2012年1月30日月曜日

歴史研究者の態度



 ◎言語復原史学の役割

 発掘考古学は史学の全てではなく、発掘という一分野を担当しているに過ぎず、

 史実を復元する任務はもっていないからである。

 「言語復原史学が今、世界の史学を輝かせはじめた」のは

 発掘考古学の手の届かない部分を担当するのは文献史学の役目で、

 それに欠けていた古い手法を改善したのが、頭書の原則を発見し、

 正しい発音を復元して『言語文化財』の徹底した発掘に努めた

 「言語復原史学」で、その成果がいま花咲きはじめた、

 徹底検討を繰り返して得た「動かぬ定点」が、

 次第に日本建国の史実像を拡大しつつある。

 その意味ではこれまで半ば眠っていた本誌『文化財…情報』の、

 過去の全ての情報が、今こそ眼を覚まして、真実を物語りはじめたのである。

 それはまた同時に副産物として、

 これまで定説化している西欧学界主導の世界史の誤りも、

 明快な立証力でどんどん改訂し続けている。

 皆様がお気づきにならないうちに、

 世界の人々が求めていた真相が続々と展開し続け、

 世界の真実の古代史が日々再生し続けている。

 世界で最も遅れていた日本の史学。

 3世紀の歴史さえ混沌としたまま、

 国家を象徴する正史ですら15代もの天皇を義務教育から削り去ったまま、

 という開発途上国にも見な最低水準にあった日本の史学。

 それが今や世界の学会をリードしている!

 これこそ、日本の旧史学に飽き足りない有識者たちが、

 求めてやまなかった最新の『文化財情報』なのだ!!

