2016年1月11日月曜日

須恵器と北方系文化①

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    139~143頁

 《須恵器と北方系文化》

 《陶器と古墳》

 日本の陶質土器の技術的な基礎は須恵器であろう。

 古墳前期には、

 弥生式土器の系統をひく赤焼の土師器が、

 日常雑器として、

 また祭祀や葬儀にも使われていたが、

 大阪府南部の丘陵地帯で、

 突然大陸系の硬貨の陶質土器の生産が開始された。

 これが陶器である。

 学術用語としては、陶器との混乱をさけ、

 「須恵器」の字をあてている。

 須恵器については、雄略7年の状に、

 百済から渡来した各種の工人にまじって、

 新漢陶部高貴の名前がある。

 陶部とは須恵器の工人推定されるところから、

 この年を須恵器生産の開始とみなす研究者が多かった。

 たしかに、須恵器が古墳の副葬品として普及するのは、

 中期末から後期になって、つまり雄略のころであるが、

 それはそのころまで須恵器が副葬品としては

 必要でなかったからにすぎない。

 集落遺跡で発掘されたり、

 あるいは、古墳の墳丘や、

 時には埴輪円筒の中へ置かれた須恵器は、

 副葬品ではなく、葬送儀礼に使ったものでろうが、

 最近では中期古墳でいくつも検出されている。

 大山古墳と百舌鳥陵山古墳ではいずれも

 造出しに古式須恵器が使われている。

 これらの須恵器は、

 丘陵に傾斜を利用した細長い窖窯を構築して、

 還元状態で焼いてるから、

 質は硬く、灰色かねずみ色をしている。

 ところが、誉田山古墳にたてられている埴輪は、

 もちろんその一部であろうが、須恵質のものがあって、

 すでに窖窯技術が埴輪製作にも

 応用されていたと考えられる。

 中期古墳はすでに須恵器の時代になっていたのである。

 数年前、奈良の柳本古墳群の渋谷向山古墳で、

 埴輪円筒で、

 埴輪円筒の底に置かれた須恵器の甑が発掘されている。

 この古墳は典型的な前期の前方後円墳であり、

 またその甑も古い形式に属すから、

 もしこの須恵器が後の時代の混入物でないなら、

 須恵器の年代をひきあげるか、

 逆に大和の前期古墳の存続期間のある部分を

 河内、和泉の5世紀型古墳と並存させる必要が生じた。

 《大阪府南部窯址群》

 古墳中期の須恵器生産は、

 大阪府南部の丘陵地帯で大規模の行なわれた。

 4世紀末から8世紀頃までの窯址が

 約千個所は発見されているから

 その盛んな状況が推察される。

 ところが、
 
 この地帯が、とりわけ窯業に適した土地でないことは、

 律令制の弛緩にともなって、

 9世紀になると急激におとろえ、

 中世以降の窯業が、

 瀬戸・常滑・備前・越前・信楽などに

 移っていくことからも察知できる。

 大阪府南部の生産地帯は、大部分が堺市、

 一部が和泉市や狭山町にひろがっているが、

 初期の窯址は、いずれも和泉国大島郡、

 8世紀以前は河内国茅渟県とよばれた地域内にある。

 私は研究を進める過程で、

 大阪府南部窯址とか阪南窯址群とよんだが、

 窯址の分布範囲外に阪南町ができたので、

 大阪府南部窯址群と呼んでいる。

 最近、この窯址群にたいして

 陶邑古窯群とよぶ人があるようだが、

 陶邑というのは、

 崇神紀に大田田根子説話ででているにすぎず、

 この広大な、

 また数世紀にわたる窯址群の総称することはできない。

 神話と歴史との混同をさける考古学に、

 まぎわらしい用語をもちこむことは、暗に、

 『日本書紀』を

 文献批判ぬきで肯定していることになるので、

 私には使えない。

 大阪府南部窯址群が、

 百舌鳥・古市の二大古墳群の南方に位置することは、

 この古墳群に象徴される5世紀の国家的勢力が

 土器生産を掌握していたのであろう。

 ここでの生産物は、たんに中央の支配者の需要を

 満たすだけでなく、地方の大小の豪族にも与えられ、

