2016年1月9日土曜日

誉田山古墳と乗馬の風習

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    131~134頁

 《誉田山古墳と乗馬の風習》

 《誉田陵の説話》

 厳密な文献批判によって

 実在の可能性の認められる

 最古の天皇は応神天皇である。

 ここでふれておきたいのは、

 仁徳とか応神という

 漢風諡号は奈良時代に作られたものであるが、

 それでもそれぞれの天皇にたいする

 潜在的な歴史像が

 諡号作製の時に影響したこともあるだろう。

 興味深いのは、

 古代の天皇で諡号に神の字を含むのは、

 神武・崇神・応神だけであり、

 実在は別にして、

 ともに政治上でのエポックにたったと

 古代人が信じていた天皇であろう。

 神武・崇神については、

 建国というエポックで古代人はみてたのが、

 応神とはどのようなエポックにたっていたのだろうか。

 そのまえに、応神陵についての資料をみておこう。

 雄略紀に誉田陵、つまり応神陵についての説話がある。

 「河内の飛鳥の田辺史伯孫が

  古市の書加竜の妻になった

  娘の出産祝いにでかけ、

  帰途誉田陵の下まできた。

  月明かりで見ると赤毛の馬に乗った人がいる。

  その馬は駿馬であったので、

  伯孫は頼んで自分の馬ととりかえてもらった。

  伯孫は喜んで帰宅したが、

  翌朝その馬は埴輪になっていた。

  驚いて誉田陵へ行くと

  埴輪の馬の間に自分の馬が立っていた。」

 この説話は、

 中国の民間の説話に話の筋がにており、

 ここに登場する田辺氏や書(文)氏は

 ともに外来系譜の人たちであるから、

 話が伝わった経路は推定できる。

 それよりも問題になるのは、

 伯孫が見たという埴輪の位置である。

 夜おそく馬で帰るのであるから、

 濠をへだてた墳丘内で見えあたり、

 とりかえたりできるはずはなく、

 そんな不合理な舞台背景では説話は展開しない。

 おそらく道から遠くない濠外、

 多分周庭帯上に埴輪馬が立て並べられていたのであろう。

 もう10年にもなるが、誉田山古墳の濠外、

 御陵への旧参道の石橋(40頁)の

 手前にプールが建設された。

 その際、埴輪馬の頭部が出土し、人びとを驚かせた。

 どうやら、この古墳が築造されてからの数世紀間は、

 濠の外に埴輪馬がこわれずに立ち並び、

 それがその地方では周知の光景であったので、

 説話の舞台背景になったのではなかろうか。

 誉田山古墳では、陪塚の丸山古墳から

 金銅装の見事な馬具が江戸時代に発掘されていて、

 誉田神社に伝えられている。

 前期古墳から馬具が出土した例はないから、

 誉田山古墳の時期から乗馬に関する遺物が

 急にあらわれるのである。

 誉田山古墳そのものについてはわからないが、

 その周辺やほぼ同時期の古墳で観察すると

 銅鏡の数が激減し、

 さらに銅鏡や玉の材質や製作技術が悪くなる。

 著しい傾向は副葬品の組合せの中心が

 鉄製の武器類になり、

 刀・剣・矛と、甲冑類、時には馬具を

 加えた組合せが重要になるばかりか、

 刀・剣や甲冑の埋蔵数が大量化する。

 また前記には馬見古墳群の新山で

 例があるだけの金銀製品があらわれ、

 黄金で武器や馬具を飾ることがおこなわれる。

 このような武器中心の副葬品をもつ古墳を

 5世紀型古墳と私はよんでいるが、

 それ以前の古墳に比較してみよう。

 「写真」馬の顔にきせた鉄面:和歌山市大谷古墳

 《前期古墳と5世紀型古墳》
 
 前期古墳の典型的な副葬品を、

 古墳の主である当時の大小の支配者に

 身につけさせた状況を想像すると、

 現在のわれわれには理解できない司祭者か

 呪者の姿になろう。

 もちろん、司祭者といっても、

 すでに弥生中期の三雲や須玖に例があるように、

 一人が用いる以上の数の武器類を副葬し、

 前期古墳でも数十本の刀・剣を

 副葬した例はあるから、

 軍事的支配者の側面を有していたことは当然である。

 さらに、鉄製農・工・漁具の副葬は、

 かれらが民衆からかけ離れた生活をした

 支配者でなかったことを示している。

 前期古墳の主たちは、

 軍事面での指揮者であり、自らも武人であり、

 また生産面での技術者でもあっただろう。

 しかし、古墳に埋葬されるにさいしては、

 司祭者の性格がつよく強調されているのである。

 私は誉田山古墳以後を中期古墳に分類している。

 だが、

 今説明したような前期古墳を代表する被葬者は、

 古墳中期になるとすべてが武人的性格を

 濃厚にするとは思えない。

 誉田山古墳以後に、

 とくに河内、和泉に強くあらわれる

 武人的性格の副葬品を

