2016年1月10日日曜日

倭の五王と古墳

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    135~137頁

 《倭の五王と古墳》

 《讃・珍・済・興・武》

 中国の史書から古墳の年代を知ることの

 むずかしさについては

 『魏志』に記された卑弥呼の冢で少し述べた。

 13回にわたる倭国と宋(南朝)の

 外交関係を記録しており、

 さらに『梁書』などにもその後の状況を

 二度記録している。

 この一連の外交記事に登場する

 讃・珍・済・興・武の国王を

 倭の五王と総称している。

 倭の五王を中央政権の大王という前提にたって、

 一字一音で表している倭王たちが

 漢風諡号でのどの天皇にあたるかの

 研究は古くから盛んであり、

 最後の王からたどると、

 武・雄略、

 興・安康、

 済・允恭、

 珍・反正の四人の関係については

 異説がほとんどないが、

 讃は仁徳説と履中説がある。

 このほか、

 石上神宮に伝世してきた鉄製の七支刀の銘文から、

 旨という一字表現の倭王の存在を

 推定することもできる。

 七支刀は、

 百済製で4世紀後半の年号を刻んでおり、

 それは中期のごく初めか直前にあたるだろう。

 私が興味をおぼえるのは、

 『魏志』では日本側の国王を

 卑弥呼や壹與と表現し、
 
 飛鳥時代の状況を述べた『隋書』でも、

 姓は阿毎、字は多利思比孤などと

 日本音で記しているのに、

 古墳中期の倭王だけを、

 例外なく一字一音の漢字で記していることである。
 
 これは中期の国王たちが、
 
 中国への遣使にさいして便宜的に

 中国流の表現をしたのでなく、

 そのように
 
 自ら称していたのではないかと考えている。

 古墳中期に倭の五王が南朝と交渉をもっていたことは

 文化のうえでどのような影響があったのであろうか。

 しかしその前に倭の五王の陵について

 もう少し説明しておこう。

 百舌鳥古墳群の盟主は大山古墳である。

 仁徳陵に指定されている

 わが国最大の前方後円墳である。

 この前方部から、

 明治5年に竪穴式石室が発見され、

 長持形石棺のそばに

 金銅製の甲冑などが置かれていた。

 それから年代を割出すと、

 現在履中陵に指定されている

 古墳の陪塚七観山から出土した

 甲冑や武器類のほうが

 古そうだという意見がでている。
 
 技術面から説明すると、

 大山古墳前方部の甲冑は金銅装をほどこした

 鉄板と鉄板とを鋲留にする技術で製作しており、

 これにたいして七観山の方は、

 一般的には、

 革綴の技術が鋲留に先行することは、

 同じ形式の短甲についてはいえることである。

 仁徳と履中の関係は父と子であるから、

 現在、履中陵に指定されているのが仁徳陵で、

 大山古墳が履中陵とする説や、

 さらに仁徳の実在を認めず、

 大山古墳を反正陵とする説などがではじめている。

 大山古墳の年代についての疑問は

 尊重されるべきだが、

 一つの問題がある。

 というのは、

 七観山との比較の対象が前方部の石室や

 その副葬品であり、

 当然この古墳の本来の被葬者は後円部に

 埋葬されているだろうということである。

 後円部とは別に、

 前方部にもしばしば埋葬施設はあるけれども、

 大山古墳の場合は、

 前方部でも頂上から下の斜面であり、

 特異な埋葬個所である。

 仮に、前方部のこの埋葬が、

 大山古墳の本来の埋葬より

 相当おくれている場合は、

 仁徳陵を積極的に否定したことにならないが、

 その逆の場合は、

 仁徳陵かどうか根本的な検討がいる。

 すでに発表したことだが、

 大山古墳の墳丘の長さは486メートルである。

 これは適当に設計した結果の偶然の数字であろうか。

 私は戦後に中国大陸で発掘された

 二本の物差しに注目した。

 一つは、洛陽の晋代の古墳から出土した骨尺で、

 その目盛では一寸が2.4センチになる。

 同じ単位の骨尺は、

 遼陽の古墳からも発掘されていて、

 4世紀ごろの中国で使用されていた

 物差の一寸は2.4センチ、

 一尺が24センチであることの

 推定ができるようなった。

 この物差をあてはめると、

 大山古墳の墳丘は、当時の中国尺の二千尺、

 後円部の直径が千尺ではなかったかということが

 仮説としてうかんできた。

 このように、

 古墳中期に中国からうけいれた文化の一つが、

 晋尺であったことが推定されるようになったが、

 副葬品のも種々の中国製品がある。

 晋の時代の古墳からは、

 前漢や後漢時代の銅鏡と共に

 位至三公鏡が多数出土していて、

 晋代に流行していたことが分かるが、

 位至三公鏡は前期古墳に少なく、

 百舌鳥古墳群をはじめ中期古墳に多い。

 これも南朝との交渉がもたらしたのであろう。

 出典:加治木義博・言語復原史学会・
    「講演 (1994.10.30 レジメ)」

 《履中陵・第2の被葬者?》

 前方部、謎の円丘(付近から形象はにわ)

