葬者は別人との見方も強まっている。
公開は考古学や古代史の研究者らが対象。
陵墓周辺で採集、保管している遺物のうち
仁徳陵人物形はにわ(女子頭部)など
既に公開したものを含め194点を展示した。
履中陵前方部の形象はにわ38点は
1986年に盗掘直後押収されたものなどで初公開。
白石太一郎国立歴史民族博物館教授(考古学)によると、
仁徳陵後円部墳丘上から出土した
円筒はにわ片の大半は穴窯焼きで、
5世紀後半に当たる
はにわ編年・Ⅳ期の特徴を備える。
履中陵の円筒はにわ片は
黒い斑があり野焼きしたとみられ
5世紀初めのはにわ編年・Ⅲ期に相当するという。
履中陵前方部から出土した靭形はにわは、
奈良県御所市の宮山古墳(5世紀初め)のものと酷似、
円筒はにわの時期と一致している。
一方、古田恵二・国学院大教授(考古学)は
「仁徳陵のはにわは5世紀中ごろと思われ、
履中陵と同時期の可能性もある」
と慎重な見方を示す。
写真:百舌鳥古墳群の仁徳陵(中央)と
履中陵(左)大阪府堺市で1992年撮影
写真:仁徳陵出土の人物形はにわ(女子頭部)と
履中陵の前方部から出土した
靭形はにわ=いずれも宮内庁書陵部展示目録
(毎日新聞:1994.10.26)
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《天皇陵関連の参考事項》
倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国
ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から
台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=
倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)奄美では国名は…
ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。
これが「大国主」の名の始まりで、
7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、
大化までは継続した。
しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。
さらに大分県宇佐に移動。
『宋書』の倭国伝に記録された
倭王・武の視点はこの宇佐にある。
その後、さらに四国愛媛に移動、
次第に讃岐・阿波へと拡大した。
これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。
当時倭の五王時代の始まった4世紀で、
さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。
大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、
これは沖縄語の「キノ国」のこと。
この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、
これ大と紀州を取ったことを意味している。
天皇名は去来穂別=履中天皇。
去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。
二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。
和泉の王が「倭済(イスミ)。
河内(コウチ)の王が「興」。
「武(タケシ)」にいたって
ヤット奈良県に入って「高市(タケチ)」国を始めた。
これが神武奈良東征の原型になる。
その神武(カム・タケシ)という当て字は、
この倭王・武を指している。
だが、
『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が
混入している。
その神武東征の内容は、
3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが
最大のウェイトを占めているし、
さらに遡って、
紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。
これが神武紀元を
紀元前660年に決めさせた原因である。
日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。
基礎に一か所、駄目なところがあれば、
全てが崩壊してしまう。
これは何も歴史研究だけが特別なのではない。
それは現実が教える。
近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。
