2015年10月26日月曜日

箸墓をめぐる問題点


 ≪箸墓をめぐる問題点≫

  出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著 108頁

  《箸墓は卑弥呼の墓か?》

  箸墓を、

 『魏志』倭人伝に記載する女王卑弥呼(ひみこ)の墓に

  想定した人がいる。

  それは種々の古代学の労作をのこした笠井新也氏である。

  笠井氏は文献の上から、卑弥呼が倭迹々日百襲媛であると

  いう仮説を発表したのち、さらに「卑弥呼の冢墓と箸墓」なる

  論文を『考古学雑誌』三十二巻七号に掲載した。

  それは太平洋戦争がたけなわの昭和十七年のことであった。

  倭人伝では卑弥呼の墓に関しては、

   「卑弥呼以って死す。大いに冢(ちょう)を作る。

    径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」

  と書かれており、卑弥呼が君臨した邪馬台国が

  大和地方か、あるいは、北九州にあったかは別にしても、

  3世紀の中葉に卑弥呼の墓が日本のどこかの地域に

  造られたのは事実としなければならない。

  笠井氏は箸墓の後円部の直径が150メートルであるとして、

  それは魏の百四歩半に近いと考証した。

  この場合、後円部よりずっと大きい墳丘の長さをすてて、

  後円部の規模で古墳を代表させたのだが、

  笠井氏は江戸時代の学者河村秀根が箸墓を

  「円形之丘」と表現していることで

  説明しようと試みている。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録14:23頁

  《箸墓古墳は長谷=百済王の墓》

  『記・紀』の建国部分の謎は、

   これで疑問の余地なく多数、氷解した。

  これは文献史学の大収穫だが、

  同時に考古学と神話学の在来の誤りも是正してくれた。

  それは卑弥呼の墓とされてきた

  箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)の真相が、

  適確に明らかになったからである。

  e 音を嫌う沖縄語では百済(ホゼ)をフジと

  発音するのと同じく長谷はハシに変わる。

  だから箸墓のハシは付近にある長谷や初瀬と同じく、

  長谷=後の百済を意味する名乗り以外にはない。

  所在地が箸中で、南種子の「長谷」と「中」が揃っている。

  箸は当て字の一つにすぎない。

  古墳は貴族を葬(ほう)むってある。

  それをハシと呼び続けてきたのは、

  少し後世の同じ奈良県下の古墳を

  「百済王(フジノキ)」を意味する「藤ノ木」と

  呼んできた原則通りで、被葬者名なのである。

  ただでさえ死者を恐れた昔の人々が、

  一層恐るべき支配者らの墓を、

  現代人の様に傲慢にも渾名で呼ぶことなど絶対にない。

  これは学究として忘れてはならない鉄則である。

  だから仮に卑弥呼説が正しいのなら「ウワイ墓」。

  邪馬臺国王の墓なら「ジャマダグ墓」と呼ばれているはずで、

  ハシ墓は間違いなく卑弥呼とは仇敵の

   百済側の王族の墓である。

  この百済王族の名のついた2古墳の実在と

   その時間帯からみて、

  国家としての百済の前身は既に奈良にあり、

  5世紀以降の朝鮮半島の百済が、

   その植民地だったことは動かない。
  
  箸墓古墳  
  箸墓古墳
  
  三輪山:三諸山
  三輪山:三諸山

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著108頁~110頁

  《箸墓をめぐる問題点》

  笠井氏の論文以来、すでに約30年が過ぎたが、

  箸墓が御陵墓であることも関係して、

  その研究はまったく進んでいない。

  今日の学界でも、

  卑弥呼の墓についての倭人伝の記載を絶対視して、

  これをわが国における高塚築造の開始とみなし、

  この時点からを古墳時代にしてもよいという

  大胆な意見もあるようだが、私(森浩一)は反対である。

  というのは中国の王陵の記事と卑弥呼の墓の記事と

  比較してみると明らかに相違がある。

  『後漢書』の註にひかれている古今註によると、

  光武原陵 山方二百二十三歩、高六丈六尺

  (以下略)

  安帝恭陵 山周二百六十歩、高十五丈

  (以下略)

