2012年3月24日土曜日

マレー語に関する章(38)太秦は始皇帝の子孫か?


太秦は始皇帝の子孫か?
太秦は始皇帝の子孫か?

『ワジン』では「天照大神は秦の始皇帝の三女だ」という伝承が、

広く台湾に残っていることをお話しした。

しかし天武天皇がその子孫であるかどうかは、まだ何ともいえない。

ただ始皇帝の子孫を名乗る人々が、日本の貴族の中にいたことは事実である。

『新撰姓氏録』の左京・未定雑姓にある「笠達(かさだ)王」は

「秦・始皇帝の9世孫で物集連(もづめむらじ)の祖という」と書いてある。

また「太秦(うづまさ)公宿祢」は「秦・始皇帝の三世孫・孝武王より出るなり。

男(むすこ)、功満王。

帯仲彦(たらしなかつひこ)天皇八年来朝。

男・融通王(一云、弓月君(ゆづきのきみ))は

誉田(こんだ)天皇十四年、二十七県の百姓を率いて

帰化し来たり、金銀玉帛などの物を献じた」と書いてある。

この始皇帝の三世孫・孝武王という名は『史記』にも出てこない名で、

それに当たる人物としては

「子嬰(シエイ)」というのが紀元前199年に王として立ち、

四六日で滅ぼされているから、その人物を指すと思われるが、

その息子たちだというのだから、

これはヒミコ時代の帯仲彦(仲哀(ちゅうあい))天皇やその子の誉田

(応神 天皇の時代とは5世紀も離れている。

この年代計算は『日本書紀」の年代だと、ほぼそのころになるから、

これは『日本書紀』の年代を盲信して書き加えたために生まれた誤差である。

秦の遺民が日本にやってきたことは、『魏志韓伝』の辰韓などにも記録されて、

その特殊な言葉遣いが日本語の中にいくつも実在していることなど、

信じていいことである。

また功満はクマン=クマノと変化するから、

熊毛=クマケ=クマノと同じになり、

それが種子ガ島地域の総称であり、

太秦(ウチヌ)がウチヌ=沖縄と大津と同義語であることなど、

天武天皇とは切っても切れない地域に固く結びついていることは事実である。

この地域は3世紀」に「狗(く)奴国」があった地域で、

それが百済の発祥地でもあったことは、

これまで繰り返しお話ししてきた。

それは朝鮮半島に移動して三韓に発展していったから

「馬韓」がマレー語で「クダラ」と

発音されたために、

百済がその不思議な発音で読まれる原因になったこともお話しした。

馬韓(マカラ)とは「馬国」という意味の古代日本語なのだから、

その国民は「マヒト」である。

とすれば「真人(マヒト)」は、

どちらからみても種子ガ島人と深く関係している発音であるし、

「チヌビト」と読めば、

「沖縄~鬼奴(きぬ)国~茅沼(ちぬ)~紀伊」などと結びついて、

これもまた天武天皇の出身地を鮮明に映し出している。

さらに先の『新撰姓氏録』

「物集(もずめ)氏は「百済(もずみ)」の一族であることもわかっている。

とすれば、その名乗りもウソではなく、

いっそう秦の遺民が日本にやってきたことは事実だったとしなければならない。

それが徐福の同行者だったかどうかは別として、

天武天皇が「真人」を八姓のトップにしたことの意味だけはよく理解できる。

言語復原史学会
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《参考》
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