2016年1月11日月曜日

須恵器と北方系文化②

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:256~258頁

 《古代大阪は豊かな工業国家だった》

 これにはもうひとつ理由がある。

 それは和泉(いずみ)・河内(かわち)から摂津(せっつ)の

 小丘陵地帯の広域にわたって、

 須恵器(すえき)(陶器)生産の窯(かま)跡が

 大量に発見されていることである。

 それまでの土器と違って須恵器は、

 粘土の質がよくないといけない。

 しかし、

 良い土はそんなに大量にあるものではない。

 だが、河内湖埋め立てのために、

 丘陵を削る際にその副産物として
 
 適当な土が大量に手に入った。

 一方で耕地をふやし、

 一方で当時の重要工業製品である須恵器を作る。

 この智恵がなくては、

 とても世界最大の陵墓は造れなかったのである。

 その証拠には古墳時代の終わりに近づくと、

 この大規模な陶業もまた終わりを迎える。

 そしてより豊富に、より上質の土がえられる

 土地へ窯業の中心が移動してしまう。

 また『日本書紀』には歴代にわたって

 堤(つつみ)を築く、

 池を作るという記事が続出する。

 茨田(まむだ)の堤、堀江、感玖(こむく)、
 
 石河という河内・和泉の地名が続出し、

 4万余頃(けい)
 
 (頃は中国では百畝(せ)(アール)の面積をいう)の

 田を得たと〔仁徳紀〕一四年の部分に書いてある。

 概算ではあるが、

 河内国と摂津国は田が

 1万千3百町歩と1万2千5百町歩、

 前者の大半と後者の3分の2が

 この開田によって生まれた地域で、

 約2万ヘクタール(約2万町歩)という数字になる。

 もっともこれは10世紀の

 『倭名類聚鈔』のもので、

 もちろん古墳時代以後の開田分も含むが、

 その規模からみて、
 
 巨大古墳時代がその最盛期だったことは間違いない。

 倭王はその大文明が立証するように

 高度の知性をもっていた。

 国民を奴隷扱いして、経済を無視し、

 自己破壊に陥るような愚か者ではなかったとみえる。

 こうみてくると、この「古墳築造者の交替」という

 根本的な大問題(プロブレム)を知らずに、

 ただ見かけの上だけで、

 古墳はこんな形をしているという型式分類をして、

 その形は「……ではなかろうか?」という

 手探りの想像説ばかり並べる説は、

 キレイな図などが入っていて

 見かけは立派にみえても、

 事実上は雑多な個人意見ばかり生み出して、

 混乱に輪をかける有害な行為だったことが

 はっきりわかる。

 学問にも順序があり段階がある。

 子どもにもできる
 
 昆虫採集や虫の形のスケッチの段階で、

 昆虫の進化の歴史を語るのはムチヤだということに

 気がつかなければいけない。

 なぜ高松塚や稲荷山鉄剣や藤の木古墳が、

 いまだに謎のままなのか?

 という疑問の答えは、

 それを考古学者に求めるのが

 間違いという簡単なことなのである。

 これにもましてヒドイのが古墳は

 宇宙人が作ったUFO発着用の航空設備だけ!?
 
 というような説である。

 私(加治木義博)の発見した古墳や

 通称の直列を航空標識のようなものと

 錯覚しているのである。

 この空想の幼稚さは、

 何万光年もの彼方にしか

 生物の存在できる惑星のない宇宙からはるばる、

 地球を探し当てて光速でやってきたほどの宇宙人が

 、

 峯ケ塚ていどの古墳を造るのでも、

 何年もかかるような原始的な土木工事を

 えんえんと監督するかということである。

 もうひとつおかしいのは、

 何世紀にもわたってUFOが来続けていたとして、

 ではなぜ、それが世界中のどの国の歴史書にも、

 『日本書紀』にも載っていないのか?

 ということである。

 大規模に古墳を造り続けていた地域は

 九州東部と中国東部と近畿圏だけだということも、

 UFO説の理屈に合わない。

 地球は広く、人類は至るところにいたのに、

 狭い日本列島の中の、

 また狭い地域のどこが良くてそんな

 「航空標識」を作り続けたのか?

