2012年1月24日火曜日

スキタイ・スキュタイ(7)



 スキタイ
 スキタイ

 《奈良は倭国領になる前からの聖地だった

 その人々を征服して国民に加えた倭人は、本シリーズですでにお話しした通り、

 ギリシャ系文化と、

 バビロン系文化と、

 スキタイ系文化と、

 インド系文化とをもった

 人々の混成集団だつたが、この4者は本来みな古墳文化をもっていた。

 倭の五王は四国から近畿へ侵入して、

 近畿の先住イナ人を支配し、

 その力を殺ぐために人工の山である巨大古墳を作らせた。

 それが仏教思想のスメラ山スツーパを象(かたど)った前方後円墳だったのである。

 「古墳時代」という区別は時代と人種的な分類の役にはたたない。

 古墳には先住民イナ人やヤオ人のものと倭人のものとが、

 後世になると「同時に」入り混じっているからである。

 様式にさまざまな種類があるのはそのためで、すべてを「単一民族」のものとして、

 墳形や棺の形や材料などで時代区分をしてきたのもまたすべて誤りである。

 「聖徳太子は四天王寺を難波の荒陵(あらはか)につくつた」という記事が

 『日本書紀』[推古天皇紀]にある。

 これは「荒れ墓」であって、「陵」とは墓のことだということを証言している。

 太子は古い荒れ果てた墓地を寺の敷地にしたのである。

 これは現代でもあちらこちらで行なわれている墓地の移転や宅地化である。

 都市化が進むにつれて、聖徳太子時代(7世紀後半)でも、墓地はどんどん遠方へ移した。

 こうしたこともまた奈良に古墳群が集中している理由の一つなのだ。

 それと同時に太子は、父・用明天皇を河内の磯長陵に改葬している。

 天皇の遺体は、骨だけにしてから葬るので悪臭の心配はないから

 「安宿」の近くに葬ったのである。

 こうした改葬の仕方を「=カリモガリ、またはモガリ」という。

 それは本来は仮に埋葬して白骨化してから改めて本葬する方法であるが、

 それは大王家に限っていたのではない。

 好きな場所に本葬することを許されなかった大王家以外の人々にとって、

 高地にある遠い聖地に死者を運ぶのには、輸送手段のなかった当時は、

 少しでも軽くすることが合理的だった。

 これでわかる通り、奈良は倭国領になるはるかに前から、

 主として大阪平野先住民たちにとっても、

 好都合な地理条件を備えた埋葬聖地だったのである。

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