 大阪府堺市の履中天皇陵

 (上石津ミサンザイ古墳)から出土、

 宮内庁書陵部が保管するはにわの公開で、

 同陵前方部に被葬者とは別の重要人物が

 埋葬されているとの見方が、

 27日までの考古学者の分析で強まった。

 前方部に類例のない円丘があり、この付近から、

 通常埋葬施設の上部に配置する形象はにわが

 見つかっているため、

 巨大古墳築造をめぐる謎がさらに深まった。

 履中陵は、

 世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の南にあり、

 縦の長さは360メートル、
 
 後円部の直径200メートル、

 全国3番目に規模の前方後円墳で、

 築造形式などから5世紀初めごろのものとされる。

 墳丘上は未調査だが、

 測量で平たんな前方部の南端に庇のようなくぼみに

 囲まれた直径約30メートル、

 高さは数メートルの円丘が確認され、謎とされてきた。

 宮内庁が研究者らを対象に

 初公開したはにわは家形や杯形、

 靭形などの形象はにわ・18点で、
 
 いずれも5世紀初めの様式。

 1986年12月、

 地元の大学生がこの円丘付近から盗掘し、

 押収されたものが中心。

 白石太一郎・国立歴史民族博物館教授によると、

 通常は後円部に主たる被葬者を葬り、

 その上部に家形はにわなどを

 方形に配置、周囲に杯形はにわなどを並べる。

 写真:履中陵の前方部から出土した
 
 盃形はにわ=宮内庁書陵部展示目録から

 (毎日新聞:1994.10.28)

  出典:加治木義博・言語復原史学会・
     「講演 (1994.10.30 レジメ)」

 《仁徳陵・被葬者は別人?
 
  (後継・履中陵より新しい可能性)》

 宮内庁公開(はにわ比較で確認)・5世紀後半築造か?

 大阪府堺市にある

 世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造年代は、

 次代の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)より遅い

 5世紀後半である可能性が大きくなった。

 25日、宮内庁書陵部が公開した

 陵墓出土のはにわの比較によるもので、

 2陵の築造順が墳丘出土遺物で確認されるのは初めて。

 仁徳天皇は5世紀初めごろ在位したとされるが、

 築造時期と食い違うことから

 被葬者は別人との見方も強まっている。

 公開は考古学や古代史の研究者らが対象。

 陵墓周辺で採集、保管している遺物のうち

 仁徳陵人物形はにわ(女子頭部)など

 既に公開したものを含め194点を展示した。

 履中陵前方部の形象はにわ38点は

 1986年に盗掘直後押収されたものなどで初公開。

 白石太一郎国立歴史民族博物館教授(考古学)によると、

 仁徳陵後円部墳丘上から出土した

 円筒はにわ片の大半は穴窯焼きで、

 5世紀後半に当たる

 はにわ編年・Ⅳ期の特徴を備える。

 履中陵の円筒はにわ片は

 黒い斑があり野焼きしたとみられ

 5世紀初めのはにわ編年・Ⅲ期に相当するという。

 履中陵前方部から出土した靭形はにわは、

 奈良県御所市の宮山古墳(5世紀初め)のものと酷似、

 円筒はにわの時期と一致している。

 一方、古田恵二・国学院大教授(考古学)は

 「仁徳陵のはにわは5世紀中ごろと思われ、

  履中陵と同時期の可能性もある」

 と慎重な見方を示す。

 写真:百舌鳥古墳群の仁徳陵(中央)と
    履中陵(左)大阪府堺市で1992年撮影

 写真:仁徳陵出土の人物形はにわ(女子頭部)と
    履中陵の前方部から出土した
    靭形はにわ=いずれも宮内庁書陵部展示目録

 (毎日新聞:1994.10.26)