 説明がつかない。

 さらにさらにオカシイのは、

 その古墳の中に、

 手間のかかる石棺なんかを固い岩で制作して、

 その中には下手(へた)な手造り

 (UFO人から見ての話だが……)の

 金冠や剣や鏡や土器などを入れてある。

 なぜ空から見おろす標識の中に、

 空から見えないように幾重にも隠して、

 宇宙からもってきた異金属などは入れなかったのか?

 これもコジツケ説明もできないほどの大変な謎だ……。

 こんな説は、いちいち、

 まともに数え上げるのもバカバカしいほど

 非論理的な「思いつき」にすぎないのである。

 少し知性があれば、

 そんな子どもだましに引っかかることはない。

 未確認飛行物体(UFO)は確かに実在するが、

 それは地球物理学で説明のつく自然現象と、

 人工の飛行物とであって、

 絶対に宇宙人とは関係がない。

 数万光年の彼方からやってこれる

 生物は絶対にないし、

 太陽系宇宙の中には別の人類がいる可能性もない。

 実在するはずのないものを信じるのは、

 思考力に欠陥のある人間だけなのである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     WAJIN:30~32頁

 《仁徳系10代の天皇の子孫が一人もいない!?》

 だがこの『新撰姓氏録』には、

 もっとはるかに重大な驚くべき事実がある。

 それはこの「皇別」全部の中に、

 仁徳天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで、

 第16代から第25代までの

 10代の天皇たちの子孫が

 『一人もいない』という事実である。

 先にもお話ししたとおり、

 この仁徳天皇系の天皇たちは、

 どこからみても実在したことは間違いなく、

 文部省も仁徳以後は実在の確かな天皇としているのだ。

 それなのになぜ、子孫がまったくいないのだろう?

 かりに先の説のように

 「古代氏族が自分の家系を偽って

 天皇家に結びつけたもの」だったら、

 『新撰姓氏録』は、

 そんなことにはなっていないはずである。

 偽(いつわ)って「天皇が祖先だ」というのなら、

 仁徳天皇から武烈天皇までの10代は、

 それ以後の、

 身近で比較的系譜(けいふ)のはっきりした

 天皇たちを先祖だというより、

 ウソが暴露される恐れが少ないし、

 また応神天皇より以前の古い天皇たちに

 結びつけるよりは、

 よほど、本当らしくみえるからである。

 それなのに一人も、それをしていない。

 この事実は先の「偽造説」の学者が空想したような

 「家系の偽造」説がまるで的はずれであったことを、

 何よりも強く立証している。

 「皇別」というのは

 「先祖が天皇から別れた家系」という意味で、

 『新撰姓氏録』にはこのほかに

 「先祖が神代の神々だという家系」の「神別」と、

 「崇神天皇以後に海外から移住してきた家系」

 を意味する

 「諸蕃(しょばん)」との三種類に分類されて、

 弘仁(こうにん)六年(815)

 現在の五畿内の豪族1182氏が登録されている。

 だから、分家する皇子をもたなかった天皇と、

 終世独身だった女性の天皇以外は、

 継体(けいたい)天皇以後はもちろん、

 時代の古い神武から応神(おうじん)までの

 歴代天皇の子孫まで、

 たくさんの氏族が

 「皇別」と認められて記録されているのである。

 この内の応神以前の天皇は、

 幾度もいうが現在、

 すべて実在しなかった架空の天皇として、

 義務教育では抹殺されている。

 それなのに

 その『架空』のはずの天皇たちの子孫は確かにいて、

 『実在した』と教育している仁徳以後の
 
 10代の天皇たちの子孫は、

 ただの一人もいないということは実に奇妙なことで、

 これを文部省はどう説明するのか?

 歴史教育のあり方にも疑問を投げかける

 重大な問題だといわねばならない。

 『新撰姓氏録』が書かれたのは9世紀初めで、

 5世紀末からは300年ほどしか経っていない。

 その間にほかの天皇系の子孫が繁栄しているのに、

 仁徳系の子孫だけが完全に絶滅することはありえない。

 ことに仁徳以後の10代といえば、

 上田正昭京都大学名誉教授の、

 いわゆる「河内(かわち)王朝」時代で、

 須恵器(すえき)の大工業地帯を経済バックに繁栄して、

 巨大古墳に象徴される、

 古代日本の各皇朝期の中でも

 最盛期といっていい時代である。

 それなのに、

 その子孫はいったい、どうなったのだろう?

 いわゆる「河内王朝」は

 実在しない幻だったのであろうか?

