2016年1月12日火曜日

須恵器と北方系文化③

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     TAIKA:222~224頁
 
 《須恵器と北方系文化》

 《敗れたのは百済倭国=藤原》

 『魏書倭人章』では、

 朝鮮半島から来た最初の上陸点が

 「末盧(まつら)国」だったことをご記憶と思う。

 それは今の松浦と同じ発音で「マツラ」だった。

 その意味は「馬(マ)・津(ツ)・国(ラ)」で

 馬韓と同じ意味である。

 しかし馬韓ははじめは

 「マガラ」で「マガダ」の訛りに
 
 当てた当て字だった。

 マガダは仏教の本山でアショカ王の国である。

 ところが「狗奴国」として種子ガ島にあったころの

 百済はシンドゥ教の国だった

 (『ジンム』『コフン』参照)。

 それが『日本書紀』では[欽明天皇十三年十月]に

 百済聖明王が金銅の仏像と経巻などを献上したのが、

 それまでの

 神道を守る物部と中臣VS蘇我の

 争いの始まりだと書いてある。

 だから百済が仏教国になるのには、

 朝鮮半島へ進出して馬韓と合体することが

 必要だったのである。

 その時期は武寧王陵

 (実は別人の斯麻(シマ)王のもの=韓国・公州)が

 仏教の影響が全然なく、

 他宗教の鎮墓(ちんぼ)獣が副葬されているので、

 仏教化は斯麻王以後だったことがわかる。

 百済というのは、

 もともと「ホ津国(ヅマ)」のことで、

 「豊(ホ)」「日(ホ)」「穂(ホ)」

 などの当て字も同じ国を意味する。

 だから大分県の豊前・豊後も

 大阪府の豊島郡もその移動や発展の跡である。

 そのうち大発展を遂げたのは大阪百済である。

 それは倭王・済の時以後で、

 応神・仁徳天皇陵などの巨大古墳が、

 須恵器(すえき)工業などの経済基盤によって

 築かれたことなど、

 『コフン』で精密にお話ししたとおりである。

 それが朝鮮半島を攻めて

 「海北95カ国」のうちの

 馬韓を朝鮮百済にしたのは倭王・武より前だった。

 その武こそ武寧王その人である。

 その朝鮮百済は斯麻王のような小王が治めていて、

 本国はいうまでもなく大阪にあった。

 それが「大化改新=乙巳の変」の舞台になった

 孝徳天皇の長柄豊碕朝で、

 当時の五彩圏連邦の中心だったのである。

 なぜならその政権が崩壊すると

 五彩圏連邦が消滅したし、

 勝った天智天皇は

 日本を統一したことになったからである。
  
 それを『唐書』は、「大国・倭国」と書いてある。

 今からみて正確にいえば、

 それは「百済倭国」時代なのである。

 そして当時の人々もそれを認めていた。

 なぜなら「百済倭国」は当時の唐音による

 鹿児島発音で「百ホ 済ゼ 倭ワ 国ラ」、

 沖縄発音で「フジワラ」になる。

 これで藤原氏が何であったか、

 よくおわかりになったはずである。

 藤原鎌足の茨木市・阿武山(あぶやま)陵は

 その豊日の国の東北にあり、

 平安京の帝都鎮護・比叡山が

 都の東北にあるのと同じ位置にある。

 彼は神武天皇の協力者

 「饒速日(にぎはやひ)」だから、

 天智天皇の「中臣鎌子」なのである。

 では「鎌足」という名乗りは何を意味するか、

 これもみてみなければならない。

 他の当て字が、皆、国名だったのだから、

 名乗りの原則からいって、

 これも国名か地名であることは間違いない。

 「鎌」の字は「コマ」という

 標準語発音のできなかった沖縄から大隅語人が

 「高麗=高国」を「カウ・マ」とよんだものへの

 当て字である。

 「足」はこれまでもたびたび出てきた

 「タリ・タリシ」で大王・天皇を

 意味する称号である。

 この名には「百済・倭国・高句麗」

 三カ国がそろっている。

 新羅と日本が入れば五彩圏連邦がそろう。

 この藤原鎌足という名乗りは、

 天智天皇以後のものだから、

 新羅・日本を入れるはずがない。

 それを消した残りが「藤原鎌足」なのである。

 ということは彼は、

 倭国を日本が併合した統一以前は、

 間違いなく五彩圏連邦の皇帝だったということである。

 こうして角度を変えて「名乗り」のほうから追及しても、

 やはり神武天皇からみて

 「先帝」だった

 「饒速日=和(にき)・ソナカ」に一致する。

 だから

 中臣鎌子はたしかに天智天皇に協力した事実がある。

 しかしそれは『作り話』の大化改新とは

 全然ちがっていて、

 神武東征の最後の時点で、

 長髄彦=孝徳天皇を裏切って

 神武天皇=天智天皇に勝利をもたらした饒速日こと、

 前五彩圏連邦・皇帝だったのである。

 このことは、『先代旧事本紀』にも、

 推古~斉明天皇の別名が

 いろいろ記録されている中に、

 「物部鎌足姫」というのがあることなど、

 まだまだ大量の証拠がそろっているが、

 それは専門的になりすぎるので、

 ここでは省略しよう。

 しかしその『先代旧事本紀』は、

 偽書として無視する学者もいたが、

 こんなふうに役立つ大切な情報源で

 あることを知っておいていただきたい。

 「藤原鎌足の阿武山陵」

 昭和9年4月、

 大阪府高槻市の阿武山(281m)にある

 京都帝国大学阿武山地震観測所の裏に、

 新たに地震計を設置するための工事中、

 偶然、古墳が発掘された。

 関戸信吉・関西大学教授が当時撮影した

 Ⅹ線写真の原版によって、

 1987年11月に

 京大の小野山節教授らの研究会が

 その研究成果を発表、

 本章の扉の玉枕や金糸の入った織物の冠などから、

 大織冠を死の直前に下賜された

 藤原錬足の墓と確認する幾多の事実が発表され、

 世紀の大発見として連日報道面を賑わした。

 これは西側から見た阿武山の全景。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     YAMATO:96~97頁