  などとある。

  光武原陵は方とあるので方墳、

  安帝恭陵は周とあるので円墳と考えられるが、

  いずれもそのあとに高さを明記しているのである。

  ところが、すでに引用した古代の中国人による

  卑弥呼の墓の記録では、

    径百余歩と平面の空間は示すものの、

  そのあとに高さを示す記載がない。

  これはどうしたことか。

  すでに最初の章において古墳を三類型に判って、

  そのA型を無盛土の古墳とした。

  倭人伝を忠実に読み、

  しかもできるだけその時代に近い同種の記載例を
  
  中国の資料に求めて比較すると、

  卑弥呼の墓をB型、つまり

  高塚古墳と推定する根拠はないのである。

  現在の段階では、

  卑弥呼の墓は、顕著な墳丘のないA型古墳、

  しかしその墓域は広大であったと、私(森浩一)は考えている。

  もしその墓域の周囲、または

  墓域内の聖域だけを溝で区別してあれば、

  方形か円形の周溝墓になろう。

  昭和40年2月、福岡県糸島郡前原町の平原で

  重要な古墳が原田大六氏らによって発掘された。

  倭人伝にでている伊都国のあった地で、

  平原に近い三雲や井原からは

    弥生中期の支配者たちの墳墓が

  すでに江戸時代に発見されている。

  三雲や井原の墳墓は、遺骸を甕棺にいれてあり、

  三雲では前漢時代の銅鏡三十数面、

  井原には王莽や後漢前半の銅鏡二十数面が副葬されていた。 

  要するに、三雲、井原、平原の地は

    伊都国の政治的中心であり、

  代々の国王の墓のいくつかが偶然に発掘されたのであろう。

  さて、平原の古墳は、長大な木棺を埋葬施設にし、

  銅鏡だけでも四十二面を副葬した方形周溝墓である。

  原田氏は、平原古墳の東に接した別の古墳も調査した。

  その際、周溝を丁寧に調べると、水を流す溝ではなく、

  殉(徇)葬用の墓穴を連続させた可能性がつよく、

  溝内に十六人の殉葬があったことが推定できるとした。

  これは重要な指摘であって、

  それまでも各地の方形周溝墓の溝内では、
  
  ある間隔をおいて

 土器だけが点々と置かれていたことはあったが、

  平原での観察を適用すると、人骨は腐朽し去り、

  遺骸のそばにおかれた土器だけが残ったことになるのである。

  このような溝内での殉葬の例は

 中国の山西省侯馬鎮の古墳でも知られている。

  卑弥呼の墓を倭人伝の記事に即して解釈すれば、

  殉葬の点でも、

  A型の古墳であったとするほうが妥当であり、

  典型的な古式の高塚古墳である箸墓をそれに想定することは

  今日知られている資料だけでは賛成できない。

  最近、箸墓の後円部頂上に埋まっていた円筒埴輪の破片が

  新聞紙上で紹介されたことがる。

  私(森浩一)も実物を見る機会があったが、

  奈良県の古式古墳に使われている埴輪のなかでは

  古拙の手法をとどめている。

  箸墓の被葬者と築造の時代についての究明は

  まだまだ時間がかかりそうである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録14:31・32頁

  《箸墓を248年とする編年は間違い》

  しかし箸墓は日本の考古学では、

  ひときわ重要な地位に置かれてきた

  一大エポック・メーカーであった。

  それは、文献上、最初に記録された古墳であると考えられる

  『魏書倭人章』の「大冢(ちょう)」造営記事=卑弥呼の死後

  「大 作冢 経百余歩=大掛かりに、

  長径約150mの冢を作った」

  という記事を、

  日本「最古の古墳」築造記録と規定して、

  箸墓がその卑弥呼の大冢で、

  それが造成された248年から

  『古墳時代』が始まったのだと教え続けて来た。

  箸墓こそ日本建国史上、

  文化財のトップに位置する遺跡であり、

  初期ヤマト政権の成立時期を確定立証する最大の時標、

  最良の定点だとしてきたのである。

  だから箸墓と同年代土器は、

  248年の3世紀半ばを示す座標として、

  「古墳時代土器」編年の起点でもあった。

  ところが1995年12月7日、奈良県の桜井市教育委員会が、