 ただ一つ、

 これに対する答えのようなものがないわけではない。

 それは『記・紀』をざっと読んだ感じでは、

 仁徳以後の各天皇たちが、

 次々に兄弟を殺し尽くしてしまうから、

 子孫がなくても当たり前のように見えるからである。

 だが系譜をよく検討してみると、

 殺されなかった皇子が残っている。

 反正天皇の高部(たかべ)皇子。

 雄略(ゆうりゃく)天皇の岩城(いわき)皇子。

 顕宗(けんそう)、仁賢(にんけん)両天皇の弟・

 橘(たちばな)王などがいる。

 また天皇たちに殺された兄弟たちの王子が、

 一人も生き残らなかったということも考えられない。

 それは暗殺された市(いち)の

 辺押羽(へおしは)の皇子の子供だった

 仁賢、顕宗の両天皇が生きのびて、

 兄弟そろって皇位についたことでもわかる。

 10代もの天皇に

 「完全に一人の子孫もない」などということは

 現実には考えられない。

 いっそう、謎は深まるばかりである。

 つぎに考えられるのは、

 この10代の、

 いわゆる「河内王朝」は、のちの大和政権とは

 別系統の王朝だったのではないか、

 という見方である。

 それなら

 当然「皇別」の中に入れるわけにはいかない。

 除外されているということになる。

 この「別系統」という考え方には根拠がある。

 それは神武から応神までの各代はすべて

 「父子相続」なのに、仁徳系は皇位継承法が

 「兄弟相続」にがらりと変わっているからである。

 こうした「相続法」は世界的にみても古来、

 各国ごとに独特の法則があり、

 それは何よりも厳重に守られて、

 容易に破られるものではなかった。

 そのことがわかっていると、

 仁徳皇朝になって「皇位継承法」が、

 がらりと変わってしまったことは、

 見逃すことのできない重大な変化なのである。

 もう一つ『記・紀』全体を通してみると、

 この皇朝の変わっている点が目につく。

 それは天皇たちの

 「和風諡号(わふうしごう)

 (贈り名=これは誤解による間違った名だが)」が、

 前後の天皇たちのそれにくらべて

 どうみても短くあまりにも粗末すぎるのである。

 大雀(おおさざき)(仁徳)、

 イザホ別(わけ)(履中)、

 水歯(すいば)別(反正)、

 アナホ(安康)、

 オケ(顕宗)、

 オオケ(仁賢)といった調子である。

 また、
 
 長い男浅津間若子宿祢(おあさづまわくごのすくね)

 (允恭)も、

 よくみると「宿祢(すくね)」
 
 という臣下にしか使わない称号をつけてある。

 どれをみても好意や敬意のこもった

 「扱いぶり」ではない。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     WAJIN:122~124頁

