ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年4月1日日曜日
兕觥が生んだ中国発掘考古学の発祥
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録27:6頁
《兕觥が生んだ中国発掘考古学の発祥》
「兕觥が生んだ中国発掘考古学の発祥」
この兕觥が届いた明治末当時の中国には、
いま私たちがいう発掘考古学者はいなかった。
だからこの兕觥は、意識して発掘して見つかったものではなかった。
農民が農作業の際に、偶然、掘り当てて、何かはわからないが、
幾らかになればいいと骨董屋に持ち込んだものに過ぎなかった。
骨董屋もそれが兕觥どころか、いつの時代の、
何に使うものかもわからずに、
ただ古いものらしいという程度で何がしかの小銭で買取り、
次第に転売されて北京の老舗に買い取られた時には、
価格が破格に吊り上がっていたというに過ぎない。
だから祖父に届けられたときも、
ただ「故銅」という商品名しかついていなかった。
それが殷のものだということになったのは、
この孫文が高価で買って日本の恩人に贈ったという噂が刺激になって、
宝探しがブームを呼び、
次第にまとまった出土品が見つかり、
骨董屋の店頭に並ぶようになったために、
それに刺激された歴史学者の一部が、
やっと西欧式の発掘考古学を真似はじめて、
次第に時代区分がつけられるようになり、
また店頭の出土品が欧米や日本の骨董商に、
高価に取り引きされるようになったことから、
模造品が造られはじめ、
それにも商品名が必要になるといったことで、
昭和初頭には学者たちの研究も進んで、
本器の仲間はすべて兕觥という名称で、
取り扱われるようになって行ったのである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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