  同市箸中の「ホケノ山古墳」が箸墓よりも古い

  日本最古の前方後円墳だと発表した。

  根拠は、同墳後円部の北側に付属する

  空濠(からぼり)の底から

  大量に出土した土器のほぼ全てが、

  薯墓造営当時の「布留O式」土器で、

  それもホケノ山古墳築造当時ではなく、

  築造後かなりの年月を経た後に、

  一纏(ひとまと)めにして捨てられたものであることが、

  明瞭にわかったからだった。

  こうして考古学上からも箸墓古墳は

  我が国古墳時代の最初の古墳ではなかったことが、

  大量の物証によって立証されたのである。

  ホケノ山古墳は箸墓から東に約200mしか離れていない。

  箸墓古墳は大きいから造営には大勢の人が

  動員されて付近の至るところに飯場が造られた。

  当然、大量の食器や調理器などの土器が必要だった。

  土器は破損し易く、破片は硬いから、

  日常裸足で歩いていた当時の人々には危険物だった。

  そのため空濠に捨てたのである。

  箸墓造営中に割れたものも捨てたが、

  造営が終って人々が引き上げる時には、

  大量の土器が不用になって捨てた。

  こうしたことは箸墓古墳造営以前にホケノ山古墳がなければ、

  箸墓を造った当時に不用になった土器を、

  ホケノ山古墳の空濠に大量に捨てることなどできない。

  仮に箸墓が先でホケノ山のほうが後に造られたのなら、

  箸墓造営時の不用土器を、

  存在しない古墳の濠に捨てることなどできないし、

  また古墳はなくても外濠だけあって、

  そこに捨てたのなら、

  ホケノ山古墳を造る時には濠に土が入って

  埋まってしまうはずだし、

  土を掘って古墳を盛り上げた跡が空濠になったのなら、

  そこに過去の土器片が堆積しているはずがない。

  ホケノ山古墳が箸墓より古いことは、

  どこからみても疑いようがない。

  卑弥呼の大冢から古墳時代が始まったという主張は、

  この箸墓を卑弥呼の墓だとする限り崩れてしまった。

  だから箸墓を248年とする編年も間違っている。

  箸墓の本当の築造年代は今後の研究課題なのだ。

  『崇神紀』の箸墓物語は、

  大和朝廷を古く見せ、

  権威づけるための時代付け用に、

  アカイヤ伝承を改作して百襲姫の墓に仕立てた、

  天武天皇流の8世紀の作品にすぎない。
 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録15:3頁

  《なぜ『箸墓伝説』をわざわざ掲載したか?》

  過去に「卑弥呼の墓」説が有力視され、

  3世紀以前から奈良に大和朝廷が

  実在した有力な証拠とされてきた箸墓古墳を、

  それほど重要な地位に据えてきたものは、

  『崇神天皇紀』の

  倭迹迹日百襲姫伝説=『箸墓伝説』があるからだが、

  その根拠はただ一つ、

  「ハシ墓」という古墳名が、

  「箸」と同じ発音だというだけのことでしかなかった。

  しかもそれを『三輪山伝説』群や、

  「卑弥呼の位宮との争いと死」の史実と、

  精密に比較検討してみると、

  それは百済(ハッセィ)=長谷(ハセ=ハシ)という

  位宮の名乗りの一つを「箸」のことだと誤解した

  後世人が作り上げた「単なるお話」であって、

  「百済(ハシ)と争って自殺した」という史実を、

  「箸で自殺した」という想像説に変え、

  それを更に、同じ発音をもつ百済(ハシ)人の墓に結つけて、

  倭迹迹日百襲姫の墓だと思い込み、

  あるいは思い込ませようと意図的に「箸墓」にしてしまって、

  いかにも史実のように『崇神紀』に掲載した、

  というのが真相だった。

  するとここで旧『唐書』の記事が重要な証言として

  不動の重みをもつ。

  旧『唐書』は「東夷」中の「倭国・日本」章で、

  「倭国」と「日本国」はそれぞれ独立した2カ国で、

  「日本国は倭国の別種なり」とはっきり書き分けている。

  いま注目する必要があるのは、

  そのうちの日本国の記事にみる、

  唐政府の疑惑をあらわにした特記である。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学講義録15:9頁

