2012年3月15日木曜日

マレー語に関する章(29)倭と韓の王たちは、みな同時に死ぬ



 《倭と韓の王たちは、みな同時に死ぬ
 「倭と韓の王たちは、みな同時に死ぬ

 しかし、こうしたことは、狭い地域では起こらない。

 たとえ方言差があったとしても、ある程度は共通点があるからである。

 1対6の王名があるということは、

 最大限、6種類の全く異なった記録があった可能性を示している。

 私たちはこの本でずでに、そのうちの4種類をみた。

 マレー語とインド語と日本語と朝鮮語である。

 あと2種類を考えるなら、

 『魏志』や『宋書』といった記録にある中国語と、アイヌ語である。

 またもっとさかのぼるならカリエン語やギリシャ語などもある。

 これらには、さらに幾つもの方言がある。

 日本語の中にも沖縄語、鹿児島語、大阪語、和歌山語があることは、

 すでに実証ずみである。

 多言語が生み出した王たちの分化、複数化。

 それをここでもたくさんな例を証拠に、はっきりとみることができた。

 では、歴代の王が同一人だということは、これらの国々は実は一つで、

 高句麗、百済、新羅という区別はなかったのであろうか?

 それとも、ある時代までは一つで、その後分裂したのであろうか? 

 新羅の赫居世や脱解、金閼智伝承が、いずれも天孫降臨と同じものであるのは見た。

 百済が仁徳朝と重なるのも見た。

 高句麗は百済と同祖であることも見た。

 日鮮にまたがる四カ国が、いずれも南日本に出自をもつことも証明ずみである

 (加治木義博著『ヒミコ』『ジンム』で許しくお話ししたし、

 『異説・日本古代国家』には、南日本での高句麗の発生と出雲神話との関係が、

 「スサノオ系譜」の解明によって詳述してある)こうみてくると、

 この四つの国の建国が別々だったとは考えられない。

 だが、三韓の終末期をみると、四カ国が同じ国だったとも考えられない。

 それぞれ独自の、それも互いにからみ合った、創作ではとうてい生まれそうにもない対立した葛藤が、互いに対応して記録されているからである。

 そればかりではない。

 第三者としての中国の正史が、

 何よりも強力な同時記録として厳存していて、

 疑いようのない記録を残している。

 四つの国が、それぞれ独立した国家になっていたこともまた事実である。

 だとすると問題は、いつ分かれたか? だ。

 答えは、今みた治世年数の対比の中にあるはずである。

 どの時代までが一緒で、どの時代になったら、無関係になってしまうか。

 それさえ見きわめればいいはずである。

 だが、先にあげた例は、百済聖明王が26代。

 滅亡が31代だから5代前にすぎず。

 あと1世紀しか残っていない。

 高句麗平原王はさらに遅く、3王78年を残すだけだ。

 これはあまりにも短かすぎる。

 それともそれが真実なのであろうか? 

 「北鮮古墳群と高句麗・将軍塚」
 
 平安南道・竜岡郡梅山里の古墳群

 高句麗・将軍塚 中国吉林省集安(広開土王碑がある昔の通溝)にある。

   階段状になっていて、エジプト・サッカラにある第3王朝ジュセル王
 
   階段状ピラミッドによく似ている。

 同じく集安の鴨緑江近くにある環文塚古墳

   アトレウス古墳のミニュチアのような形がよくみてとれる。

   言語復原史学会
  言語復原史学会

 『参照ブログ』
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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