ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2012年1月24日火曜日
スキタイ・スキュタイ(7)
スキタイ
スキタイ
《奈良は倭国領になる前からの聖地だった》
その人々を征服して国民に加えた倭人は、本シリーズですでにお話しした通り、
ギリシャ系文化と、
バビロン系文化と、
スキタイ系文化と、
インド系文化とをもった
人々の混成集団だつたが、この4者は本来みな古墳文化をもっていた。
倭の五王は四国から近畿へ侵入して、
近畿の先住イナ人を支配し、
その力を殺ぐために人工の山である巨大古墳を作らせた。
それが仏教思想のスメラ山とスツーパを象(かたど)った前方後円墳だったのである。
「古墳時代」という区別は時代と人種的な分類の役にはたたない。
古墳には先住民イナ人やヤオ人のものと倭人のものとが、
後世になると「同時に」入り混じっているからである。
様式にさまざまな種類があるのはそのためで、すべてを「単一民族」のものとして、
墳形や棺の形や材料などで時代区分をしてきたのもまたすべて誤りである。
「聖徳太子は四天王寺を難波の荒陵(あらはか)につくつた」という記事が
『日本書紀』[推古天皇紀]にある。
これは「荒れ墓」であって、「陵」とは墓のことだということを証言している。
太子は古い荒れ果てた墓地を寺の敷地にしたのである。
これは現代でもあちらこちらで行なわれている墓地の移転や宅地化である。
都市化が進むにつれて、聖徳太子時代(7世紀後半)でも、墓地はどんどん遠方へ移した。
こうしたこともまた奈良に古墳群が集中している理由の一つなのだ。
それと同時に太子は、父・用明天皇を河内の磯長陵に改葬している。
天皇の遺体は、骨だけにしてから葬るので悪臭の心配はないから
「安宿」の近くに葬ったのである。
こうした改葬の仕方を「殯=カリモガリ、またはモガリ」という。
それは本来は仮に埋葬して白骨化してから改めて本葬する方法であるが、
それは大王家に限っていたのではない。
好きな場所に本葬することを許されなかった大王家以外の人々にとって、
高地にある遠い聖地に死者を運ぶのには、輸送手段のなかった当時は、
少しでも軽くすることが合理的だった。
これでわかる通り、奈良は倭国領になるはるかに前から、
主として大阪平野先住民たちにとっても、
好都合な地理条件を備えた埋葬聖地だったのである。
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