 もった古墳を5世紀型、

 または古市・百舌鳥型の古墳とよんだ

 理由はそこにある。

 古墳文化の上で分類すると、

 誉田山古墳をほぼ境にして

 前期と中期になるということは、

 古墳そのものにもあらわれている。

 誉田山古墳は、墳丘の表面積の

 広大さにおいては大山古墳を

 凌駕しているが、平野に築かれ、

 しかも同一水面でめぐる周濠があり、

 陪塚と周庭帯をもち、

 土木技術のうえでは前期古墳と格段の差がある。

 高橋逸夫博士はこの墳丘土量を

 143万立方メートルと計算したが、

 少なくとも百万人前後の労働が

 この古墳の栄造に使われたのである。

 応神天皇はのち誉田八幡として神格化され、

 後円部頂上の祠に祭られた。

 古墳の被葬者が神に祭られるのは、

 天皇陵では他に例がない。

 岩清水田中家文書によると、

 長久五年(1044)以前から、

 「誉田山陵は大菩薩御舎利の処なり」として

 特別の保護と信仰があったことが分かる。

 他の天皇陵のように、

 中世や近世に祭祀と管理がとだえたのでなく、

 応神陵だけは八幡信仰によって

 現代まで続いているのである。

 だがこの場合も、応神の実在の証明にはならない。

 応神天皇にたいする古代史家の見方にも

 注目すべきものが多い。

 国外からの征服王説、

 九州からの征服王説、

 さらには今までの三輪王朝に

 たいする河内王朝説などがある。

 つまり記紀などの史料を通しての研究でも、

 エポックとなりうる可能性、

 少なくとも三輪王朝(私のいう初瀬王朝)との

 交替がうかんでくる。

 では先ほどから述べてきた考古学の知見では、

 古代史家のどの学説を支持できるかとなると、

 やはり外からの征服王朝説、

 つまり江上波夫氏の提唱した雄大な仮説、

 北方からの騎馬民族征服王朝説に

 近いのではないかと思う。

 とくに、

 巨大な墳丘の構築に要した労働力の問題を考えると、

 前代から継続してきた支配者よりも

 新しい支配者によるものと考えられ、

 その念を深める。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     WAJIN:138~140頁

 《史実にもとづいていない北方騎馬民族説》

 鳥桓・柔然と呼ばれた人々は、

 江上波夫氏に代表される

 「北方騎馬民族説」との関連の中で、

 「北方騎馬民族」と

 十把一絡(じゅつぱひとから)げに呼ばれていたが、

 今ではその説に多くの疑問点が続出して、

 そんなアイマイな概念だけでは誰も満足しなくなった。

 その反論、批判の中から1~2をあげてみると、

 京都大学の小野山節氏の

 「古代史発掘6・古墳と国家の成立ち』

 (講談社刊、1975年)の中の批判は、

 その説の思想もわかって都合いい。

 手短かにダイジェストしてみよう。

 「1949=昭和24年に江上波夫氏は、

 前期古墳の副葬品は農耕民族的なのにたいし、

 後期古墳の副葬品は武器、馬具、服飾品が

 大陸的な騎馬民族的性格を示す。

 これは東北アジア系騎馬民族が海を渡ってきて

 日本を侵略し征服した結果だ、と主張した。

 続いて金錫亨(キムジュヨン)氏が

 『三韓三国日本国内分国論』を発表した。

 これは紀元前から三韓の分国が

 日本列島内に作られ三国時代以後、

 百済・新羅・伽洛(カラ)が分国を作ったらしい。

 その理由は朝鮮と日本から

 同じ種類の出土品が出るからだ、というのだ。

 これは遺物の種類や型式によって

 民族を考えようとする点で、

 江上氏と同じだ。

 日本人は一般に文化は外来文化の影響で変化、

 発展すると思っているが、

 江上説を疑う人は、

 4世紀から大陸的な文化が現れたとしても、

 それは単に大陸から伝えられただけで、

 何も征服されたと考える必要はない、という。

 こうした論争は日本だけで起こっているのではない。

 英国の著名な先史学者グレアム=クラークが、

 英国の20世紀前半の考古学者は、

 あらゆる変化は海外からの侵入者による、

 というムリな説明をしているが、

 それは英国の帝国主義的な発展のために

 ヴィジョンが歪められているからだ、

 と過去の説の再検討を提案した。

 たしかに、

 新しい高度な文化は侵略者によって持ちこまれる、

 という侵略を合理化する考え方とからみあって、

 侵略仮説を普及させていったことは

 事実だと考えられる。

 侵略仮説の根底にあるものは、

 特定の遺物と民族または人種とを

 結びつける考え方である。

 これをとくに強調したのは

 ドイツのグスターフ=コッシナと

 その後継者たちであった。

 これはゲルマン民族の優秀性を

