ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年3月23日金曜日
マレー語に関する章(37)邪馬壹国誕生時の五彩圏配置
《邪馬壹国誕生時の五彩圏配置》
「邪馬壹国誕生時の五彩圏配置」
その一番わかりやすい例を、
あなたがよくご存じの『魏書倭人章』の国名でご覧にいれよう。
その中にある「支惟国」は誰が考えても「キイ国=貴国」である。
これは女王国以南の旁国の中に入っていて
「遠絶で詳しくわからない」ところにあった。
しかし先にみたように
佐賀市付近の「キイ郡=基肄郡」はこれとまったく同じ発音をもっている。
私たちはすでに、ヒミコ政権が倒されて邪馬壹国が生まれた直後に、
伊都国の隣りに南から奴国が移動した事実を知っている。
先に霧島が地元では「キイシマ」と発音されることもお話しした。
この三つのキイ国も同じように移動してきたものの、
元の地名と後の地名だと考えることができる。
そして「黄=基肄」の場合の「白=平戸」も知っている。
これは長崎県にある。
その名からわかることは、
「ナガ」は「奴(な)ガ国」の一部だということである。
古代には「前」を「サキ」と読むから「奴ガ前=ナガサキ」になる。
長崎は「肥前=日の前の国」であり、
平戸は「ヒラト=日羅門」で「日の国の入口の港」という意味である。
この日の国は、
旁国ではマレー語で「ハリ(日)国=巴利国」と当て字されていて、
同じように移動してきたことが簡単にわかる。
では対照的な東の大分はどうなるだろう?
そこは「豊後大分」である。
豊後は「不呼国」であることはわかっているから、
これも旁国が同じように移動してきたことがわかる。
ついでにお話しすると、
その大分もオオイタと発音するのは後世のことで、
もとはやはり旁国の一つ「烏(ウ)奴国」である。
この「烏」の当て字は、
奄美大島の「大=沖縄語でウフ」に対する当て字だから、
大分も「大=ウ」「分=フン」で、
やはり「ウフの(ン)国」に対する北九州式当て字なのである。
それが「オオ」の発音で「青=倭」を意味したのだ。
これで「黄=基肄」を中心にした東西線は、
それ以前のヒミコ政権時代には南の旁国の中にあった五つの国が、
邪馬壹国の誕生と同時にまず
「奴国」と「不弥国」が九州北部の中央に移動し、
それと同時か、あまり時間差のない時期に、
他の「支惟国」と「巴利国」と「不呼国」とが、
それと平行して南から移動したという事実が、
地名ではつきり読みとれたのである。
以上で「黄=基肄」を中心にした東西線は、
ヒミコ戦争の戦後に生まれたことが確認できた。
歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、
どの国は、いつ、どこまで、なぜ、移動したかといったことが、
年代別に特定できる、という事実が、よくご理解いただけたと思う。
こんなに見事に歴史の復元ができるのは、
私(加治木義博)の復元した邪馬壹国の位置が正確だという証明なのである。
他の邪馬台国説では、これは絶対に不可能なのだ。
北九州説では二つの奴国の説明もできないし、
大和説では途中にある多数の「東西線」全部の説明がつかないだけでなく、
こうした旁国の位置関係のような、ありとあらゆる証拠が、どれもこれも食い違う。
こうしたことのすべてが、
五彩圏の移動の状態は、本シリーズの主題である建国の歴史が、
私(加治木義博)がこれまでお話ししてきたとおりだったと証明する。
過去の
「紀元前後に神武天皇が、奈良に攻めこんで、
それ以来奈良にヤマト政権が存在した」という
「間違った皇国史観」が何一つ合理性がなく「真実ではない」と、
徹底的に雄弁に立証しているからである。
なぜなら、
ご存じのとおり五彩圏が奈良に届いたのは、
仁徳天皇より後、
倭王・武=允恭・雄略天皇のときだからである。
それは五王の名乗りも、天皇たちの名乗りも、その他の地名・国名なども、
すべてが異口同音に声をそろえて証言しているのだから、
その全部をくつがえすだけの証拠と証明がそろわないかぎり、
この結論をわずかでも変えることはできない。
これで五彩圏が、北上し、東進したことが確認できた。
その時代もまたはっきりわかった。
その主義が誰々であったかもわかった。
私たち日本人の出発点を、どこにとるかは自由だが、
これまでに3千年を超える歴史がわかった。
なにも紀元ごろなどと遠慮することはないのだ。
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