2012年1月3日火曜日

「光華明彩」(3)



出典:日本書紀 巻第一 神代上 第五段一

光華明彩

呉の皇帝も青い目をしていた

私たちは、

いま、邪馬臺国が、もと沖縄から出た人たちの政権であったことをはっきり知っている。

とすれば、過去の九州北部説や大和説などが思いもしなかったことが、

重要な大問題として浮かび上がってくるのである。

それは沖縄の与那国島と呉とは、海をへだててはいるが、

九州本土までの距離より、はるかに近いということである。

そして台湾が古代には「小琉球」と呼ばれて、沖縄の統治下にあったことも事実である。

そこからなら、呉の海岸へ百五、六十キロメートルしかない。

そしてその呉の大帝・孫権の一族は背が高く、色が白く、目と鼻が大きく、

ときどき碧眼の子供が生まれた。青い目をしていたのである。

それを「中国人には、たまにそんな人が生まれる」などといってすましていてはいけない。

それには理由があり、歴史という学問ではそれがなによりも大切なのだから……。

私たちは、いつからか分からないが「呉」の字を「ゴ」と発音している。

しかし中国では古来、南北とも「ウ」で、語頭の「g」は私たちの耳には聞こえない。

その中国の北には有名な「万里の長城」があるが、

それを中国人に作らせた北の強国の一つに「ウソン(烏孫)」というのがある。

呉王も「呉・孫」は「ウ・ソン」なのだ。

これだけならタダ同じ発音だというだけだが、もっと重大なことがある。

それは烏孫人が、やはり青い目、金髪の混じった地中海人だったことだ。

彼等はギリシャ人たちと同じ仲間だったのである。

それはその名をみても分かる。

「ウソン」と呼ばれた元の名は正確には分からないが、

それはギリシャの古代の勇士イヤソンなどと同じ語尾をもっている。

これを見ると孫権は元はその烏孫人であって、それを中国風に一字ずつ切って、

国名と姓にしたと考えることができる。

それが「呉孫」と「烏孫」とが一致する理由だといっていい。

この孫権一族の風貌は、直接の敵である魏人にとっては、

知らぬ者のない有名な話だったから、帯方郡使がヒミコに会ったとしたら、

ハッと驚くことは間違いない。

たとえ孫権と赤の他人で完全に無関係だとしても、いい印象を与えないことは間違いない。

そうして、もう一つ考えておいた方がいいことがある。

それは日本語の「イツ」は中国語の「ウー」だということである。

それはもちろん「数詞五」の話である。

倭人の国々がその数詞と深いかかわりがあることはご記憶にあると思う。

とすれば伊都国とはこの「呉」となんらかの関係のある名だということになる。

なぜそう言い切れるか。それは今お話したとおり、日本では呉を「ゴ」と発音する。

「それはなぜか?」というこの疑問は、

この「イツ」と「ウー」と「ゴ」の関係を認めると、簡単に解けるのである。

これは証拠とはいえないだろうか。

また呉は「ウ」だけでなく「ウー」とも発音される。

それは南中国系の「具さん」は皆そう呼ばれているし、

呉淞」と書いてウースンと読む地名が上海にある。

そして孫権の一族が「ウー」氏で、

その一族もまた日本の南島へやってきていたと仮定すると「ウー」は「大」。

その国は「大国」=大島。

奄美大島がそれで、そこの王が「大国主」だということにもなる。

そしてヒミコ「下照姫」はその娘だと『記・紀』に書いてある。

これもまた結論はあとに譲るしかないが、

卑弥呼が呉の孫権と同じく烏孫系のギリシャ人だった可能性は、

さらに高くなったわけである。

台湾がソナカ一族のコースに入ることも間違いない。

そして彼等は東南アジアの各地にスヴァルナブーミーの地名を残した。

インドネシアがその「金の国」に相応しい産金国だったことは、

歴史に詳しく記録されているし、

ミャンマーからタイヘかけて凄い金ピカの大仏像があることも、

今では私たちが自分の目で確かめられる。

そうだとすると、沖縄はなぜ「チヌ=角」の国だったかも分かる。

「チ=キ」「ヌ=ン」。

本当は「キン=金」の国だった。

沖縄も間違いなく「スヴァルナブーミー」だったのだ。

それなら金髪の彼女が「象徴」として最適任だったことは、だれにも分かる。

彼女は黄金の国の、黄金の女王、

「光華明彩」の天照大神に最もふさわしい少女だったのだ。

しかしアショカ仏教の後継者ヒミコは戦いに敗れて死んだ。

そしてシンドゥ系の「神道」を広める邪馬壹(イチ)国に政権を奪われた。

では彼女のアショカ仏教は完全に消滅して跡形も残らなくなってしまったのであろうか?

鹿児島では今も大隈などの各地に、「ヒメコさあ(様)」と呼ばれる宗教団体が残っている。

それは農村のささやかな集まりに過ぎないが、祭るのは「観音さま」である。

「ヒメコ=観音」のかたちで、1700年を超えた今も、

ヒミコは人々を教化し続けていたのである。

もちろん彼女は、天照大神という別の顔で、

天皇家の大神として伊勢に壮大な神殿をもち、永く日本人の崇拝を受けてきた。

また「ヒメコソ」という別の顔で先に挙げた難波や豊国以外にも

『肥前国風土記』「姫社郷」が祭られた縁起があって、

山途川と筑後川の合流点にその社があったといい、

唐津市の港の小島に比売許曽神社がある。

そして宮中の儀式規定であった

『延喜式』、巻二神祇二「四時祭」と、

巻三の神祇三「臨時祭」とに「下照姫社」「比売許曽神社」と書きわけて、

どちらにも別名を付記してある。

これは私が最初にお話した大阪の神社である。

四時祭では相嘗祭71社の一つにはいり、

臨時祭」では名神285社の中にはいっている。


光華明彩

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