それは建築の進歩による。
同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、
それを立証している。
人生も、研究もすべて同じことなのだ。
キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、
自分の未来も、
ずっと以前から明瞭に見えているものである。
よく考えることをしないで
「幸福を神に祈っても駄目」である。
なぜなら「神」は実在し、
「霊」も長く死なずに生き続けている。
それはDNAの中にいるのである。
「よく考え、瞑想して」
その神や霊と話さなければ、
神も霊も教えようがない。
他のことに夢中になっていては
悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《神の贈り物》
「仁徳天皇陵」
1994.10.25日宮内庁が公開した
この陵出土埴輪の比較から、
この陵よりも、次の代の履中天皇の建造
時期が古く、
仁徳天皇陵は5世紀後半ごろのものと確認された。
これは私がはっきり特定した「百済王・蓋鹵」が
建造したものだという事実の正しさの証明である。
彼は『三国史記』では475年に死んだとある。
「履中天皇陵」
1994.10.28日づけの毎日新聞一面の記事はまた、
それに関連して、
この陵の前方部に「謎の円丘」が
あることが確認されて不思議がっているが、
これも古墳はストゥーパであるという
私(加治木義博)の説を立証したもので、
応神陵は九輪まであった事実を、
サーンチーの大ストゥーバの写真を添えて、
写真で説明しておいたから、
読者には何の不思議もないと思う。
「伊勢神宮のルーツ」
1994.10.29日午後5時すぎのNHKテレビ総合の番組は
「棟持ち柱」のルーツを中心に、
日本人のルーツが東南アジ経由だと、
鹿児島の王子遺跡の写真などを見せ、
スラウエシのトラジャ族の家屋と
伊勢神宮のそれとを比較して見せていた。
それは『邪馬臺国の言葉』に
私(加治木義博)が
昭和51年(1976)に書いたもので、
20年近くかかって、
やっと定説として認められたことになる。
こんなふうに私が先を読めるのは、
何も不思議ではない。
それは超能力ではなく、
歴史を正しく見る方法を発見したからなのである。
それは、
一方ではノストラダムスの予言詩を
正しく解読させてくれたし、
『黙示録』も目で見るように
未来を見る案内書にしてくれた。
そしてこの2つの文献
『カピトーリウム神託集』を参考にしている。
が、
それは卑弥呼らが宇佐托宜集などに
残したものと同じものなのである。
歴史は個人の運命までは見通せないが、
大まかな事件のパターンと周期を記録している。
人類はDNAの中に
大掛かりなコンピュータを持っている。
その容量は凄いものである。
なぜそれがわかるか…?。
それはハヤトウリなどの知恵の凄さを見ればわかる。
彼等は今年の異常気象をすべて予知していて、
開花時期を遅らせ、
結実を見事にコントロールしている。
見たところどこにも脳のない植物が
そんな知識と知恵と能力を
持っているのだから、
人類がそれ以上のものを持っているのは
当然なのである。
ただその使い方を知らず、
間違った生き方をしているだけなのだ。
そして早く老人になり廃人になり、
健全な人の邪魔をする。
実に愚かなことだ。
人は人生にも健康にももっと
責任を持たねばならないと思う。
幸福の「コツ」は、
何事も「いい加減にしない」
すべてを
「キチンと始末する」こと。
始末とは初めから終わりまで
完全にということなのである。
世界で続発する事件は、
大事故、大災害、戦争、
そして王室スキャンダルに至るまですべて
「いい加減」に原因しているのである。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
大学講義録30:24頁
《「倭の五王」治世年の文献別比較》
名 『宋書』 年 『日本書紀』年 『三国史記』新羅 年 『三国史記』百済 年
讃 421~425 仁徳天皇 87 訥祇 417~458 42 典支 405~420 20
珍 425~443 19 履中天皇 6 慈悲 458~479 22 久尓辛420~427 8
済 443~451 8 反正天皇 5 照知 479~500 22 毘有 427~455 29
興 462~478 17 允恭天皇 42 智証 500~514 15 蓋鹵 455~475 21
安康天皇 3 文周 475~477 3
武 478~ 雄略天皇 23 『三国史記』高句麗 長寿 412~491 79
※「訥祇(トッキ)・
照知(ゼウス)・
典支(テンキ)・
久尓辛(クジシ)・