 それが国家の政治体制を維持する一助になったことは、

 全国各地に分布する古式須恵器の存在からも推測できる。

 さらに興味深いのは、一体須恵器生産とは、

 当時の中央政権の朝鮮半島への進出に伴って摂取された

 文化現象なのか、

 それとも支配者そのものが渡来者であるため、

 彼ら特有の日常土器を製作する必要から

 開始された政治現象かということである。

 これは難解なことである。

 教科書流にいえば、

 大陸文化の摂取ですべては方が付くのだが、

 もし土器の製作技術だけの摂取であれば、

 当時の日本では普通に使っていた土師器の形態を

 新技術をで作るはずであろう。

 ところが須恵器の大部分は、

 たとえば甑(ほぞう)のように

 土師器なかった形態、別の表現をすると異なった

 日常生活でないと使わない形態である。

 もう一つ例をあげると、

 須恵器には穀物を蒸すために

 必要な甑がその最初から製作されているが、

 これは古墳前期の土師器にはなかったのである。

 むしろ、6世紀ごろから、

 甑が消耗的性格がつよいため、

 土師器で模作されるようになっている。

 どうも、須恵器生産の開始の諸現象には、

 大陸からの文化の摂取では説明しきれない面がある。

 《豪族と須恵器》
 
 須恵器生産は、古墳後期、つまり6世紀になると

 九州・中国・四国・中部、

 そして関東の一部にもひろがった。

 各地の豪族の要求で、

 工人たちが派遣され定着することもあれば、

 一時期の生産活動で他へ立ち去ることもあったが、

 須恵器は広汎に分布するようになった。

 須恵器にあらわれている中期と後期の差は、

 そのまま他の面にもあてはまることが多い。

 新しい墓制として、

 北九州や畿内で中期に出現した横穴式石室は、

 後期になるとひじょうに普及を見せる。

 いま一つ例をあげると、

 前期古墳には全く存しなかった

 金属製の耳飾りをつける風習が

 中期には華麗な姿であらわれるが、

 後期にはほとんどの古墳の遺骸に、

 たとえ銅環に金箔をおしただけの粗末なものであっても

 必ず伴うようになった。

 《中期古墳の終わり》

 中期において、畿内に北九州、

 ときには瀬戸内海沿岸など

 一部にあらわれたこれらの新しい文化は、

 朝鮮半島の文化に共通した面が強い。

 しかもそれは、

 漢文化の影響を直接受けたものでなく、

 北方の騎馬民族、

 およびその系統の王が支配する諸国に源流がある。

 須恵器、横穴式石室、金銀の耳飾りのほか、

 金冠、乗馬に適した挂甲、

 横穴式石室を飾る壁画と数えあげると

 終わることを知らない。

 後期とは、これらの北方的文化が

 全国的に浸透した時期のことである。

 中期には、奈良県島根山古墳のように、

 儀器化した石製腕輪類を大量に埋納した

 前期の性格を残す古墳や

 群馬県藤岡市白石稲荷山古墳のように、

 石製模造品が副葬品の中心をなすような古墳が、

 築かれていたが、後期には見られなくなった。

 私は、倭王武の墓と推定できる河内大塚の築造で、

 中期は終わったとしている。

 これを境にして、超大型の墳丘を営造することは、

 しばらく、とだえ、中央の支配者たちの古墳も、

 その規模が著しく縮小するのが後期の特色である。

 それは、中央政権の衰退を物語るかも知れないが、

 それは朝鮮半島における国際的関係での衰退にすぎず、

 国内にあっては、

 逆に支配体制を強めたことになるかも知れない。

 このような状況のなかで、日本の各地で、

 まさに爆発的な勢いで群集墳が出現するのである。

 「写真」岩橋千塚の古墳群の群集状況:
     『井辺八幡山古墳』による

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:186~188頁

 《百済は大阪が先か、朝鮮半島が先か?》

 まだお疑いの方は次の事実を

 何と説明していただけるであろうか?

