2016年1月7日木曜日

天皇陵と考古学

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 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    127~130頁

 《天皇陵と考古学》

 《資料にみる天皇陵の問題点》

 この書物の旧版では、仲哀陵古墳のように、

 陵の下に古墳を重ねる書き方をしてきた。

 実は、

 古墳時代に築造されたと推定される天皇陵のうち、

 古代学の方法で

 ほぼ承認できるのはごくわずかである。

 宮内庁が御陵墓に指定している各地の古墳で、

 古市にある応神陵(この問題はあとでふれる)、

 京都市山科にある天智陵、

 奈良県明日香村の天武・持統合葬陵は以外は、

 疑問があるか、

 そうでなくても積極的に正しさを

 証明する手段が欠けている。

 後者のような場合、

 宮内庁が仲哀陵と指定している古墳の意味で、

 陵と古墳を重複させて

 古墳の固有名として使ったけれども、

 この版からは、

 すでにみたような普通の遺跡名を使っている。

 『記・紀』では、大部分の天皇について、

 その没年と陵墓所在地または陵名を記載している。

 例を仁徳天皇にとると、

 『古事記』では

 「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」

 と所在地を記し、

 『日本書紀』では、

 「百舌鳥(もず)野陵の葬しまつる」

 と陵名を記載している。

 ところが、記紀にでている陵の所在地が

 どれほど正確であるかどうかまずわからないし、

 仮に所在する地域が特定の古墳群として

 大きく把握できても、

 その古墳群のどの古墳が陵であるかの

 区別がむずかしい。

 仁徳陵についての記載で説明すると、

 毛受または百舌鳥の地名から、

 それは百舌鳥古墳群内にあると限定はできても、

 その群内のどの古墳が

 仁徳陵に当たるのかがわかりにくいのである。
 
 氷室のところでも使用した

 『延喜式』のなかに陵墓に関する項目がある。

 ここでは、

 陵名、被葬者、所在地、規模、直接の

 管理者の順で記載されている。

 これも仁徳陵を例にしておこう。

 「百舌鳥耳原中陵、

  難波高津御宇仁徳天皇和泉国大鳥郡に在り。

  兆域東西八町、南北八町。陵戸五烟」

 『延喜式』では、

 仁徳陵の所在地のように国郡までを書いて、

 今の市町村に当たる地名が

 省かれているのは困るけれども、

 百舌鳥古墳群は

 和泉国大鳥郡内にあるので大きな誤りはない。

 また兆域というのは、墳丘の規模だけでなく、

 濠やさらに外側の周庭帯を含んだ

 墓域のことであるが、

 東西、南北八町というのは、

 『延喜式』の記載では、

 百舌鳥にある陵のうち最大の規模であり、

 この点では今日御指定になっている

 仁徳陵古墳

 (土地での名称をとって大仙古墳)で

 矛盾はないことである。

 ところが『延喜式』が編集されるより以前の

 承和十(843)年に

 天皇陵の位置に混乱があったことを

 『続日本後紀』は記録している。

 それは、

 「その年の三月に、

  盾列陵で二度にわたる

  山鳴りなどの異変があったので、

  政府で古い図録を調べたところ、

  盾列陵は二つあり、

  北が神功皇后陵、

  南が成務天皇陵であることがわかった。

  それを反対にしていたため、

  神功皇后の祟りがあると、

  その毎に成務陵へ謝りの使者を

  派遣していた。」という。

 佐紀盾列古墳群は平城京のすぐ北に接していて、

 しかも承和十年といえば、

 都が奈良をはなれて半世紀しかたっていない。

 もっとも管理がゆきとどいていたはずの盾列でも

 このような混乱があるのだから、

 『延喜式』の記載を

 そのままに信じることができないのである。

 《天皇陵についての私見》

 古代史家の藤間生大氏は、個々の陵はもとより、

 『記・紀』や『延喜式』にでている

 陵の所在地に疑問をもっている。