 《首都を支える経済基盤と倭の五王の名》

 またそれだけの人口が税だけで

 食べて生活していたわけではない。

 もちろん周辺に農家があり、

 都市には商工業の家があり、

 それぞれが生業を営まなければ

 それだけの家族を養っていくことはできない。

 ところが奈良にはそんな産業基盤も、

 それらしい遺跡も全くないが、

 それが大阪には十分にある。

 それは「倭の五王」時代に一致する時期の、

 膨大な須恵器産業遺跡群と、

 広大な河内湖の干拓遺跡群、

 数多くの人工溜め池(用水池)遺跡、

 それらの廃土利用と考えることもできる

 巨大古墳群の実在で立証されているからである。

 またその「倭の五王」の名乗りでも、それがわかる。

 478年に最後の倭王・武が

 宋の順帝に送った手紙にある

 彼の名乗りは、彼の時代になって、

 やっと奈良県の高市郡を

 新しい領土として加えたという表現になっている。

 「武(タケシ)」は

 「高市(タケシ)」と同じものだからである。

 また彼の手紙は、倭国王が最初は九州から出発して、

 代々、悪戦苦闘しながら苦労して次第に

 国土を拡大していったと明瞭に書いていて、

 それを疑う余地はない。

 その初めとは仁徳天皇の時代で4世紀のことである。

 その時代になっても四国以東には領土はない。

 3世紀でさえ100万都市だったのだから

 5世紀にはさらに巨大化していた首都は、

 そう簡単に引越すわけにはいかない。

 だから代々同じ首都名を名乗ったのでは、

 代々の王の名乗りは皆同じで区別がつかず、

 名として役に立たない。

 いくら古代人でもそんな愚かな名乗りは名乗らない。

 だから五王の名乗りの最後に書かれたそれらの

 「讃・珍・済・輿・武」という

 一見個人名ふうの名乗りは、絶対に首都名ではない。

 それは「新たに私がこの領土を加えたのだ!」

 という自負と誇りをこめた新領土名を特記した、

 名誉ある称号だったのである。

 だから高市郡を手に入れた時点では、

 首都が移動していたとしても最大限、

 河内あたりまでなのである。

 このことは5世紀末でも

 まだ奈良は首都ではなかったことを示している。

 だから奈良ほど発掘調査が進んでいても、

 そうした都市遺跡一つすら

 見つかっていないということは、

 奈良は3世紀当時の

 「邪馬臺国または邪馬壹国」の

 いずれでもなかったという決定的な証拠であり、

 7世紀より前には、

 倭国の首都でもなかったという動かぬ証拠でもある。

 「邪馬台国・大和説」や

 「神武天皇以来の首都説」は、

 まったくの空想説でしかないことが

 立証されたことになる。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     YAMATO:106頁

 《大阪府下を移動した倭国の都》

 天智天皇が滅ぼした当時の倭国の都は、

 今のJR梅田駅の東北、新淀川中流部にあった。

 それ以前かあとの都が、

 この安宿だったことは間違いない。

 倭の五王までさかのぼってみても、

 最後の倭王・武のときに、

 奈良県高市郡を領地の中に加えただけで、

 そこが都になっていた形跡はないし、

 名乗りがそれを否定している。

 なぜ、

 それ以前には、奈良に首都を置かなかったのだろう? 
 その理由は大阪平野に比べて標高の高い高原である

 奈良平野は、冬の寒さがたいそう厳しく、

 交通も不便であったし、海がまったくないので、

 沖縄、南西諸島、鹿児島といった南国から

 移住してきた海洋型の人々は、

 暖かい海洋型気候に慣れ、

 食事も新鮮な海の魚なしでは生活できなかったから、

 現代のような暖房もなく、

 魚を新鮮なままで運ぶ輸送手段もなかった当時には、

 奈良はとても住めるところではなかったからである。

 さらに