 《幻にすぎなかった「河内王朝」》

 これまでお話ししたことは、

 過去の倭の五王説や河内王朝説とは非常にちがう。

 倭の五王は五人とも同系ということで

 「倭の五王」という名をつけたのであって、

 今わかったように、

 前の二王と後の三王が全然別の系統だったのだから、

 とても「倭の五王」とは呼べない。

 また「河内王朝」も同じことだ。

 途中で仇敵の別の「王朝」に

 変わってしまったものを一つにして

 「何々王朝」と呼んだのでは、

 王朝を区別する役にはたたない。

 それにくらべると、

 古代の中国人のほうがはるかに立派である。

 『宋書』をみればそのことがひしひしとわかる。

 そこには「倭の五王」などという、

 いい加減な名前もついていないが、

 家系についてもいい加減なことは

 いっさい書いていない。

 「珍」は「讃の弟」とはっきり書いてあるが、

 「済」は何も書いてない。

 これは前の二人と関係がないという証拠なのだ。

 わかっていれば興のように、

 はっきり「済の世子(せいし)」とか、

 「武」のように「興の弟」と書いてある。

 それは、手紙と貫ぎ物をもっていった倭国の使者に、

 根掘り葉掘り中国の役人がたずねて調べたうえで、

 希望する官位を与えるかどうか、

 重臣たちが検討する制度だったからである。

 だから『宋書』の記録の文章は短くても、

 わかっていることはすべて書いてある。

 この済の場合、それが書いてないのは、
 
 倭国の使者が、

 政権の中身が変わったことで不利になるのを恐れて

 「親子・他人」といった、

 はっきりした返事ができなかった証拠なのだ。

 「世子」というのは中国では天子の後継者を意味する。

 太子とは少しニュアンスが異なるが、

 世継ぎの資格のある子供という意味に

 使われていることが多い。

 日本では後世、
 
 大名などの世継ぎの意味になってしまったが、

 この『宋書』の場合は、

 それは「血を分けた子供」という意味である。

 済~興~武はその親子兄弟がはつきりしている。

 だから

 「家系が断絶したのは、珍のとき」だったのである。

 済は「百済」を名乗りにしているから当然、

 百済王系で、血統の絶えた倭王家を継いだ。

 しかしその血統関係は宋には、

 はっきりいえなかったし、

 『宋書』も不明のままにしておいた。

 こうした事情を考えられなかった

 『記・紀』や三国史記』の著者は、

 無名の天皇に1代ズレたつぎの王名をつけてしまった。

 これがなぜ王名がズレたかという理由なのだ。

 そして第15のキーでもある。

 「5世紀の工業地帯大阪の主力製品」

 大阪府全域に須恵器の窯跡が大量に見つかっているが、

 百舌鳥(もず)古墳群の南、
 
 石津川の上流を挟む丘陵地帯にある

 東西南北10数kmの

 「陶邑(すえのむら)」は、

 規模も出土品も最大で、

 5~8世紀の古代経済が、

 どんなものだったかを伝えてくれている。

 その地域の北西の瑞に

 「景初三年鏡」を出土した和泉黄金塚古墳がある。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     WAJIN:125~128頁