 この大阪府南部には、

 3世紀の景初三年(239年)の

 銘の入った鏡を出土した

 和泉黄金(いづみこがね)塚古墳をはじめとして、

 4世紀に入ると古墳が続々と造られていく。

 その中には幾度もいうように、

 世界最大の墓とされるものや、

 それに近い巨大なものが幾つもある。

 このことはこの地域が、

 当時としては世界有数の大国の一つだった

 可能性を証明しているのである。

 また他方、この地域ばかりでなく、

 淀川以北はるばる北摂の兵陵地帯にまで

 府下全域にわたる、

 おびただしい
 
 須恵器(すえき)生産の窯跡(かまあと)が

 発見されている。

 これまた当時としては

 有数の大工業圏の実在といわねばならない。

 古墳と時を同じくしたこの窯跡こそ、

 当時の国力の基盤となったものの一つで、

 これなくしては大古墳はあり得なかったとも考えられる。

 国家の隆盛とは経済力の隆盛である。

 ところが古墳時代を論じたものに、

 この窯業の果たした役割について

 全く気づいていないものがある。

 そんなにうかつではけっして真相はつかめない。

 これほど重要な要素を落としているようでは、

 まともな結論が出るはずがない。

 その一つが、この地方の百済帰化人感なのである。

 「感」という字をわざわざ選んだのは、

 それは観とか説とか呼ぶに値しない、

 何の根拠も立証もない

 「感じだけのもの」にすぎないからなのだ。

 戦前戦後の前時代的な史学にわざわいされて、

 「帰化」という言葉を亡命と感違いし、

 7世紀後半の百済滅亡後、

 天智三年に百済王善光らを

 難波に居(はべ)らしめき、といった

 「読ませ方」にまどわされて、

 4世紀末に始まる

 この巨大な超大国の存在を忘れた先入感だけで

 「細々(ほそぼそ)とした亡命者のみじめな生活ぶり」を

 空想するといった百済帰化人感のことなのである。

 もうお気づきのように、

 帰化人感とは「無力な亡命者」

 という潜在意識なのである。

 それが選りによって、

 この[超大国摂河泉(せつかせん)地域]

 をみじめな

 「百済」に改名することが出来たという考え方は、

 あまりにも不合理すぎる。

 知性的ではない。

 この帰化人を[応神紀]にみる

 弓月(ゆづき)の君らとしてみたところで、

 なぜ超大国の王である応神天皇が、

 流れ者の母国名を、

 自分の繁栄の中心地全帯につけるという

 大改名をする必要があったか理解できない。

 それは後世になってつけられた、という考え方は、

 [仁徳紀]にすでに「その陵地と定めた土地を

 百舌鳥耳(モズミ=百済)原という」と出ている

 事実にさえ気づかないでいるのである。

 この地方の百済の名はどうみても

 応神~仁徳王朝そのものが

 もっていた名の一つとみるほかないのだ。

 <4~5世紀の百済と新羅>

 ○百済の拡大コース>
 
 熊毛百済(屋久島・種子島)→大隈半島→宮崎→

 大分→四国→大阪百済

 ○新羅の拡大コース
 
 薩摩半島:知覧新羅(鶏林時代)→熊本→福岡:

 白日別新羅(斯盧時代)→朝鮮新羅

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:220~222頁

 《百済王の方が君臨していたか?》

 倭・韓の王名が、ずらりと一つになってしまったとき、

 それでは『記・紀』と『三国史記』

 とに書いてあることは、

 食い違う部分は嘘だったのか?

 と、先まわりしすぎた方もあったかと思う。

 しかし、この王名の一致は、

 『三国史記』の編集者の間違いが原因で生まれた

 事実無根の見かけだけのものに過ぎなかった。

 一人が幾役もこなしたのではなく、

 各国の王の上に君臨していた天皇の名を、

 各国の王の名だと勘違いした

 編集者の早とちりだったのである。

 だから、『記・紀』に書かれた事件も、

 『史記』や『遺事』に書かれた歴史も、

 そのあらすじは本当に実在したのである。

 ただその王名を、あるべき位置、

 すなわち四カ国に君臨した

 天皇のところへ戻しさえすれば、

 奇妙な幻影は雲か霧のように消えてしまうのだ。

 これが「倭の五王の真相」である。

 倭の五王ばかりではない。

 その前後の倭・韓の歴史は、

 こうした事実を前提として

 読むべきものだったのである。

 だが、それは逆ではないか、

 実は百済王の方が君臨していたのではないか?