 それまでの4~5世紀の倭国の富と力の主要な源泉が、

 須恵器産業による経済活動だったことを考えると、

 それらの重い商品や多数の首都住民の食料など、

 日常の大量輸送にも海上を船で運ぶのが便利だった。

 これらの幾重にも重なった条件が、

 五王の珍、済以後の歴代の倭王たちが鹿児島湾同様、

 巨大な湾のある大阪に都を置いた最大の理由である。

 天武天皇はなぜ、

 条件の悪い奈良に飛鳥浄御原の都をおいたのか……。

 奈良に確実に都を置いた「天皇」は

 彼が最初だが、

 彼の立場を考えてみれば、その理由がわかる。

 天智天皇は国名を倭国から

 日本に改号した年の翌年

 671年12月に死んだ。

 唐の咸亨(カンキョウ)二年である。

 『日本書紀』の記事では10年になっているが、

 正式に即位したのは七年正月のことだから

 天皇の位にいたのは4年である。

 『紹運録』には

 推古二二年(614年)の生まれで

 58歳で死んだとあるが、

 『日本書紀』には

 舒明天皇二年のところに

 宝(たから)皇女(のちの皇極天皇)を

 皇后にして生まれた長男だとある。

 天武天皇はその弟で、

 朱鳥(あけみとり)元年(686年)九月に

 65歳で死んだ。

 『紹運録』の主張だと

 推古三〇年(622年)の生まれで、

 天智より8歳年下の弟ということになる。

 子供時代の名乗りを見ると、

 兄は葛城、

 弟は大海人となっている。

 葛城というのは鹿児島生まれの名で、

 「カッラギ」と発音して、

 当て字を変えると

 「姶良郡=カッラグィ=カラグニ=韓国=空団」に

 なる。

 「空」はソラで「襲国(ソラ)」。

 これがソラの語源なのである。

 『古事記』によるとニニギのミコトが

 高千穂のクシフル嶽に天降ったとき、

 「ここは韓国(カラグニ)に向かい、

  笠沙(かささ)の御前を真来通りて……」と

 いったという霧島山の西南に広がる郡の名なのだ。

 だから天智天皇は幼い時に

 「韓国王」を名乗っていたわけである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録17:30頁

 《和泉移住者は大隅・筑紫の混成軍》

 でもまだ、

 それだけで大隈人と断定してはいけない。

 大隈は倭住(オースミ)とも当て字でき、

 倭住はイズミとも発音できるが、

 出水はイズンでイズミではない。

 だから大阪府南部の和泉(イズミ)は

 大隅人の移住地なので、

 証拠も多種多様にある。

 ハシの名をもつ土師(ハジ)器もその一つなのだ。

 この土師器と全く同じ立場に立つ、

 古墳時代のもう一つの窯業製品に「須恵器」がある。

 須恵は、これも九州の福岡県宗像市にある地名で、

 土師器と同じ命名法の産物である。

 これは「陶物・陶器」と書いても

 「スエモノ・スエキ」と読む硬い陶質の焼物で、

 古墳時代の日用品として、

 また大阪府南部を中心に大量に生産され、

 販売された一大産業の主役として、

 古代経済史上の花形でもあろ。

 それに比べると土師器は柔らかく壊れやすいので、

 カワラケと呼ぶ下級品だったが、

 後世には供物(くもつ)を盛る聖器として、

 かえって余命を保っている。

 実際に発掘してみると、

 2種とも同じ窯跡から同時に出土する。

 窯の高温部で須恵器を、

 低温部で土師器を温度差を活用して焼いている。

 これは単純にみると大隅と筑紫が一体化した形で、

 『記・紀』に壹與が神功皇后として北九州へ遠征し、

 筑紫国を傘下におさめて白日別にしたという

 記録があるから、

 一見、移動者は邪馬壹国人であって、

 卑弥呼政権の残党・日向倭国人では

 ないように見えるが、

 一体?

 どちらが正しいのであろう?

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