2016年1月13日水曜日

群集墳と横穴式石室

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 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    144~147頁

 《群集墳と横穴式石室》

 《新沢千塚と岩橋千塚》

 日本中が古墳づくりに狂奔していたのが6世紀である。

 塚原、百塚、千塚などの地名は各地に多いが、

 ほとんどが後期の群集墳に対する土地での呼び名である。

 群集墳も古墳群の一形態であるが、

 それは後期という時期で規定するのではなく、

 古墳群の形成の状況で決めている。

 群集墳的な古墳群として有名なものに、

 奈良県橿原市の新沢千塚、

 和歌山市の岩橋千塚がある。

 新沢千塚は約300基、

 岩橋千塚は約550基で構成され、

 わが国の群集墳としては最大規模である。

 新沢千塚は、

 奈良盆地の南に横たわる越智岡丘陵にあって、

 大部分が直径15メートル前後の円墳であるが、

 前方後円墳、前方後方墳、方墳が群内の

 盟主的存在として点在する。

 内部構造は、

 ほとんどが組合せ式木棺を直葬しており、

 中期から後期前半の古墳が多い。

 岩橋千塚は、
 
 紀ノ川の川口に近い千塚山塊に数支群に分かれており、

 やはり円墳が大半を占めるが、

 各時期の盟主墳として前方後円墳があり、

 最終の時期には方墳が盟主となっている。

 岩橋千塚では、5世紀には横穴式石室が築かれ、

 間もなくほとんどの古墳に普及した。

 日本において、横穴式石室が最初に普及するのは、

 以外にも和歌山の地である。

 新沢千塚と岩橋千塚に焦点をあわせたのは

 次のような意味である。

 ①両古墳群とも広義の群集墳ではあるけれども、

  全国各地に広汎にあらわれる狭義の群集墳にくらべ、

  古墳が築き始められた時期と、

  大勢として築き始められた時期と、

  大勢として築きおわる時期とがともに半世紀は早い。

  しかも、群集墳とはいえ、新沢千塚には、

  鳥屋ミサンザイ(宣化陵)古墳という

  全長140メートルの前方後円墳、

  倭彦命墓に指定されている

  大方墳の枡山古墳を含み、

  岩橋千塚にも天王塚や井辺八幡山など

  後期の前方後円墳としては

  ずばぬけた規模の古墳を含んでいる。

  このように出現も衰退も早い群集墳は、

  その形態において、

  中期の古墳群(百舌鳥など)と、

  狭義の群集墳を同一の山地形の

  範囲で構成させた傾向がつよいのである。

 ②それぞれの古墳を築いた集団のことであるが、

  新沢千塚の所在する地域は、

  律令体制下では大和国武市郡に属している。

  武市郡は外来系譜人(帰化人という人がある)の

  集団居住していたところで、

  少し後の史料ではあるが、

  宝亀三(772)年にこの地に本拠をかまえる

  東漢氏の宗教的立場にあった坂上苅田麻呂が

  「武市郡内には他姓の者は十にして一、二なり」

  といったことが奏上文の一節にでている。

  新沢千塚の126号墳から出土したガラス器につては

  すでに述べたが、この古墳は墳丘が長方形で、

  大陸的特色がつよいばかりか、

  おびただしい舶載品がわれわれを驚かせた。

  日本の古墳で、

  もっとも大陸的というのは数だけではない。

  中国の熨斗(ひのし)や

  四神を描いた漆器の盤、

  西方からもたらされたガラス器、

  北方系騎馬民族の鮮卑の墓に例のある黄金製冠、

  オリエント地方に多い螺旋形の黄金製髪飾、

  新羅風の豪華な黄金の耳飾や指環、

  金箔いりのローマのガラス玉などと

  数えあげると楽しくなり、

  また日本古代史の奥の深さがおそろしくなる。

  新沢千塚は東漢氏と関係があったと仮定している。

 岩橋千塚をのこした集団については、

 紀氏との関係が当然考えられている。

 しかしそれだけでは物足りない。

 考古学でいえば、大陸的な横穴式石室をいち早く

 墓制に採用した地域というだけでも期待に胸がはずむ、

 遺物では、新羅風の須恵器がしばしば出土している。

 面白いのは、紀ノ川流域でも岩橋千塚の対岸では、

 新羅風の須恵器は少なく、

 かえって伽倻地方に類似した須恵器が出土する。

 《井辺八幡山古墳》

 昭和44年春、

 同志社大学考古学研究室の学生諸君とともに

 和歌山市の委嘱で、

 井辺八幡山の造出しの調査をおこなった。

 6世紀初めの前方後円墳である。

 東西二つの造出しからは、

 各種の埴輪と装飾付須恵器が出土し、