 《仁徳系は讃・珍で亡び、最後に武が支配を確立した》

 こうしてみてくると、

 私たちの「予想」というものが、

 どれくらい頼りないものか、よくわかる。

 この章の読み始めから、

 「なるほど! そうだったのか!」と

 思われた時が幾度かあったと思うが、

 それはまたすぐつぎの答えが出てきて、

 ひっくり返ってしまった。

 全編がドンデン返しの連続だった。

 しかし私(加治木義博)は作家ではない。

 面白オカシク作品を「作って」いるわけではない。

 どうしても必要なことを、

 順を追ってお話ししているのであって、

 いっペんに結論をお話しすることは、

 この仕事では不可能だし、

 それでは「なぜそうなるのか?」という

 あなたの興味にも答えることができない。

 しっかりした理由をお話ししなければ、

 過去の「常識?」とまるで違う結論など、

 バカバカしくて読めないからだ。

 だから、うるさいとは思ったが一つ一つに

 「第○○のキー」というのを

 付け加えてきたのである。

 途中だけ読んで

 「加治木説はオカシイ」

 といわれたのでは何にもならないからである。

 しかしそのためにずいぶんヤヤコシク

 感じられたと思う。

 整理してみよう。

 『記・紀』と『三国史記』は

 事実を書いてはいるが、

 天皇や王をダぶらせたり、

 名前をズレてつけたりして、

 『宋書』の五王の記録と合わない。

 時代と順序を正確に伝えているのは

 『宋書』だから、それによって整理すると、

 本来の仁徳天皇家は讃と弟の珍の2代だけで終わり、

 その後に百済王の済がすわり、

 須恵器(すえき)(セラミック)産業を経済基盤に

 河内湖周辺の開発と巨大古墳の造営を進めたが、

 意見が合わずに追放した旧臣の武が

 高句麗王を頼って亡命し、

 高句麗王はスパイを済の身近に潜りこませて、

 国力消耗を進めた後、

 武が高句麗軍を率いて攻めこむと、

 仕事に疲れ平和に慣れた

 国民はひとたまりもなく敗れて、

 済は殺され、次いで立った病身の王子も殺された。

 そして高句麗に後押しされた

 武が総督として支配した。

 だが、常に高句麗に圧迫されて自由のない武は、

 宋の政府に援助を訴えて、

 独立して高句麗の支配から逃れようとした。

 実はそれだけではない。

 彼は宋に遣使した翌年には南斉(なんせい)に、

 その3年後には梁(りょう)に、

 それぞれから

 鎮東(ちんとう)大将軍と

 征東大将軍に任命されている。

 どんなに必死だったかが推測できる。

 これを『記・紀』と『三国史記』は、

 あちらこちら間違えながら「歴史」らしく編集した。

 そして無名の天皇「殺された允恭天皇」に

 1代ズレたつぎの王名

 「入れ替わった允恭天皇の名」をつけてしまった。

 そのため天皇や王の名と内容とがズレて、

 年代のおかしさとともに、

 まるで何がなんだかわからないものになってしまった。

 そのためありえない名乗りが次つぎに謎を生み出し、

 多くの「幻」が生まれたのである。

 これが「倭の五王」と呼ばれ、

 「河内王朝」と呼ばれてきたもの、

 そして奇妙な兄弟相続が続く異様な王朝・

 仁徳系皇朝と考えられていたものの前半の真相だ。

 この物語の後半は安康天皇から始まるが、

 その記事は前半の天皇たちよりもさらにひどくなる。

 安康天皇は允恭天皇の第二子と書いてあるが、

 その下に「一説では第三子だという」

 と小さい字で書き込みがしてある。

 允恭天皇が死んだとき皇太子の

 「木梨(きなし)の軽(かる)の皇子(みこ)」が

 「暴虐を行ない、婦女に淫す、

  国人これを謗(そし)る」と

 書いてあるような情況だったので、

 群臣はみな後の安康天皇・穴穂の皇子についた。

 皇太子は弟を殺そうと兵を集めたが、

 誰も味方にならないことを知って、

 物部大前宿祢の家へ逃げこんだが、

 穴穂の皇子の軍勢に囲まれて

 とうとう自殺してしまった。

 ここでもその下に

 「一説では伊予の国に流したのだという」と

 「割り注」が書きこんである。

 こうして天皇になったが、

 弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子の妻に

 大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹

 「幡梭皇女(はたひひめみこ)」をと思って、

 根の使主(おみ)を使いに出すと、

 大草香が感激して宝物を献上したが、

 根の使主はそれを横領して、

 それを隠すために大草香を讒言(ざんげん)する。

 天皇は確かめもせずに怒りのあまり

 大草香を攻め殺してしまう。

 しかしこの『日本書紀』の記事がおかしいのは、

 その「幡梭皇女」というのは、

 履中天皇の妃なのである。

 これは「木梨」が

 金波鎮漢紀・武であることとも合わせて、

 このあたりの天皇が

 二重、三重にこんがらかっていることを示している。

 そして天皇は大草香の妻を自分の妃にしてしまう。

 ところがその連れ子の

 眉輪(まよわ)王(目弱(もくじやく)王)に

 父の仇として殺されてしまう。

 だがこの「目弱王」も木の満致のことで、

 やはり金波鏡漢紀・武であることは、

 『コフン』で、もうよくご存じのとおりなのである。

 つぎが雄略天皇で、

 『日本書紀』では天皇は

 「允恭天皇の第五子」と書いてある。

 この人物は安康天皇が殺されたと聞くと

 「兄たちを疑って」、

 八釣(やつり)の白彦皇子(しろひこのみこ)を斬り殺し、

 坂合の黒彦皇子(くろひこのみこ)と、

 眉輪王をかばった

 円の大臣とを眉輪王もろとも焼き殺してしまう。

 次いで皇太子の

 「市(いち)の辺(へ)の押磐(おしは)皇子」を

 鹿狩りに誘いだして、だまし討ちにして殺し、

 その弟の御馬(みま)皇子も殺して天皇になる。

 そして妃にするつもりだった百済の池津姫が、

 石川の楯(たて)という男と淫したといって

 二人をはりつけにして焼き殺してしまう。

 そのあとに

 「だから天下は大悪天皇だと誹謗(ひぼう)した」

 と書いてある。

 まだいろいろあるが、

 「吉備の上道の臣・田狭(たさ)」の

 妻が美人だと聞いて、

 田狭を任那の知事に任命して、

 その妻を自分のものにした、という記事もある。

 もっともこれは、『聖書』の中の

 「ダビデ王が、

  美女バテシバを自分のものにした話

 (『サムエル記下第十一章』「コフン」参照)の

 悪用だし、

 他の事件も同じ話が名前だけ変えて

 繰り返し出てくるので、

 『日本書紀』の編集者が、

 仁徳以後の天皇たちを

 「大悪天皇」として悪く印象づけようと、

 こうした「悪王列伝」をわざわざ編集したのだ、

 ということを暴露してしまっている。

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