 藤間氏の著書『倭の五王』では、

 現在の仁徳陵が允恭陵であり、

 現在の応神陵を反正陵だと考定しておられる。

 これは、

 主として中国資料にあらわれた国際関係と

 倭の国王との関係の変化でとらえたもので、

 一つの方法によった一仮説である。

 宮内庁に『山陵図』という図巻が伝えられている。

 幕末に尊皇攘夷運動が高まると、

 幕府では対朝廷政策、

 つまり融和政策として、

 天皇陵の修築事業を大規模に行なった。

 とくに下関事件や薩英戦争のあった

 文久三(1863)年がその頂点であり、

 当時の金で12万両、修築の対象になった

 陵墓が約百という大規模なものであった。

 このとき修築された天皇陵は、

 ほとんどそのまま明治政府によって

 天皇陵に指定され、

 今日に至っているのだが、

 『山陵図』では、

 各陵について、

 修築前と、以後の二通りの写生図を収録している。

 それは木一本、畦道一つをも

 丁寧に描きだしたもので、

 陵の現状に照合すると、その正確さに心打たれる。

 ところで、修築前と以後の図を比較すると、

 濠がないところへ新しく掘鑿したり、

 双円墳を前方後円形に改めるなど、

 幕末の学者の陵墓観によって著しく

 墳形を変更した場合もあることでわかる。

 ここで、天皇陵についての私見をまとめると、

 ①現在の墳形や濠の有無で

  もとの状態とみなすことは危険である。

 ②古代学的に今日の指定通りでよいと考えられるの、

  応神陵、天智陵、天武・持統陵である。

  この場合も天智陵は築造年代が、

  応神陵についてはその人物の実在の検討がいる。

 ③奈良県と大阪府にある

  古墳群の時代的推移をたどり、

  それを記紀などに照合すると、

  個々の陵の所在地はともかくとして、

  陵の含まれている古墳群の推移を

  把握することは可能である。

 ④江戸時代から明治時代の天皇陵の指定は、

  考古学の発達以前におこなわれたため、

  今日の学問水準では、天皇陵として、

  より妥当な古墳を指摘できる。

  たとえば大阪府高槻市今城塚の継体陵、

  奈良県桜井市赤坂天王山の崇峻陵、

  見瀬丸山の欽明陵、

  奈良県明日香村中尾山古墳の文武陵などである。

 天皇陵のうち、②と④を加えた

 七古墳が被葬者の天皇に一応の確信がもてるので、
 
 記紀などの記載に

 文献批判の方法をおこなって割出された

 各天皇の没年から、

 古墳の築造年代が導きだされる。

 七古墳とは少なすぎると思う人もあろうが、

 学問を進めるには少数でも信頼できるものを

 基礎にしなければならない。

 天皇陵以外で被葬者と没年がほぼ推定できる

 古墳はさらに少ない。

 皇族関係では、
 
 磯長谷の聖徳太子墓(77頁参照)と、

 大阪府羽曳野市にある

 来目(くめ)皇子の方墳がある。

 来目皇子は征新羅大将軍で、

 推古紀によると603年に死去し、

 河内の埴生山の岡の上に葬られている。

 埴生山には終末期の小古墳は多いが、

 立派な規模の後期古墳は一基で、

 今日では内部へ入れない。

 江戸時代の覚峰の模写では

 両袖の切石造りの横穴式石室で

 来目皇子の年代に合致している。

 このほか、

 6世紀前半に北九州一帯におよぶ大乱をおこした、

 筑紫国造磐井の墓が

 福岡県八女市の岩戸山古墳に想定されている。

 石人、石馬を具えた大型の前方後円墳で、

 墳丘や別区における石人などの配置が

 磐井の墓に関する

 風土記の記事に一致するからである。

 また群馬県高崎市にある山の上古墳は

 美しい横穴式石室をもつ古墳であるが、

 古墳の前にたっている碑文から

 放光寺の僧長利の母の墓であることがわかる。

 「図」赤坂天王山古墳の横穴式石室と家形石棺 

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
  『天皇陵』 
   『古墳マップ』 
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