ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年3月4日日曜日
マレー語に関する章(14)大量の日本語誕生時代
《大量の日本語誕生時代》
「大量の日本語誕生時代」
<一大>は<壱岐>に対して国名として用いられた。
在来説はこの<大>を<支>という字の間違いだと、
いとも簡単に片づけてしまっているが、
それは無知も甚だしいのである。
中国音を借るまでもなく<キ>は沖縄音で<チ>である。
その<チ>は<津>を意味し、<都>を意味する。
<大>の字は<チ>に対する<ティ>か、<都>に対する<タ>に当てられたもので
決して誤りではないのである。
なぜなら<伊都国>は厳格な稜威(いつ)の国であり、
違反者と違反物を検察する関所でもあった。
だからこそ先に通過した
厳木(きゅうらぎ)が「厳城(いつき)」であり、また一大国がある。
固定した無意味な国名ではなく<イツ>の国という機関の職名であったから時と共に位置を変え、
方言差によって、魏人の耳には別の国名と聞こえたのである。
この<伊都>、<一大>の語源もまたマレー語であり、
それの語源であるインド諸語である。
私たちが「行っておいで」という所を、
鹿児島では「行たい来やい」という。
この<イタイ>は
マレー語の「行く。出発する。来る。着く」という語に一致する。
行くと来るでは全く逆でおかしく思われるであろうが、
これは出発点を強く意識して、
行くということは結局無事に帰るということという、
祈りと願望を伴なわないと口(くち)に出せない。
という所からきている。
これは日本語が多くの方言でも
結局「行って」「おいで」型になっているのと、全く同じものなのである。
その<イタイ>はサンスクリットでは<イター>となり
「ここから」とやはり出発点を意味する。
マレー語化しても日本語化しても常に出発点が強く意識されるのである。
これはパーり語では<イト>になる。
そして同じ語で<ソチ>は<平安>、<安泰>、<幸福>を意味する。
日本語の<サチ>と非常に近いことはすぐおわかりになったと思うが、
さらにこの語は<シバ>という語と
全く同意なのである<イト>・<ソチ>というパーリ語で呼ばれ、
これに対する当て字によって、
後世人は意味のない漢字に意味を錯覚して、
<葦津>、<足津>、<牛津>の同意化が起った。
ということになる。
一方魏人は、
その発音の類似と、卑弥呼の宗教のイメージから、
これを<一大率>と当て字して疑がうことをしなかった。
ということになる。
邪馬臺国時代は、
まだまだ他にも多くの日本語を生み出した時代であったことがわかっている。
それは多民族の混成が生み出した当然の帰結であったが、
このことが日本人の思考と思想に与えた影響は大きなものがる。
『言霊(ことだま)のさきはふ国』という表現や、
カナ文字の考案もこれを意味しているのである。
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