ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年4月18日水曜日
マレー語に関する章(63)九州に実在した「数を国名にした国々」
《九州に実在した「数を国名にした国々」》
「九州に実在した「数を国名にした国々」」
ここでついでに記憶しておいて戴きたいのは、
沖縄語はマレー語系だから3母音語なのであるが、
そのマレー語で「1」を意味する「サツ」が国名の「壹」に取って変わって
壹国(マ)→「薩摩(マ)」という国名になったのも、
さきにお話しした8世紀の薩末(マ)比売の時代からで、
その証拠に、ご覧のとおり薩摩という文字も、
当時はまだ完成せず薩末(マ)と当て字している。
だがそれは、
その地域が壹国、
すなわち壹與と伊支馬を首班とする邪馬壹国だったことの、
生きた証拠なのだということである。
では壹国とはどんな意味をもった国名だつたのか?。
実は古代九州には数を国名にした国々が完備していたのである。
挙げてみよう。
一国 伊支馬・壹国
二国 日本
三国 三瀦(づま)=三津国(福岡県)
四国 斯馬
五国 呼邑・五島(長崎県)
六国 六合=リクアウ→リクウ=琉球・陸奥=ムツも6
七国 敷根=シッネ(鹿児島県)
八国 八耶=ハヤ=隼人(鹿児島県)・八幡=ハチマン=八国(マン)の(鹿児島県)
九国 狗奴・球磨(鹿児島・熊本県)
十国 重富=ジュウフ(鹿児島県)・投馬=十之国=十島(鹿児島県)
これらは3世紀より前に沖縄から九州全域に分布して、
消長があったことがわかる。
古代九州には、数を国名にした国々が、もう1種類ある。
10頁のものはイチ・ニ ・サンという中国の数詞だったが、
こちらはヒ-・フー・ミーという日本式数詞なのだ。
ヒー 火・日・肥
フー 不弥・不呼
ミー 弥奴
ヨー 与那
イツ 伊都
ムー 霧島・武・牟田
ナー 奴国・那覇・娜・儺
ヤ 八女・山国
コー 高麗・甲突川(鹿児島市)・コーツキ=高津王
トー 投馬=十国=十島
倭人章の中に記録されていない国名があるが、
それは「もと百余国あったが、
使訳=使者や通訳、通ぜる=これには「外交関係がある」と「知っている」との
2つの意味があるが、
そんな国が「30か国ある」という報告記事があるのだから、
魏との外交関係のない国が、
記録に入っている国々以外に、まだ70国あったのであって、
この数詞の国はその全体に散らばっていたのである。
それが2千年近く経った今でも確認できるはど完全に揃っていることは、
それが偶然そう見えるだけなのではなくて、
本当に実在したことの証言なのである。
この事実は、3世紀以前の九州の文化が、
すでに中国の数詞と日本の数詞とを使い分け、
それに対応する漢字も使いこなしていたことを、
しっかり立証しているのである。
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