2016年1月14日木曜日

古墳を衰退させた力

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 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
 古墳―石と土の造形―森浩一著
    149~152頁

 《古墳を衰退させた力》

 《後期と造墓期》

 奈良の飛鳥の地に古墳を訪れる人は、

 菖蒲池古墳、

 鬼の俎と鬼の厠(横口式石槨)、

 越の岩屋山古墳、

 野口王墓(天武・持統陵)、

 高松塚を見落とすことはなかろう。

 美術史でいう飛鳥や白鳳の時代にも高塚は築かれ、

 巧緻の極にたっした切石の横穴式石室も

 その限りにおいては古墳の時代である。

 ところが、切石の横穴式石室の時期には、

 群集墳ではほとんど新しい古墳の構築が

 おこなわれなくなっている。

 群集墳にいて、

 新たな古墳の営造が続いている期間

 ―それは数と密集度が増加するのであるが―を、

 造墓期とよんでいる。

 群集墳は7世紀初頭になると

 急に造墓活動を停止している。

 しかも群集墳の終焉の時期は

 各地で大きな差があるのではなく、

 ほぼ一致しているようである。

 私は群集墳における造墓活動の停止の時期をもって、

 古墳後期の最後と考えている。

 艸墓や都塚などの後期の代表的な古墳では、

 横穴式石室内に遺骸をおさめた

 家形石棺が安置されている。

 しかし群集墳内にある横穴式石室では、

 石室は遺骸を葬るだけの場所ではない。

 前期の竪穴式石室や粘土槨には、

 死者をおさめ、あるいは包み込み、

 遺骸がたとえ腐朽しさろうと、

 葬った人たちにとっては永久に死骸を

 保護していることに変わりない。

 前期の人たちが、

 一度埋葬した棺や石室を開くことは

 ありえないことであった。

 中期になると、

 九州の方からまずその原則がくずれてきたようで、

 石棺や石室内で遺骸が白骨化するとしばしば動かし、
 
 新たな死骸をさらに収容している。

 後期では、この傾向が普及し、

 横穴式石室は遺骸の骨化の場であるとともに

 納骨の場であるという

 二つの役割をもつようになった。

 一つの横穴式石室内に10数体の白骨が

 つみ重なることもおこるわけである。

 『日本書紀』では、
 
 黄泉国を訪れた男神イザナギが、

 死後の世界にいる女神イザナミの屍を

 櫛の歯にともした光で見た情景を

 「膿わき、うじ流り」と生々しく描写しているが、

 この神話の舞台は横穴式石室にほかならない。

 天皇や皇族および一握りの中央、地方の豪族をのぞくと、

 横穴式石室での遺骸は

 もはや永久に保護されるものではなく、

 骨化、つまり破壊が期待されているのである。

 前期と後期との葬制の基本的相異である。

 《古墳時代の終末》

 造墓期のおわった群集墳でも、

 なおしばらくは既存の横穴式石室を利用して

 追葬が行なわれている。

 しかし、そのことも延々と続くのではなく、

 7世紀後半には大勢としては終わるようである。

 この期間が群集墳の追葬期であり、

 それを古墳時代終末期とよんでいる。

 では、古墳はなぜ衰退するのか。

 仏教の伝来によって、

 古墳の衰退を説明する人がいる。

 しかし仏教の保護者として知られる

 聖徳太子、天武天皇、聖武天皇などが

 いずれも高塚を築いていることから察すると

 充分な理由ではない。

 今まで豪族が古墳に富を投入していたのを、

 新たに伽藍の建立に振り向けたともいう。

 これは可能性があるが、

 大阪の新堂廃寺とお亀石古墳、

 阿部寺と文殊院西古墳、

 軽寺と見瀬丸山古墳(欽明陵か)などのように

 同一の富者が二者を営んでいることも

 相当の例を指摘できる。

 大化二(646)年、

 孝徳天皇は有名な薄葬令を公布したという。

 これは、身分によって古墳の営造を制限し、

 許された者にも身分によって

 墳丘と石室の規模と規格を定めたものである。

 しかしすでに群集墳の衰退で説明したように、

 646年といえば大部分の消滅以後、

 おそらく追葬期にあたっている。

 仮に薄葬令の公布が事実であるにせよ、

 終末期での問題にすぎず、

 群集墳の消滅の原因ではない。

 私はこの問題を解くため、視点をかえて、

 奈良、平安時代の墓地や葬地について

 政府と土地の関係を調べ、

 昭和45年春、

 『古代学研究』57号に

 「古墳時代後期以降の埋葬地と葬地」

 という研究ノート

 (『論集終末期古墳』所収・塙書房)を書いた。

 すると今まで気づかなかった

 いくつかの現象がうかんできた。

 例えば、追葬期以後においては、

 従来からある群集墳に埋葬がおこなわれた

 例がほとんどない。

 奈良時代の墓誌を伴う墳墓や火葬骨をいれた

 壺などは、

 群集墳内の古墳や群集墳内の土地すらも

 埋めていないのである。

 奈良時代には、数世代前の群集墳は、

 もはや利用を認められなくなったようである。

 このような現象を整理して、

 私は

 先ほどの研究ノートの中間のまとめを

 次のように書いた。

 「7世紀、ことによるとそれ以前においても

  耕地を主にした土地制度の大変革があり、

  その変革は、土地の占有、あ

  るいは所有関係にとどまらず、

  条理制に象徴されるような区画の変革を伴った。

  この土地制度の変革の実施に当たって

  その時点以前に

  存在していた古墳群が統合させられたり、

  他へ移転させられたこともあったであろうし、

  さらにはその時点以後での造墓や埋葬に

  大きな影響をもたらしたことは十分予想される。

  しかも土地制度変革の波は、

  一度でなく何回にも分かれて

  おしよせたものであろうから、

  古墳や古墳群などへの影響も複雑な形で

  あらわれていよう。」

 群集墳の形成は土地制度の変革によって

 終焉をとげた。

 もし私のこの仮説が正しいなら、

 群集墳の造墓期と追葬期とが

 それぞれ終わる時点に、

 古代学は消えさった歴史を

 よびもどすことができるのである。

 
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  「鉄剣」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
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