 出典:加治木義博・言語復原史学会・
    「講演 (1994.10.30 レジメ)」

 《天皇陵関連の参考事項》

 倭国は始めはウワイ(優婆畏=仏教徒)国

 ソナカ宣教師団の国(東南アジア各国)から

 台湾…沖縄…奄美大島…襲(大隈=ウースン=呉孫氏=

 倭津見=ウサギ=宇佐王=倭王)奄美では国名は…

 ウオー(南支音で当て字は大・淡)国と発音されるようになる。

 これが「大国主」の名の始まりで、

 7世紀の「馬子・厩戸」のウマだから、

 大化までは継続した。

 しかし位宮と壹與に政権を奪われて宮崎県へ移動。

 さらに大分県宇佐に移動。

 『宋書』の倭国伝に記録された

 倭王・武の視点はこの宇佐にある。

 その後、さらに四国愛媛に移動、

 次第に讃岐・阿波へと拡大した。

 これが倭王・賛の仁徳天皇の名乗り大雀に一致する。

 当時倭の五王時代の始まった4世紀で、

 さらに淡路島から海を越えて大阪に上陸。

 大阪湾の古名はチヌで王名の「珍」に合うが、

 これは沖縄語の「キノ国」のこと。

 この国名の名乗りは「ウチヌ・稚郎子」、

 これ大と紀州を取ったことを意味している。

 天皇名は去来穂別=履中天皇。

 去来の真稚で、キラ・チヌ=紀国・茅沼。

 二つの名乗りを二人と勘違いしたもの。

 和泉の王が「倭済(イスミ)。

 河内(コウチ)の王が「興」。

 「武(タケシ)」にいたって

 ヤット奈良県に入って「高市(タケチ)」国を始めた。

 これが神武奈良東征の原型になる。

 その神武(カム・タケシ)という当て字は、

 この倭王・武を指している。

 だが、

 『日本書紀』の神武天皇紀は数人の事跡が

 混入している。

 その神武東征の内容は、

 3世紀の卑弥呼政権打倒の際の垂仁天皇ものが

 最大のウェイトを占めているし、

 さらに遡って、

 紀元前の縄文・弥生時代の記憶も混じっている。

 これが神武紀元を

 紀元前660年に決めさせた原因である。

 日本の古代史は、創造を交えては全部だめになる。

 基礎に一か所、駄目なところがあれば、

 全てが崩壊してしまう。

 これは何も歴史研究だけが特別なのではない。

 それは現実が教える。

 近年は地震災害や台風被害が非常に減少した。

 それは建築の進歩による。

 同じ地震で北方四島の被害が甚大だったことが、

 それを立証している。

 人生も、研究もすべて同じことなのだ。

 キチンと徹底して考えれば、人類の未来も、

 自分の未来も、

 ずっと以前から明瞭に見えているものである。

 よく考えることをしないで

 「幸福を神に祈っても駄目」である。

 なぜなら「神」は実在し、

 「霊」も長く死なずに生き続けている。

 それはDNAの中にいるのである。

 「よく考え、瞑想して」

 その神や霊と話さなければ、
 
 神も霊も教えようがない。

 他のことに夢中になっていては

 悪魔と不幸の餌食になるのは当然だ。

 出典:加治木義博・言語復原史学会・
    「講演 (1994.10.30 レジメ)」

 《神の贈り物》

 「仁徳天皇陵」

 1994.10.25日宮内庁が公開した
 
 この陵出土埴輪の比較から、

 この陵よりも、次の代の履中天皇の建造 

 時期が古く、

 仁徳天皇陵は5世紀後半ごろのものと確認された。

 これは私がはっきり特定した「百済王・蓋鹵」が

 建造したものだという事実の正しさの証明である。

 彼は『三国史記』では475年に死んだとある。

 「履中天皇陵」

 1994.10.28日づけの毎日新聞一面の記事はまた、

 それに関連して、

 この陵の前方部に「謎の円丘」が 

 あることが確認されて不思議がっているが、

 これも古墳はストゥーパであるという

 私(加治木義博)の説を立証したもので、

 応神陵は九輪まであった事実を、

 サーンチーの大ストゥーバの写真を添えて、

 写真で説明しておいたから、

 読者には何の不思議もないと思う。

「伊勢神宮のルーツ」

 1994.10.29日午後5時すぎのNHKテレビ総合の番組は

 「棟持ち柱」のルーツを中心に、

 日本人のルーツが東南アジ経由だと、

 鹿児島の王子遺跡の写真などを見せ、

 スラウエシのトラジャ族の家屋と

 伊勢神宮のそれとを比較して見せていた。

 それは『邪馬臺国の言葉』に

 私(加治木義博)が

 昭和51年(1976)に書いたもので、

 20年近くかかって、

 やっと定説として認められたことになる。

 こんなふうに私が先を読めるのは、

 何も不思議ではない。

 それは超能力ではなく、

 歴史を正しく見る方法を発見したからなのである。

 それは、

 一方ではノストラダムスの予言詩を

 正しく解読させてくれたし、

 『黙示録』も目で見るように

 未来を見る案内書にしてくれた。

 そしてこの2つの文献

 『カピトーリウム神託集』を参考にしている。

 が、

 それは卑弥呼らが宇佐托宜集などに

 残したものと同じものなのである。

 歴史は個人の運命までは見通せないが、

 大まかな事件のパターンと周期を記録している。