 誇張宣伝したナチズムに組み入れられて、

 周辺諸国への侵略の口実に使われた。

 コッシナは遺物を残した集団は

 民族あるいは人種だといったのだ。

 江上説も金説も、

 このコッシナ説と共通するものをもっている。

 しかしどの時代の変化についても、

 この考え方を適用できると思うのは

 明らかに誤っている。

 たとえば明治維新の変革だ。

 江戸時代の天皇または将軍の風俗にくらべると、

 明治天皇はまさに

 19世紀ヨーロッパの支配者にみえる。

 これを、それまでチョンマゲを結い、

 着物を着ていた在来の日本列島人を、

 ヨーロッパ人が新鋭の艦船と軍備をもって

 侵入してきて征服した結果、

 憲法、軍備、建築、服装にいたるまで変化したのだ、

 と説明するのが、

 コッシナ~江上~金式の説なのである。

 だがいうまでもなく、

 明治政府の成立をヨーロッパ人による

 征服の結果だというのは、

 明らかに誤りなのである。

 また江上、金氏ともに、

 政治的統一未完成の4世紀後半の日本では

 朝鮮半島の侵略は

 不可能だと決めつけているが、

 本当にそうと決まっているのだろうか?

 統一国家成立以前に侵略を起こした例は

 世界中に少なくない。

 この点も比較研究が必要な重要課題として

 残されている。

 このように、

 「北方騎馬民族説」を生みだした

 思想と思考方法そのものが

 根本から間違っていることを、明確に指摘している。

 思想や政治に無知で無関心な一部の考古学者の中には、

 その「騎馬民族説」を無批判に支持した者もあったが、

 それは史学の基本である

 「史実にもとづく」という原則を忘れている。

 また考古学者の中でも古墳に詳しかった

 後藤守一氏は、

 応神、仁徳の両天皇陵が

 前期古墳の竪穴(たてあな)式であることを指摘して、

 外観は巨大化して型式も変わっているが、

 これを後期古墳だとして、

 前期古墳と後期古墳との変動が

 北方騎馬民族の征服の証拠だというのは、

 根本的に誤っていると指摘した。

 江上氏は

 「それは墓作りが土着の人のせいで、

  支配者の持ち物だった副葬品が証拠なのだ」

 と反論したが、

 この論争も今では後藤氏が正しかったことになる。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学院講義録18:23頁

 《日本語は「北方騎馬民族」がもってきたのか?》

 しかし大学院講義録18で

 ご覧に入れた『干支圏』研究がなければ、

 日本語がウラル…アルタイ語文法だという

 比較言語学の定説は、

 日本人の言語を支配するほどの強力な勢力が、

 ウラル…アルタイ地方から日本列島へやって来て、

 支配し続けた結果だと思わせても無理はない。

 しかし江上説のように

 5世紀に日本列島へ侵入して大和朝廷を造った勢力

 《私たちの研究では、

  いま主題に取り上げている

  『倭の五王政権』》が、

 そのウラル…アルタイ語を話していたであろう

 『北方騎馬民族』だ。

 としたら、果たして、

 それ以前に日本列島全域に分布していた言語を、

 この政権が完全に抹殺して、

 入れ替えることができたであろうか?。

 今の日本語は発音やアクセントには

 地域差が大きいが、

 その語順=文法はすべてウラル…アルタイ語である。

 しかし1872年明治政府が学制をしいて、

 津々浦々にまで義務教育を課し、

 標準語を教え続けて130年以上経っても、

 日常語は古い土着語だ。

 ましてやそんな問題に無関心な5世紀の政権が、

 列島全域にウラル…アルタイ語を

 教えることなどありえない。

 さらに5~7世紀の朝廷は関東以北には無力だった。

 なのにそこもウラル…アルタイ語圏なのだ。

 だからウラル…アルタイ語は五王とは無関係で、

 太古から東アジヤに広く濃厚に分布していた言語だ。

 それをウラル…アルタイ語と呼ぶから、

 そんな幼稚な想像説が生まれたのだ。

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
  『天皇陵』 
   『古墳マップ』 
  『古墳』
  『日本の古墳一覧』
  『Category:日本の古墳』
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  Category:日本の陵墓の画像
   堺市デジタル古墳百科
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  装飾古墳データベース
  考古用語辞典

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