2015年10月27日火曜日

行燈山(崇神陵)古墳


 ≪行燈山(崇神陵)古墳≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:8頁

  記紀では崇神をハツクニシラススメラミコト、

  つまり初めて国を統治した天皇と表現している。

  この大古墳は4世紀に大和に君臨した支配者の墓ではあるが、

  崇神という特定の個人に結びつけることはむつかしい。

  この古墳は行燈山(あんどんやま)といい、

  江戸時代には景行陵に考えられていたが、

  幕末の大修築後、急に崇神陵に変更され、今日に至った。

  墳丘をめぐる広大な濠は、幕末の修築時に、

  溜池の機能をたかめるために変形されたもので原形ではない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      KOFUN:271・272頁

  《崇神陵は仁徳陵以後の造営》

  このことは雄略陵がないこととも深くかかわり合っている。

  倭の五王以後の記録がないのは、

  その政権が彼で絶えて、

  新たな征服者が彼を悪王に仕立てたことを物語っているのである。

  といってもその政権全体が消滅したわけではない。

  ただ歴史の外へ移動しただけである。

  このことはまた一つの古墳の謎を解いてくれる。

  その古墳は崇神天皇陵である。

  この陵はこれまで最古の天皇陵であるとされてきた。

  しかしそれは『記・紀』の記事を無批判に受けいれて、

  神武が初代であり、

  それ以後天皇家は奈良県にいたものとして、

  第10代天皇だから仁徳、応神より古いと思いこんだ説で、

  崇神が鹿児島県の天皇で、

  卑弥呼の死とともに政権を失ったことを

   知らなかった時代の遺物である。

  いま天皇家で奈良に入った第一号が

  倭王・武であったことがわかってみると、

  大古墳の造営は、

  その造営地の征服以後でないとできるわけがないから、

  その順序は、珍のチヌ地域、

  興の河内地域、

  武の高市地域の3段階で進んだことになる。

  どうみても崇神陵の造営は武の仕事だったことになる。

  かりに武ではなかったとしても、

  彼以後であって彼以前では絶対にありえない。

  だとすれば崇神陵はさらに新しく、

  仁徳・応神より後だということは確定的なのである。

  そのことは古墳直列の原理からも証明される。

  崇神陵が最初だとされた理由の一つに、

  それは山の端を削っただけの

  「原始的・前方後円墳」だという点があげられてきた。

  しかしその陵が

  仁徳陵を起点に、

  伊勢までの110キロの33キロ地点にあることを考えると、

  その位置がたまたま山の端だったから、

  それを削って造る以外に方法がなかっただけで、

  その工法や型式は、何の意味もないことがわかる。

  《国土測量基点「崇神天皇陵」》

  崇神陵は、東西南北両線の交点の標識

  「国土の大ききを計る」という目的には重要な位置にある。

  倭の五王の名乗りと重ね合わせてみると、

  それは、和泉、河内の領土の延長線上にあり、

  奈良に入った後の国土測量用のものであることが、

  その位置開係でわかる。

  順序は仁徳、応神よりもあとなのだ。

  この東西線が、

  当時の領地区画上の重要線だったことは間違いないから、

  武の領地は、この線より南だったということになる。

  これがそこに高市、高田、鷹取、葛城、

   といった大きな地域名をのこす理由だ。



0 件のコメント:

コメントを投稿