 という意見もあると思う。

 ことに朝鮮側の学者は、

 国民感情としてもそういう疑問をおもちになると思う。

 その点を系譜で確かめてみよう。

                  ┌─文周──三斤
       (珎) (済)  (興) │
 (讃) ┌─久尓辛──毘有──蓋鹵─┤        ┌─
 腆支─┤             │     (武) │
    └─毘有?          └─昆支──牟大─┤
                           │ (武)
                           └─武寧



 興までの4代はピッタリで問題はない。

 しかし、より明確になるはずの後世の部分、

 『宋書』の記録者が生きていた当時である興と武の部分は、

 どうみても倭の五王の記録とは合わない。

 また『三国史記』の腆支から武寧に至る間の記事も、

 完全に倭王とは別の同時存在になっている。

 そして何よりも腆支王12年、

 東晋は彼を

 使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に任命し、

 毘有王も3年に宋に遣使朝貢して

 先王と同じこの爵号をうけている。

 彼らはあくまで百済王であって倭王ではないと

 『三国史記』は記録している。

 この場合『宋書』は倭王は倭王とハッキリ書き、

 『三国史記』も百済王は百済王と

 ハッキリ書いているのである。

 これを逆転させるだけの証拠群がそろわないかぎり、

 百済王が倭の五王だったという
 
 主張をうけいれる人はない。

 ことに『宋書』は、

 倭王と同時存在である百済王を公平に記録している。

 そして常に「百済王の肩をもって」

 倭王が主張する百済への君臨を認めようとはせず、

 百済を削ったという事実は読者もよくご存知だ。

 単純に百済王が倭の五王だったとするわけにはいかない。

 では、『三国史記』の編者たちは、

 そんなものをなぜ王名として
 
 平気で記録してしまったのだろうか?

 倭を嫌い敵視さえした朝鮮の史官が、

 こともあろうに麗々しく、

 朝鮮半島の三国が倭に隷属していたことを示す証拠を、

 大量に各国の王名としてなぜ特筆大事したのか?

 それはこれまでに繰り返しお話ししたように、

 倭王の名と知らなかったこともあるが、

 それ以前に、彼らはできるだけ

 『事実』を書き残そうという真剣な気持ちで、

 記録をそのまま編集したということである。

 彼らはそれらが倭王の名であったことを

 知っていた可能性も高い。

 それでも書き残さずにはおれなかった。

 「真実の追求」それこそ真の史家の資格であり、

 存在価値である。

  口から出まかせの講演をしたり、

 売れさえすればいいという売文屋になったりと、

 眉ツバものの史家の多い現在と比べて、

 『三国史記』の編集者たちは、

 賞賛にあたいするといわねばならない。

 ただ間違ってはいけないのは、

 君臨とはいっても近代の帝王のように、

 経済権などまで、すべてを掌握していたのではない。

 それは倭・韓の王が除正を求め、

 それを

 册命した宗主国としての中国の立場を考えてもわかる。

 中国はたしかに一段高い地位にいて

 王の任免権を握っているように見えるが、

 毎年定期的に税を取り立てるわけではない。

 各国が自主的に、それぞれ貢物を届けるだけである。

 このことは倭王の主張にもはっきりと書かれている。

 六国「諸軍事」というのは、

 兵権を掌握してはいるが、

 搾取する絶対王権ではない。

 現代ふうにいえば、倭国の傘の下に、

 朝鮮各国が入っていたということなのだ。

 こうみてくると、

 これまで謎に包まれたままだった

 朝鮮半島への古墳の波及、

 副葬品中の曲玉の存在、

 大阪に巨大な産地があった須恵器の半島への

 普及が別に不思議でもなくなる。

 それを敵国であった高句麗までが

 証明しているものさえあるのだから、

 疑ってみる余地さえもなくなる。

 [広開土王碑]には、はっきりとこう彫ってある。

 「而(しか)るに倭、辛卯(しんぼう)年を以て

  渡海し来り、百残(百済)、新羅を破り、

  以て臣民と為(な)す」

 しかもその高句麗もまた実は「ジンム」で

 お話ししたように日本そのものだったのである。

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