 ◎証拠で固める史実復原法:「推理力と古代史」

 証拠で固めることは当り前であるともいえる。

 エジプト文字の解読には、ロゼッタ石という辞書が、ちゃんとあったのに、

 『記・紀』にはそれがないからである。

 皆様は「しかし『記・紀』は、そんなものがなくても読めているではないか?」と、

 おかしなことを言うとお思いであろう。

 この点が、重要な点なのである。

 なまじ読める文字で書いてあるために、謎が一層深まっている。

 なぜなら、その文字が漢字であるために、

 アルファベット式の音標文字の文書では起りようのないこと、

 「音(おん)の読みちがい」、

 「意味のとりちがい」が発生するのである。

 そのために実に多くの学者たちが、苦心惨憺して

 「こう読むのだ」、「私はこう思う」、「いやこうだ」と、

 自分なりの主張を譲らない。

 本当の読み方がたった一つしかない筈の歴史書が、

 沢山の「想像説」を誘発してしまったのである。

 しかも、そのどれが正しいのか誰一人証拠をみつけられないでいる。

 古代史には、もちろん文献史料以外の分野がいろいろある。

 遺物を発掘する考古学がはなばなしい成果をあげてはいるが、

 それが解明してくれるものは漠然とした事実がほとんどで、

 結局は文献との比較が必要になる。

 高松塚がいい例である。

 そのため、文献のない部分の考古学では、

 まず発掘品の素性について、想像が始まる。

 およその見当をつけて、

 これまでの成果と比較して次第に真相に肉薄して行くのである。

 この場合は、たしかに想像力がなければ仕事にならない。

 ところが、文献の方では、同じ古代史を扱いながら、

 想像がかえって謎を生み出してしまう。

 物質史料を扱う場合と文献史料を扱う場合とでは、

 逆になるのであろうか?。

 その答えは、物の場合は、色、形、材料、用途、製作技術といった、

 動かない要素がある。

 それに対して文献の場合は、いろいろに読める発音、

 いろいろに読める意味がある。

 ゆれ動く要素しかないのである。

 うっかりしていると同じように見える古代の遺物だが、

 まるで正反対の要素でできている。

 この二つを同じ取扱いにしたのでは、

 結果は始めから駄目だとわかっているのである。

 文献を、どう扱えば本当の読み方ができるかという答えは、

 この違った二つを比べてみることから得られる。

 古代に一つの壷がある所を考えて戴きたい。

 それが洪水で押し流された土砂に埋って、割れて、いま発掘されたとする。

 バラバラの破片を集めてつなぎ合せると、多少不様であるが、

 もとの姿をはっきり思い浮べられるものに「復原」できる。

 こんどは同じ古代の壷を、幾人もの人がスケッチした所を考えてほしい。

 ある人は実際より細長くしか書けないし、ある人は歪んでしまった。

 要するに全部、そのままには描けなかったとする。

 その壷はどうなったかわからないが、

 そのスケッチが全部今見つかったとすると、

 その下手くそなスケッチは役に立たないであろうか?。

 たとえ下手であっても、幾人ものスケッチがあれば、

 それを比較して修正し合うと、もとの壷はなくても、

 ほぼそれに近いものが復原できる。

 文献は言葉によるスケッチだから、同じ対象を描いたものを、

 幾つも集めて修復することによって、歪んだ読みや意味を修正して、

 正しいものに「復原」できるはずである。

 もちろん、そのためには、同じものを描いたスケッチに相当する資料を、

 できるだけ沢山集めなければならない。

 それをどう処理すれば原型に復原できるかも工夫せねばならない。

 それは面倒で難しい仕事にはちがいないが、それが出来れば、

 壷そのものはなくても、真実に近いものを再構成できるのと同じく、

 別に考古学資料が発掘されなくても、

 「ほぼ、こうであった」という歴史が復原できる。

 その復原できた部分を一つの証拠として、

 さらに次の部分を復原してみると、

 正しく復原できた場合は、その二つの部分が互いに対応して、

 くい違いが生れない。

 同じ方法をくり返すことによって、その証明し合い、

 次第に有機的組織をもちはじめる。

 これまで「ではなかろうか?」、

 「私はこう思う」という想像ばかりであった史学が、

 証拠と証明をもった「史実」で復原された

 「こうだった」という動かないものになるのである。

 「動かない証拠がある」こと、

 それ以外に法律でも、科学でも、道はない。

 歴史もまた、一つ一つ証明をもち、数々の証拠で、

 がっちりと組立てられたもの以外、

 真実だと主張することは許されない。

 それが出来てこそ始めて「科学」だといえるのである。

 やりかたの、あらすじはお判り戴けた思う。
 
 ◎恥かしい古代史不明国

 これから解読にかかろうという暗号書が本物かどうか、

 誰かがいたずらに作ったものではないかまず確かめる必要があるのと同じく、

 私たちも『記・紀』がどの程度信頼でき、

 どの程度頼りないか、あらかじめ知っておく必要がある。

 全然信じられないものなら、

 苦労して解読しょうとするのは無駄で、ばかばかしい。

 しかし信頼できるとなれば、それは今なお不明のままで、

 文明国としては実に恥かしい状態にある謎の古代史が、

 私たちの先祖の真相を教えてくれる。

 大へんな喜びを与えてくれる、大きな違いがあるからである。

 もちろん、信じられるかどうかは、全部解読できなければ、

 わからないともいえるが、

 ほぼ、どうなのか、あたりをつけてみられないだろうか?。

 そのためには、『記・紀』の著者たちが、いい加減に書いた部分と、

 重点をおいて書いた部分を見わけることによって、答えが出そうに思える。

 『記・紀』は何を目的に書かれたのだろう?。

 それについていろいろな説があるが、私(加治木義博)のみる所では、

 天皇を中心にしていることは間違いない。

 『記・紀』の「系譜」の部分は、

 ほかの部分よりも慎重に記録されていそうである。

 また長い文章の部分は、どうしても憶えちがいや忘れた部分、

 書きちがい部分が生れやすいが、人名、ことに天皇家のものとなると、

 短かくて間違いにくいのと、緊張して書かれる、ということが重なって、

 一番、まちがいが少ない、と考えられるからである。

 ところが、

 『日本書紀』と『古事記』その他の文献に書かれたその系譜を比べてみると、

 かなりの違いがあることがわかる。

 これは何故だろうか?。

 『記・紀』の著者達のどちらかが、いい加減に書いたためか、

 間違った資料に基づいたためか、それとも時代が古いために、

 言い伝えが訛ってしまっていたのか?。

 その理由らしいものを著者自身が説明している部分がある。

 『古事記』序文である。

 『記・紀』の系譜比較図

 (古事記)