毘有(ビウ)・
文周(モズ)」
『宋書』の記事は、讃は死ぬ前だけ、
武は即位前後だけで、
全治世年数は不明だが、あとの3人はだいたいわかる。
それを『日本書紀』の治世年数と比べてみると、
どれくらい違うか、よくわかる。
これは『宋書』はウソを書く必要がないから、
客観的にありのまま書いているのに対し、
『日本書紀』は対中国宣伝文書という性格上、
どうしても幾らかの小細工がしてある。
史実を復元するためには、
『宋書』によって『日本書紀』を修正することが、
重要な出発点になるのである。
またそれには当時の倭国連邦の内にあって、
自国の王として天皇の事跡を記録している
朝鮮半島の『三国史記』も役立てなければならない。
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
138頁
《大山古墳の復原》
先に紹介した
明治5年発見の大山古墳の石室内の状況は、
当時の古図や記録で、ほぼ復原することができる。
それによると、石棺東方に
「此所ニ甲冑 硝子杯太刀金具ノ破裂等アリ」
と記されているが、この硝子杯というのは、
それを実見したいという黒川真頼の説明では
「硝子製の器二箇あり。
一つは瑠璃色にして壺のごときもの。
一つは白色にして皿のごときものなり」とある。
しかし何分にも実物が埋められ、
図もないので暗中模索であったが、
幸い昭和38年に奈良県新沢千塚126号墳の発掘で、
コバルト色の皿に白色のカットグラスの小壺形の碗が
セットになって、
金色燦然たる装身具とともに埋めているのを
自分の手で掘り出すことができた。
この硝子器については『ミュジアム』誌上で
「ガラス器を出土した古墳」の一文で紹介したが、
それは世に有名な河内の
古市築山(安閑陵)古墳出土の
玉碗や正倉院のガラス器のように厚手ではなく、
ひじょうに薄手で、
年代も厚手より遡ることがわかった。
中国では、同じような薄手ガラス器が
南方の広州の古墳から出土しており、
このようなペルシャ製のガラス器が中国を通り
日本へはるばるもたらされたのである。
新沢のガラス皿には、人物、動物、樹木などの
絵がつけられていて、本場のペルシャでもまだ
これほどの遺品が発見されていない。
5世紀における南朝との交渉で日本へ伝えられたのが、
中国製品だけでなかったわけで、
当時の雄大な国際関係に驚嘆するほかない。
「古墳」
「前方後円墳」
「陪塚」
「横穴式石室」
「竪穴式石室」
「銅鏡」
「鉄剣」
「銅鐸」
≪歴史関連リンク≫
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
全国の古墳巡り
『天皇陵』
『古墳マップ』
『古墳』
『日本の古墳一覧』
『Category:日本の古墳』
『Category:日本の古墳画像』
Category:日本の陵墓の画像
堺市デジタル古墳百科
古墳のお部屋
装飾古墳データベース
考古用語辞典
『浦和レッズ』 『ひねもす至福の時』
『誕生日の花と花ことば』
『湘南ベルマーレ』『サンフレッチェ広島』
《明星院・広島県(歴史&地名)他》
『広島・明星院』
『広島・明星院』
『madiのブログ』
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
135~137頁
《倭の五王と古墳》
《讃・珍・済・興・武》
中国の史書から古墳の年代を知ることの
むずかしさについては
『魏志』に記された卑弥呼の冢で少し述べた。
13回にわたる倭国と宋(南朝)の
外交関係を記録しており、
さらに『梁書』などにもその後の状況を
二度記録している。
この一連の外交記事に登場する
讃・珍・済・興・武の国王を
倭の五王と総称している。
倭の五王を中央政権の大王という前提にたって、
一字一音で表している倭王たちが
漢風諡号でのどの天皇にあたるかの
研究は古くから盛んであり、
最後の王からたどると、
武・雄略、
興・安康、
済・允恭、
珍・反正の四人の関係については
異説がほとんどないが、
讃は仁徳説と履中説がある。
このほか、
石上神宮に伝世してきた鉄製の七支刀の銘文から、
旨という一字表現の倭王の存在を
推定することもできる。
七支刀は、
百済製で4世紀後半の年号を刻んでおり、
それは中期のごく初めか直前にあたるだろう。
私が興味をおぼえるのは、
『魏志』では日本側の国王を
卑弥呼や壹與と表現し、
飛鳥時代の状況を述べた『隋書』でも、
姓は阿毎、字は多利思比孤などと
日本音で記しているのに、
古墳中期の倭王だけを、
例外なく一字一音の漢字で記していることである。
これは中期の国王たちが、
中国への遣使にさいして便宜的に
中国流の表現をしたのでなく、
そのように
自ら称していたのではないかと考えている。