 人類はDNAの中に

 大掛かりなコンピュータを持っている。

 その容量は凄いものである。

 なぜそれがわかるか…?。

 それはハヤトウリなどの知恵の凄さを見ればわかる。

 彼等は今年の異常気象をすべて予知していて、

 開花時期を遅らせ、

 結実を見事にコントロールしている。

 見たところどこにも脳のない植物が

 そんな知識と知恵と能力を

 持っているのだから、

 人類がそれ以上のものを持っているのは

 当然なのである。

 ただその使い方を知らず、

 間違った生き方をしているだけなのだ。

 そして早く老人になり廃人になり、

 健全な人の邪魔をする。

 実に愚かなことだ。

 人は人生にも健康にももっと

 責任を持たねばならないと思う。

 幸福の「コツ」は、

 何事も「いい加減にしない」

 すべてを

 「キチンと始末する」こと。

 始末とは初めから終わりまで

 完全にということなのである。

 世界で続発する事件は、
 
 大事故、大災害、戦争、

 そして王室スキャンダルに至るまですべて

 「いい加減」に原因しているのである。

 出典:加治木義博・言語復原史学会・
    「講演 (1994.10.30 レジメ)」

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録30:24頁

 《「倭の五王」治世年の文献別比較》
 
 名 『宋書』 年 『日本書紀』年 『三国史記』新羅 年 『三国史記』百済 年

 讃 421~425    仁徳天皇 87  訥祇 417~458 42 典支 405~420 20

 珍 425~443 19  履中天皇 6 慈悲 458~479 22 久尓辛420~427 8

 済 443~451  8  反正天皇 5 照知 479~500 22  毘有 427~455 29

 興 462~478 17  允恭天皇 42 智証 500~514 15 蓋鹵 455~475 21
           安康天皇  3 文周 475~477 3

 武 478~      雄略天皇 23 『三国史記』高句麗  長寿 412~491 79

 ※「訥祇(トッキ)・

   照知(ゼウス)・

   典支(テンキ)・

   久尓辛(クジシ)・

   毘有(ビウ)・

   文周(モズ)」
 
 『宋書』の記事は、讃は死ぬ前だけ、

 武は即位前後だけで、

 全治世年数は不明だが、あとの3人はだいたいわかる。

 それを『日本書紀』の治世年数と比べてみると、

 どれくらい違うか、よくわかる。

 これは『宋書』はウソを書く必要がないから、

 客観的にありのまま書いているのに対し、

 『日本書紀』は対中国宣伝文書という性格上、

 どうしても幾らかの小細工がしてある。

 史実を復元するためには、

 『宋書』によって『日本書紀』を修正することが、

 重要な出発点になるのである。

 またそれには当時の倭国連邦の内にあって、

 自国の王として天皇の事跡を記録している

 朝鮮半島の『三国史記』も役立てなければならない。

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    138頁

 《大山古墳の復原》

 先に紹介した

 明治5年発見の大山古墳の石室内の状況は、

 当時の古図や記録で、ほぼ復原することができる。

 それによると、石棺東方に

 「此所ニ甲冑 硝子杯太刀金具ノ破裂等アリ」

 と記されているが、この硝子杯というのは、

 それを実見したいという黒川真頼の説明では

 「硝子製の器二箇あり。

  一つは瑠璃色にして壺のごときもの。

  一つは白色にして皿のごときものなり」とある。

 しかし何分にも実物が埋められ、

 図もないので暗中模索であったが、

 幸い昭和38年に奈良県新沢千塚126号墳の発掘で、

 コバルト色の皿に白色のカットグラスの小壺形の碗が

 セットになって、

 金色燦然たる装身具とともに埋めているのを

 自分の手で掘り出すことができた。

 この硝子器については『ミュジアム』誌上で

 「ガラス器を出土した古墳」の一文で紹介したが、

 それは世に有名な河内の

 古市築山(安閑陵)古墳出土の

 玉碗や正倉院のガラス器のように厚手ではなく、

 ひじょうに薄手で、

 年代も厚手より遡ることがわかった。

 中国では、同じような薄手ガラス器が

 南方の広州の古墳から出土しており、

 このようなペルシャ製のガラス器が中国を通り

 日本へはるばるもたらされたのである。

 新沢のガラス皿には、人物、動物、樹木などの

 絵がつけられていて、本場のペルシャでもまだ

 これほどの遺品が発見されていない。

 5世紀における南朝との交渉で日本へ伝えられたのが、

 中国製品だけでなかったわけで、

 当時の雄大な国際関係に驚嘆するほかない。

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
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