  天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

 (アマツヒタカヒコナギサタケウカヤフキアエズ)

  (日本書紀)

  彦波瀲武鸕鷄草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアユズ)

 (記)(その子)

  五瀬命。稲氷命。御毛沼命。若御毛沼命(またの名、神倭伊波礼毘古命)

 (紀)(その子)

  彦五瀬命。稲飯命。三毛入野命。稚三毛野命

 (またの名、神日本磐余彦火々出見尊)

 (記)
   神武天皇─────────┐┌多芸志美美命
                ├┤
   阿多之小椅君妹阿比良比売─┘└岐須美美命

 (紀)
   神武天皇─────────┐
                ├─手研耳命
   日向国吾平津媛──────┘

 (記)
           (応神天皇)
           品陀和気命───┐
                   ├若野毛二俣王┐  允恭天皇─────┐
          ┌息長真若中日売─┘      │           │
   咋俣長日子王─┤               ├─忍坂之大中津比売命┘
          └─────────百師木伊呂弁┘
                   (弟日売真若比売命)


 (紀)
           (応神天皇)          允恭天皇──┐ 
           誉田別尊─┐              │
                ├稚野毛二派皇子─忍坂大中姫命┘
   河派仲彦────弟媛───┘


 (上宮記)
           (応神天皇)
           凢牟都和希王─┐
                  ├若野毛二俣王┐
   淫俣那加津比古─弟比売麻和加 ┘      ├践坂大中比弥王
                  母々恩己麻和加中比売┘

 天武天皇が『諸家臣が、その家に代々伝わった帝紀(天皇の系譜)と

 本辞(歴史記事)をもっているが、その内容が間違ったものや、

 嘘を書き加えたものが多いと聞く、

 今のうちに、その間違いを正しておかなければ間もなく何が 

 本当だか、わからなくなる。

 それでは国が維持できなくなり、


 せっかく国民を教化しようとする天皇の仕事が根底から駄目になる』といって、

 正しい帝紀と旧辞を、稗田阿礼という記憶力抜群の家臣に暗記させた、

 と書いてあるのである。

 (この訳は私(加治木義博)のもので不安な方は、

  岩波文庫の古事記などに原文がのっているから御自分で読んでみて頂きたい。)

 「複写:古事記序文」

 於焉、惜舊辞之誤忤、正先紀之謬錯、詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語舊辞以、献上者、

 謹随詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、 

 旧辞、帝紀に間違いがあったことと、

 上古の言語をそのまま伝えられないことと、

 文字、文章、言語そのものが.当時すでに異なっていたことを明記した部分。

 この文章でわかることは少くとも8~9世紀に重臣たちの家に一種の歴史を書いたものか、

 言い伝えがあり、それが違った内容だったということである。

 といっても、この序文がいい加減な作文であれば、

 本当のところはわからないのであるが、

 かなり本当にありそうな話である。

 真偽の詮索よりもどういう原因で、系譜に狂いが生じたかを考える参考にはなる。

 ただ、この古事記が、その序文どおり、天武天皇の発案になるものなら、

 なぜ推古天皇までで止めて、それ以後の正確な記録を残さなかったのか?

 ということが疑問である。

 さらに、なぜ古代の方に詳しく、後代の方に欠史があるのか?

 という疑問も湧いてくる。

 なぜなら、崇神天皇から顕宗、仁賢両天皇までは、

 かなり詳しい歴史物語があるのに、

 それ以後の9代の天皇は、ただ系譜が書いてあるだけなのである。

 天皇自身が「歴史が間違っていては国家の一大事だ」といい、

 それによって古事記が生れた、と書いた本人が、

 不鮮明も不鮮明、何一つ書いてない部分を作りあげてしまったのである。

 小さな間違いがあっても、いけないというのに、

 どんなにでも勝手に想像できるように空白にしてしまうということが、

 常識で考えられるであろうか?。

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