古墳中期に倭の五王が南朝と交渉をもっていたことは
文化のうえでどのような影響があったのであろうか。
しかしその前に倭の五王の陵について
もう少し説明しておこう。
百舌鳥古墳群の盟主は大山古墳である。
仁徳陵に指定されている
わが国最大の前方後円墳である。
この前方部から、
明治5年に竪穴式石室が発見され、
長持形石棺のそばに
金銅製の甲冑などが置かれていた。
それから年代を割出すと、
現在履中陵に指定されている
古墳の陪塚七観山から出土した
甲冑や武器類のほうが
古そうだという意見がでている。
技術面から説明すると、
大山古墳前方部の甲冑は金銅装をほどこした
鉄板と鉄板とを鋲留にする技術で製作しており、
これにたいして七観山の方は、
一般的には、
革綴の技術が鋲留に先行することは、
同じ形式の短甲についてはいえることである。
仁徳と履中の関係は父と子であるから、
現在、履中陵に指定されているのが仁徳陵で、
大山古墳が履中陵とする説や、
さらに仁徳の実在を認めず、
大山古墳を反正陵とする説などがではじめている。
大山古墳の年代についての疑問は
尊重されるべきだが、
一つの問題がある。
というのは、
七観山との比較の対象が前方部の石室や
その副葬品であり、
当然この古墳の本来の被葬者は後円部に
埋葬されているだろうということである。
後円部とは別に、
前方部にもしばしば埋葬施設はあるけれども、
大山古墳の場合は、
前方部でも頂上から下の斜面であり、
特異な埋葬個所である。
仮に、前方部のこの埋葬が、
大山古墳の本来の埋葬より
相当おくれている場合は、
仁徳陵を積極的に否定したことにならないが、
その逆の場合は、
仁徳陵かどうか根本的な検討がいる。
すでに発表したことだが、
大山古墳の墳丘の長さは486メートルである。
これは適当に設計した結果の偶然の数字であろうか。
私は戦後に中国大陸で発掘された
二本の物差しに注目した。
一つは、洛陽の晋代の古墳から出土した骨尺で、
その目盛では一寸が2.4センチになる。
同じ単位の骨尺は、
遼陽の古墳からも発掘されていて、
4世紀ごろの中国で使用されていた
物差の一寸は2.4センチ、
一尺が24センチであることの
推定ができるようなった。
この物差をあてはめると、
大山古墳の墳丘は、当時の中国尺の二千尺、
後円部の直径が千尺ではなかったかということが
仮説としてうかんできた。
このように、
古墳中期に中国からうけいれた文化の一つが、
晋尺であったことが推定されるようになったが、
副葬品のも種々の中国製品がある。
晋の時代の古墳からは、
前漢や後漢時代の銅鏡と共に
位至三公鏡が多数出土していて、
晋代に流行していたことが分かるが、
位至三公鏡は前期古墳に少なく、
百舌鳥古墳群をはじめ中期古墳に多い。
これも南朝との交渉がもたらしたのであろう。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《履中陵・第2の被葬者?》
前方部、謎の円丘(付近から形象はにわ)
大阪府堺市の履中天皇陵
(上石津ミサンザイ古墳)から出土、
宮内庁書陵部が保管するはにわの公開で、
同陵前方部に被葬者とは別の重要人物が
埋葬されているとの見方が、
27日までの考古学者の分析で強まった。
前方部に類例のない円丘があり、この付近から、
通常埋葬施設の上部に配置する形象はにわが
見つかっているため、
巨大古墳築造をめぐる謎がさらに深まった。
履中陵は、
世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の南にあり、
縦の長さは360メートル、
後円部の直径200メートル、
全国3番目に規模の前方後円墳で、
築造形式などから5世紀初めごろのものとされる。
墳丘上は未調査だが、
測量で平たんな前方部の南端に庇のようなくぼみに
囲まれた直径約30メートル、
高さは数メートルの円丘が確認され、謎とされてきた。
宮内庁が研究者らを対象に
初公開したはにわは家形や杯形、
靭形などの形象はにわ・18点で、
いずれも5世紀初めの様式。
1986年12月、
地元の大学生がこの円丘付近から盗掘し、
押収されたものが中心。
白石太一郎・国立歴史民族博物館教授によると、
通常は後円部に主たる被葬者を葬り、
その上部に家形はにわなどを
方形に配置、周囲に杯形はにわなどを並べる。
写真:履中陵の前方部から出土した
盃形はにわ=宮内庁書陵部展示目録から
(毎日新聞:1994.10.28)
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《仁徳陵・被葬者は別人?
(後継・履中陵より新しい可能性)》
宮内庁公開(はにわ比較で確認)・5世紀後半築造か?