 北方系文化の影響が強烈にでている。

 ところが、破片になっていた埴輪の復原が進むと、

 裸形でふんどしをした男子が、

 いずれも髪形は後頭部で

 一本にたばね下げているではないか。

 われわれは、

 中期に近い古墳時代人には、刀や土器などの遺物を

 パイプにして間接にふれていただけであった。

 そのため、頭の左右で美豆良(みずら)に結った

 関東の人物埴輪の姿がいつの間にか

 古墳時代の男の像としてやきついていた。

 井辺八幡山の人物は、いままでの古墳時代人観を

 一変させるものである。

 このような後頭部一本の髪形は、

 偶然の類似でなければ、

 のちの清朝の辮髪につながるし、

 清朝の辮髪の源流は、

 文献的には6・7世紀の鮮卑など

 北方系民族の間に見出せる。

 また、ふんどしと書くと南方系を連想するが、

 それは現代のことであり、同時代の資料では、

 高句麗古墳の壁画に描かれた数例のふんどしがあり、

 北方系につらなるのである。

 岩橋千塚を築き、のこした集団にも、

 北方からの外来人がいた可能性がつよくなった。

 「写真」あごひげをはやし、
     鼻の上に翼形の入墨をほどこし、
     ふんどしをした埴輪
     :和歌山市井辺八幡山造だし

 《横穴式石室と黄泉国》

 6世紀になると、

 各地で大小の群集墳がはげしい勢いで形成される。

 大阪府高安千塚、平尾山千塚、

 奈良県山口千塚、シュクン谷古墳群をはじめ

 枚挙にいとまがない。

 埼玉県の吉見百穴、

 熊本県の鍋田や長岩の横穴群も

 群集墳の一形態である。

 群集墳にたいしては、

 古墳を造営できる人たちの増加で説明されている。

 もちろんそれは正しい。

 国家が古墳築造についての権限をもち、

 カバネ制といわれている身分制度の具体的な政策として、

 数種のカバネの賜与に伴って、

 死後の身分的秩序の象徴として

 各種の古墳の営造が認められるのであれば、

 カバネをもった人たちの増加、

 いい換えれば、

 より多くの人たちの国家体制への組入れを意味するだろう。

 カバネ制の拡大で、群集墳の広汎な出現を説明できても

 まだ納得できない点である。

 土を築き上げるという外観上の墳丘だけならともかく、

 その内部に巨石を架構した巧妙な横穴石室が

 普及している事実である。

 しかもそれがいい加減な手抜き工事ではなかった証拠に、

 自然の力では崩壊せず、厳然として遺っている。

 なぜ心をこめて構築したのであろうか。

 石舞台の天井石のように一個で77トンはないとしても、

 10トン、20トンの巨石なら、

 各地の横穴式石室の用材にいくらも見かける。

 なぜ、人たちは横穴式石室の構築に熱中したのであろうか。

 ここではくわしく述べないが、

 横穴式石室とは死者が死後の世界で

 生きつづける黄泉国なのである。

 横穴式石室には、

 水筒形の須恵器(堤瓶)が

 ほとんどの死者にそえられているが、

 それは死者がたずさえてゆく水の容器である。

 このように死後の世界観の一変と、

 その急速な普及を横穴式石室の分布の背後に

 見出せるわけだが、

 この新しい死後の世界観が巧みに政治支配に利用され、

 横穴式石室そのものも身分によって大きさの制限を

 うけたことが推定される。

 《群集墳への私考》

 群集墳とは、

 小古墳が密集したものだと説明されている。

 しかし実際の山野を見ると、

 群集墳はごく限られた土地に集まっていて、

 その周辺の土地に古墳が存しないのに気付く。

 そこで群集墳の分布範囲を計ってみると、

 東西二町、南北一町などの中にすっぽり入ることが少なく、

 その面積は天皇陵古墳の兆域よりたいてい狭い。

 たとえば、大規模な群集墳として名高い

 大阪府八尾市の高安千塚は東西約五町、南北四町と、

 さすがに広いが、

 福岡県山門郡瀬高町の長谷古墳群は、東西三町、南北二町、

 和歌山市寺山古墳群は東西、南北とも約一町であり、

 この程度の群集墳がもっと多いのでらる。

 群集墳は、

 任意に構築されて、結果的に密集したのではなく、

 まず最初に、国家または地方政権から、

 その集団の墓地が認められ、

 その内部で古墳の構築をつづけたから必然的に

 群集したと私は最近考えている。

 しかし、この傾向は、

 新沢、岩橋ではそれほど見出せない。

 私は、新沢千塚や岩橋千塚を中期型の群集墳、

 高安千塚や山口千塚を後期型群集墳と

 分類してはどうかと考えている。

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