ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年1月29日日曜日
スキタイ・スキュタイ(12)
スキタイ
スキタイ
《インダスヘ入ったアーリャ人こそ塞=釋迦族=倭人》
中国人が、その「倭」に人をつけて「倭人」と表記したのは、
遅くとも周の時代だったと解るのは、
『論衡』にある「倭人、鬯草を貢す」という記事によるが、
周の前の王朝が殷で、それは稲敷から中国へ渡ったウバイド人が建てた国だったことは、
既によく御存知だから、もう『論衡』を疑う必要はない。
この鬯草は東南アジアに多産する薬用キノコの一種・霊芝(レイシ)だから、
倭人の移動コースもわかるし、当時、すでに薬草知識が発達していたことも解る。
だがそれ以上に、古代ウバイドからインダスへ移住した人々がパーリ語人であり、
シャカ族すなわちスキタイ人(塞)だったから、
魏は塞曹掾史の張政を我が国に派遣したのだと、
当時の人種区別と認識の深さも併せてわかる。
『魏書倭人章』の解読は、ここまで解らなければ十分だとは言えない。
これでウバイド人がインダスヘ入ったことは動かなくなったが、
それはスキタイ人で、在来、単にアーリヤ人という漠然とした
呼称でしか呼ばれていなかった人たちだったから、
この発見は世界史上、最も重要なものの1つになった。
またこの発見が不動の確実牲をもつことも
仏教の説く最大の特質『慈悲』が、
平和と愛を鉄則とした
女性国家・ウバイドの国是からしか生れない思想によるものだったと判る。
卑弥呼はウバイド女王なのである。
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