大阪府堺市にある
世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造年代は、
次代の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)より遅い
5世紀後半である可能性が大きくなった。
25日、宮内庁書陵部が公開した
陵墓出土のはにわの比較によるもので、
2陵の築造順が墳丘出土遺物で確認されるのは初めて。
仁徳天皇は5世紀初めごろ在位したとされるが、
築造時期と食い違うことから
被葬者は別人との見方も強まっている。
公開は考古学や古代史の研究者らが対象。
陵墓周辺で採集、保管している遺物のうち
仁徳陵人物形はにわ(女子頭部)など
既に公開したものを含め194点を展示した。
履中陵前方部の形象はにわ38点は
1986年に盗掘直後押収されたものなどで初公開。
白石太一郎国立歴史民族博物館教授(考古学)によると、
仁徳陵後円部墳丘上から出土した
円筒はにわ片の大半は穴窯焼きで、
5世紀後半に当たる
はにわ編年・Ⅳ期の特徴を備える。
履中陵の円筒はにわ片は
黒い斑があり野焼きしたとみられ
5世紀初めのはにわ編年・Ⅲ期に相当するという。
履中陵前方部から出土した靭形はにわは、
奈良県御所市の宮山古墳(5世紀初め)のものと酷似、
円筒はにわの時期と一致している。
一方、古田恵二・国学院大教授(考古学)は
「仁徳陵のはにわは5世紀中ごろと思われ、
履中陵と同時期の可能性もある」
と慎重な見方を示す。
写真:百舌鳥古墳群の仁徳陵(中央)と
履中陵(左)大阪府堺市で1992年撮影
写真:仁徳陵出土の人物形はにわ(女子頭部)と
履中陵の前方部から出土した
靭形はにわ=いずれも宮内庁書陵部展示目録
(毎日新聞:1994.10.26)
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《天皇陵関連の参考事項》
倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国
ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から
台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=
倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)奄美では国名は…
ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。
これが「大国主」の名の始まりで、
7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、
大化までは継続した。
しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。
さらに大分県宇佐に移動。
『宋書』の倭国伝に記録された
倭王・武の視点はこの宇佐にある。
その後、さらに四国愛媛に移動、
次第に讃岐・阿波へと拡大した。
これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。
当時倭の五王時代の始まった4世紀で、
さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。
大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、
これは沖縄語の「キノ国」のこと。
この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、
これ大と紀州を取ったことを意味している。
天皇名は去来穂別=履中天皇。
去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。
二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。
和泉の王が「倭済(イスミ)。
河内(コウチ)の王が「興」。
「武(タケシ)」にいたって
ヤット奈良県に入って「高市(タケチ)」国を始めた。
これが神武奈良東征の原型になる。
その神武(カム・タケシ)という当て字は、
この倭王・武を指している。
だが、
『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が
混入している。
その神武東征の内容は、
3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが
最大のウェイトを占めているし、
さらに遡って、
紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。
これが神武紀元を
紀元前660年に決めさせた原因である。
日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。
基礎に一か所、駄目なところがあれば、
全てが崩壊してしまう。
これは何も歴史研究だけが特別なのではない。
それは現実が教える。
近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。
それは建築の進歩による。
同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、
それを立証している。
人生も、研究もすべて同じことなのだ。
キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、
自分の未来も、
ずっと以前から明瞭に見えているものである。
よく考えることをしないで
「幸福を神に祈っても駄目」である。
なぜなら「神」は実在し、
「霊」も長く死なずに生き続けている。
それはDNAの中にいるのである。
「よく考え、瞑想して」
その神や霊と話さなければ、
神も霊も教えようがない。
他のことに夢中になっていては
悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
《神の贈り物》
「仁徳天皇陵」
1994.10.25日宮内庁が公開した
この陵出土埴輪の比較から、
この陵よりも、次の代の履中天皇の建造
時期が古く、
仁徳天皇陵は5世紀後半ごろのものと確認された。
