ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年4月12日木曜日
マレー語に関する章(57)「百済」は移動につれて発音が変わった
《「百済」は移動につれて発音が変わった》
「「百済」は移動につれて発音が変わった」
その経済力が作り出したものが、
大阪府だけにある世界一巨大な墓=巨大古墳群なのである。
それを作ったのが『三国史記』[百済本紀]にある
21代・蓋鹵(コウロ)王なのだ。
(『誰が巨大古墳を作ったのか』参照)。
彼はその時代と「蓋」の発音からみて、
倭の五王の一人・「興」であり、
その行為からみて「河内」に土師器生産の大工業地帯の本拠を築き、
河内に祖先のために巨大古墳を建設した「コウ国」の王で、
朝鮮語では「鹵(口)」は「ノ」と発音するから「コウ・の」王だし、
沖縄式古文なら「コウ・津」と書くから「高津」王であって、
大阪市に「高津宮」を残した天皇だった。
倭王・興は倭王・武の兄だから、
雄略大皇の兄の安康天皇に当たり、義理の息子に殺されるが、
これは[百済本紀]の蓋鹵王の最後も同じである。
これで朝群半島で書かれた[百済本紀]の「百済」が、
半島だけの小国・百済だけではないことが、
はつきりおわかりになったと思う。
しかし倭王・武当時でも中国政府は大阪にあった百済本国を認めようとはしなかった。
より近い小国・百済との外交量が多くて優先していたから、
同じ文字をもった大国が別にあるとは信じられなかったのである。
だが大阪のほうは半島読みのパクチェではなかった。
「百=モ、済=ズミ」だったのである。
なぜそれがわかるか?…。
それは世界最大の墓・仁徳天皇陵とされる
大仙陵がある地域にその名が残っているからである。
それは「百舌鳥耳原=モズミ原」なのである。
「原」は「ワラ=倭国」で、
天照大神の「高天原」でわかるように「倭国政府の所在地」である。
だから「モズミ原」とは「百済倭国の首都」という意味。
倭王・興は首都に巨大古墳を築いて、
その繁栄を誇ったのだ。
ところが大阪市南部には「クダラ」と発音する地域が残っている。
これは朝鮮半島の百済が新羅に滅ばされた時の難民が住んだ跡で、
文字は同じでも全く別物なのである。
だから区別するために「馬韓」をマレー語の「馬=クダ」と
国を意味する「ラ」とでクダラと発音したのである。
同じ発音変化は奈良県でも起こっているが、
こちらは発音に重点があり、別の当て字が残った。
倭迹迹日百襲姫の墓だとされている
桜井市箸中にある箸墓古墳は「ハシ」という名で呼ばれている。
ハシも先に見たとおり、隣接する初瀬(ハセ=大隅語)と同じく
「百済」という文字を沖縄語で発音したものである。
こちらは堺の住民と違い、
沖縄~大隅糸の人々が命名者で、人と時代とが別だったのだ。
だからこの「箸」は単なる当て字にすぎす、
「姫が箸で陰を突いたから箸墓というのだ」というのは、
その発音に何か「いわれ」をつけようとして考えだした
下品な思いつきに過ぎない。
だから埋葬者は卑弥呼ではない。
倭王・武が高市と初瀬・長谷を新たに領土に加えた際に死んだ、
武の一族の誰かの墓にすぎない。
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