2012年4月18日水曜日

マレー語に関する章(63)九州に実在した「数を国名にした国々」



 《九州に実在した「数を国名にした国々」
 「九州に実在した「数を国名にした国々」

 ここでついでに記憶しておいて戴きたいのは、

 沖縄語はマレー語系だから3母音語なのであるが、

 そのマレー語で「1」を意味する「サツ」が国名の「壹」に取って変わって

 壹国(マ)→「薩摩(マ)」という国名になったのも、

 さきにお話しした8世紀の薩末(マ)比売の時代からで、

 その証拠に、ご覧のとおり薩摩という文字も、

 当時はまだ完成せず薩末(マ)と当て字している。

 だがそれは、

 その地域が壹国、

 すなわち壹與と伊支馬を首班とする邪馬壹国だったことの、

 生きた証拠なのだということである。

 では壹国とはどんな意味をもった国名だつたのか?。

 実は古代九州には数を国名にした国々が完備していたのである。

 挙げてみよう。

 一国 伊支馬・壹国

 二国 日本

 三国 三瀦(づま)=三津国(福岡県)

 四国 斯馬

 五国 呼邑・五島(長崎県)

 六国 六合=リクアウ→リクウ=琉球・陸奥=ムツも6

 七国 敷根=シッネ(鹿児島県)

 八国 八耶=ハヤ=隼人(鹿児島県)・八幡=ハチマン=八国(マン)の(鹿児島県)

 九国 狗奴・球磨(鹿児島・熊本県)

 十国 重富=ジュウフ(鹿児島県)・投馬=十之国=十島(鹿児島県)

 これらは3世紀より前に沖縄から九州全域に分布して、

 消長があったことがわかる。

 古代九州には、数を国名にした国々が、もう1種類ある。

 10頁のものはイチ・ニ ・サンという中国の数詞だったが、

     こちらはヒ-・フー・ミーという日本式数詞なのだ。

 ヒー 火・日・肥

 フー 不弥・不呼

 ミー 弥奴

 ヨー 与那

 イツ 伊都

 ムー 霧島・武・牟田

 ナー 奴国・那覇・娜・儺

 ヤ  八女・山国

 コー 高麗・甲突川(鹿児島市)・コーツキ=高津王

 トー 投馬=十国=十島
       
 倭人章の中に記録されていない国名があるが、

 それは「もと百余国あったが、

 使訳=使者や通訳、通ぜる=これには「外交関係がある」と「知っている」との

 2つの意味があるが、

 そんな国が「30か国ある」という報告記事があるのだから、

 魏との外交関係のない国が、

 記録に入っている国々以外に、まだ70国あったのであって、

 この数詞の国はその全体に散らばっていたのである。

 それが2千年近く経った今でも確認できるはど完全に揃っていることは、

 それが偶然そう見えるだけなのではなくて、

 本当に実在したことの証言なのである。

 この事実は、3世紀以前の九州の文化が、

 すでに中国の数詞と日本の数詞とを使い分け、

 それに対応する漢字も使いこなしていたことを、

 しっかり立証しているのである。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  
 古代史つれづれ

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