これは私がはっきり特定した「百済王・蓋鹵」が
建造したものだという事実の正しさの証明である。
彼は『三国史記』では475年に死んだとある。
「履中天皇陵」
1994.10.28日づけの毎日新聞一面の記事はまた、
それに関連して、
この陵の前方部に「謎の円丘」が
あることが確認されて不思議がっているが、
これも古墳はストゥーパであるという
私(加治木義博)の説を立証したもので、
応神陵は九輪まであった事実を、
サーンチーの大ストゥーバの写真を添えて、
写真で説明しておいたから、
読者には何の不思議もないと思う。
「伊勢神宮のルーツ」
1994.10.29日午後5時すぎのNHKテレビ総合の番組は
「棟持ち柱」のルーツを中心に、
日本人のルーツが東南アジ経由だと、
鹿児島の王子遺跡の写真などを見せ、
スラウエシのトラジャ族の家屋と
伊勢神宮のそれとを比較して見せていた。
それは『邪馬臺国の言葉』に
私(加治木義博)が
昭和51年(1976)に書いたもので、
20年近くかかって、
やっと定説として認められたことになる。
こんなふうに私が先を読めるのは、
何も不思議ではない。
それは超能力ではなく、
歴史を正しく見る方法を発見したからなのである。
それは、
一方ではノストラダムスの予言詩を
正しく解読させてくれたし、
『黙示録』も目で見るように
未来を見る案内書にしてくれた。
そしてこの2つの文献
『カピトーリウム神託集』を参考にしている。
が、
それは卑弥呼らが宇佐托宜集などに
残したものと同じものなのである。
歴史は個人の運命までは見通せないが、
大まかな事件のパターンと周期を記録している。
人類はDNAの中に
大掛かりなコンピュータを持っている。
その容量は凄いものである。
なぜそれがわかるか…?。
それはハヤトウリなどの知恵の凄さを見ればわかる。
彼等は今年の異常気象をすべて予知していて、
開花時期を遅らせ、
結実を見事にコントロールしている。
見たところどこにも脳のない植物が
そんな知識と知恵と能力を
持っているのだから、
人類がそれ以上のものを持っているのは
当然なのである。
ただその使い方を知らず、
間違った生き方をしているだけなのだ。
そして早く老人になり廃人になり、
健全な人の邪魔をする。
実に愚かなことだ。
人は人生にも健康にももっと
責任を持たねばならないと思う。
幸福の「コツ」は、
何事も「いい加減にしない」
すべてを
「キチンと始末する」こと。
始末とは初めから終わりまで
完全にということなのである。
世界で続発する事件は、
大事故、大災害、戦争、
そして王室スキャンダルに至るまですべて
「いい加減」に原因しているのである。
出典:加治木義博・言語復原史学会・
「講演 (1994.10.30 レジメ)」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
大学講義録30:24頁
《「倭の五王」治世年の文献別比較》
名 『宋書』 年 『日本書紀』年 『三国史記』新羅 年 『三国史記』百済 年
讃 421~425 仁徳天皇 87 訥祇 417~458 42 典支 405~420 20
珍 425~443 19 履中天皇 6 慈悲 458~479 22 久尓辛420~427 8
済 443~451 8 反正天皇 5 照知 479~500 22 毘有 427~455 29
興 462~478 17 允恭天皇 42 智証 500~514 15 蓋鹵 455~475 21
安康天皇 3 文周 475~477 3
武 478~ 雄略天皇 23 『三国史記』高句麗 長寿 412~491 79
※「訥祇(トッキ)・
照知(ゼウス)・
典支(テンキ)・
久尓辛(クジシ)・
毘有(ビウ)・
文周(モズ)」
『宋書』の記事は、讃は死ぬ前だけ、
武は即位前後だけで、
全治世年数は不明だが、あとの3人はだいたいわかる。
それを『日本書紀』の治世年数と比べてみると、
どれくらい違うか、よくわかる。
これは『宋書』はウソを書く必要がないから、
客観的にありのまま書いているのに対し、
『日本書紀』は対中国宣伝文書という性格上、
どうしても幾らかの小細工がしてある。
史実を復元するためには、
『宋書』によって『日本書紀』を修正することが、
重要な出発点になるのである。
またそれには当時の倭国連邦の内にあって、
自国の王として天皇の事跡を記録している
朝鮮半島の『三国史記』も役立てなければならない。
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著
138頁
《大山古墳の復原》
先に紹介した
明治5年発見の大山古墳の石室内の状況は、
当時の古図や記録で、ほぼ復原することができる。
それによると、石棺東方に
「此所ニ甲冑 硝子杯太刀金具ノ破裂等アリ」
と記されているが、この硝子杯というのは、
それを実見したいという黒川真頼の説明では
「硝子製の器二箇あり。
一つは瑠璃色にして壺のごときもの。
一つは白色にして皿のごときものなり」とある。
しかし何分にも実物が埋められ、
図もないので暗中模索であったが、
幸い昭和38年に奈良県新沢千塚126号墳の発掘で、
コバルト色の皿に白色のカットグラスの小壺形の碗が
セットになって、
金色燦然たる装身具とともに埋めているのを
自分の手で掘り出すことができた。
この硝子器については『ミュジアム』誌上で
「ガラス器を出土した古墳」の一文で紹介したが、
それは世に有名な河内の
古市築山(安閑陵)古墳出土の
玉碗や正倉院のガラス器のように厚手ではなく、
ひじょうに薄手で、
年代も厚手より遡ることがわかった。
中国では、同じような薄手ガラス器が
南方の広州の古墳から出土しており、
このようなペルシャ製のガラス器が中国を通り
日本へはるばるもたらされたのである。
新沢のガラス皿には、人物、動物、樹木などの
絵がつけられていて、本場のペルシャでもまだ
これほどの遺品が発見されていない。
5世紀における南朝との交渉で日本へ伝えられたのが、
中国製品だけでなかったわけで、
当時の雄大な国際関係に驚嘆するほかない。
「古墳」
「前方後円墳」
「陪塚」
「横穴式石室」
「竪穴式石室」
「銅鏡」
「鉄剣」
「銅鐸」
≪歴史関連リンク≫
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
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