2015年10月27日火曜日

渋谷向山(景行陵)古墳


 ≪渋谷向山(景行陵)古墳≫

  出典:保育社:カラーブックス:
     古墳―石と土の造形―森浩一:9頁

  景行天皇は記紀では垂仁天皇の子、

  崇神天皇の孫の関係であるが、

  これも景行陵とする資料に乏しい。

  江戸時代には王の塚とよばれていて、

  幕末の修築のころまでは崇神陵とされていた。

  行燈山古墳よりも、溝の形が原形に近いのは幸いである。

  この古墳は、前期古墳に限れば、

  大和はもとより日本最大の規模をもっている。

  行燈山古墳にもあったが、

  埴輪円筒をめぐらしている。

  なお幕末にこの古墳から出土したと推定される

  見事な石枕が知られている。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          邪馬臺国の言葉:149~151頁

  《壮大な倭人の測量文化》

  これらのことで、はっきり意識しておいて戴きたいのは、

  倭人は中国系文明でなく、

   インド系文明の持ち主だったという点である。

  また海を越えて50数km先の距離を湘定する方法すなわち

  三角法または天測法を知っていたということである。

  三角法はギリシャの

    天文学者ヒッパルコス(B.C190~B.C124年)が

  創始者とされているが、

  これは地球と月の距離や、月の直径、百個の恒星の詳細、

  地球の歳差運動などの測定といった

    驚くべき業績によるもので、

  彼がこれだけの応用をなしとげたどいうことは、

   彼に至るまでに、

  三角法の発達の歴史があったということである。

  だがそれは余談にわたる。ここでは3世紀の倭人が、

  それを実地に役立てていたという事実が、

  それ程不思議でもないということを知って戴く

   参考になればそれでいいのである。

  では倭人は、どんな器具を使って、

   そんなに精密な測量ができたか。

  現存する遺物ではそれは鏡しかない。

  鏡面の反射で、その位置を確認すると同時に、

  その背面にある目盛りを

   分度器として用いれば立派に測量ができる。

  三角法を御存知の読者には

   その使い方を今さら説明する必要はあるまい。

  倭人がこのシステムを

   使うほかに方法のない大土木工事を、

  実際に行っていたという証拠を簡単に御覧にいれておこう。

  それは卑弥呼の墓を出発点とする古墳の築造である。

  筆者(加治木義博)は40年前に、

  奈良県の古墳が

   直線上に並んでいるという事実を発見して以来、

  これにとり組んできたが、それは図ではっきりお判りのように、

  山脈を越えて正確に配列している。

  それは山間に隠れた広川寺の西行墓や、

  聖徳太子墓などを余すことなく貫いているだけでなく、

  遠く伊勢神宮に及んでいるのである。

  これは鏡による光通信なくしては

   行い得ない文化所産である。

  また、応神、仁徳などの大陵は、

   その重要な点と線が、すべて他の陵墓や、

  池中の島などと結合している。

  これも本書では

   とうていお話しすることは不可能であるからいずれ

  ダイジェストしてご覧に入れることにして、

  小さくて不鮮明だが、略図で御辛抱戴くほかない。


  (実際には数百の線が交叉しているが省略)加治木原図

  ① 仁徳天皇陵→応神天皇陵→S崇神天皇陵。

    この3陵を結ぶ線は東進して伊勢神宮に達している。

  ② 奈良(大仏殿)天理→崇神天皇陵→景行天皇陵→

          桜井→良助法親王墓を結ぶ線は

    南進して熊野大社(新宮)に達している。

  ③ 神武天皇陵 欽明天皇陵

          <1>神功皇后陵 <2>成務天皇陵 <3>磐之姫命陵

      <4>元正天皇陵 <5>島の山古墳 <6>衾田陵

       <7>景行天皇陵 <8>箸墓 <9>崇峻天皇陵

    <10>良助法親王墓 <11>石舞台古墳 <12>橿原神宮

       <13>宜化天皇陵 <14>斉明天皇陵

    <15>孝安天皇陵 <16>孝昭天皇陵 <17>大津皇子墓 

         <18>飯豊天皇陵 <19>孝霊天皇陵

    <20>聖徳太子墓 <21>推古天皇陵 <22>敏達天皇陵

       <23>雄略天皇陵 <24>帝塚山古墳 <25>履仲天皇陵


  枚岡神社 玉租神社 法隆寺 

  石上神官 大神神社 談山神社

  三輪山 鳥見山 香具山 国見山


  「図:応神陵の構成要素と各陵墓の関連性」(加治木原図)

  ① <1>安閑皇后陵 <2>正北 <3>安閑皇后陵 <4>古室山古墳 <5>安閑天皇陵 

    <6>仲津姫皇后陵 <7>敏達天皇陵を経て藤原武智磨墓

  ② <9>日本武尊陵 <10>允恭天皇陵 <11>聖徳太子墓 <12>城山古墳 <13>日本武尊陵

    <14>千塚 <15>推古天皇陵 <16>城山古墳 <17>応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵

  ③ <18>古室山古墳 <19>孝徳天皇陵 <20>城山古墳 <21>応神天皇陪塚

        <22>吉備内親王墓

    <23>松塚 <24>河内大塚 <25>黒姫塚 <26>孝霊天皇陵 <27>大津皇子墓
  
    <28>雄略天皇陵 <29>野中寺伽藍跡 <30>文珠院西古墳 <31>河内大塚

    <32>仁徳陵円頂部中心 <33>東首舌鳥古墳 <34>島の山古墳 <35>顕宗天皇陵

    <36>河内大塚 <37>大座間池中之島を経て野尻古墳跡

  ④ <38>孝霊天皇陵 <39>牧野古墳 <40>仲哀天皇陵 <41>大座間池を経て平岡古墳

  ⑤ <42>孝霊天皇陵 <43>来目皇子墓 <44>吉備内親王墓

  (実際はこの二倍以上の線が関連しているが、

     本章の証明にはこれで充分であり、

  繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

  「写真:直線上の古墳」(加治木原図)

  空から見ると古墳が直線上にならぶことが

   一と目でわかるものもある。

  相互の距離と大きさが写其のピントの合う

   範囲にあるものは少ないが。

  (これは山の辺陵墓群のうちの手前かち景行陵。

     崇神陵。手白香墓(衾田陵=継体皇后墓)。

   乙木社の森。)前々図の7、S、6参照。


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