  《三輪山の証言「箸墓は卑弥呼の墓ではない」》

  桜井市には、旧別格官幣社の談山神社より格がずっと上の、

  旧官幣大社・大神(オオミワ)神社がある。

  祭神は「倭大物主櫛長魂命」。

  倭は古代の倭国(ウワイ)。

  大物主(ダイブツヌシ)は卑弥呼を指すことは

  大学講義録14でお話しした。

  その次の櫛長の長は、

  今では全く使われていない瓦偏に長と書く字だ。

  いま種子島の宇宙開発センターに近い「茎永(クキナガ)」が、

  このクシナガの後身で古代「中」の中心地である。

  この「クシナガ」が地名だということを、

  うっかり見逃してはいけない。

  地名=古代国名だからである。

  「ナ」は国称のラマヤナの一つだから、

  それを「ラ」に置き換えるとクシラ、

  これは「クジラ」の清音であることはいうまでもない。

  この「クシラ」に串良と当て字した地名が鹿児島県にある。

  肝属(きもつき)郡串良町である。

  このことでわかるのは、

  このクシラのほうが、クシナよりクジラにより近いということと、

  種子島では国称をナと発音していたが、

  大隅ではラに変わったという事実とである。

  そしてさらに重要なことは、串良はクジラとは発音しないが、

  桜井の三輪山から奈良平野を挟んで

  西南西に対立している葛城山には、

  「櫛羅」という滝のある地名が現存していて、

  こちらのほうは「クシラ」ではなく、

  「クジラ」と発音するのだという事実である。

  種子島語のクジラは、近くの大隅半島よりも、

  はるかに離れた奈良県御所(ごせ)市で

  正確に発音されていたのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学講義録15:12頁

  《大神(ミワ)・三輪の語源と意味》

  大神をオオミワと読み、

  その神体山をミワ=三輪山と呼ぶのはなぜだろうか?…。

  大神のオオは「倭」の別音の「ゥオー」であることは、

  すでによくご存知のとおりである。

  大神はまた大隅読みでは「ウカン」であって、

  当て字は「字迦之(ウカノ)」御魂(みたま)などと書かれるが、

  これは隼人の姫木山を神体として祭る

  中腹の巨石の下に立つ石柱に彫られている神名である。

  伝承と言語と遺跡が全て一致して

  大神は宇迦之御魂であり卑弥呼だと立証している。

  また和は「ワ・カ」の2音があるから

  「大和之」もウカンで大神・宇迦之と同じだ。

  『古事記』が使う国号の大倭も

  7~8世紀の隋唐音では「ウワ」に対する当て字で、

  これは『隋書』時代の倭国の都・宇和島の宇和や、

  聖徳太子の上の宮の[上=ウワ]と同じ発音、同じ意味である。

  これでみるとミワの「ワ」は、倭や和でなければならないから、

  それに冠(かぶ)せた「ミ」は、「御」であって、「ミワ」とは

  御倭または御和を意味する名詞だったのである。

  それはウワと発音する大和・大倭の「大=ウ」を、

  「御=ウ」に変えただけのものだが、

  御倭は「倭」を「ワ」と発音しているから、

  唐代以後の呼び名である。

  ところが『日本書紀』はそれを同じ時期に、

  「三輪・美和」という独立した固有名詞風に変えている。

  これは時の流れによる変形ではなく、

  前記の政策のために改字改作したものと、

  すぐ分析できる。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録15:15頁

  《百襲姫の名乗りは鹿児島県の地名》

  これまで検討してきたのは、

  箸墓古墳とその周辺が、3世紀の卑弥呼とは無関係で、

  そこにみられるのは

   後世の百済倭国の遺物ばかりであるという事実だった。

  それを『日本書紀』が、

  卑弥呼の正式な名乗りである

  倭迹迹日百襲姫の墓であると書いているのは、

  『日本書紀』は天武天皇らが唐政府向け宣伝用に作ったもので、

  自分たちの政権は内戦によって生まれたばかりの

   不安定な革命政権ではなく、

  古代から綿々と継続してきた中央政権だ、

  と錯覚させる目的で作られているためで、

  3世紀の史実も利用しては居るが、

  それらは小国日本時代の、

  沖縄から鹿児島県での歴史であって、

  奈良県での歴史ではなかったことも明白になった。

  だがさらに念のため次は、

  百襲姫の名乗りを構成している

  古代国名が本当に奈良県のものではないのか、

  なければどこのものか?検討してみよう。

  「倭」の字の3世紀の発音はウワイで

  鹿児島県国分市の上井だけに残る。

  『隋書』にある倭国は愛媛県の宇和島が首都だから、

  もう「ウワ之国(シマ)」と語尾の「イ」が省略されている。

  奈良県ではさらに変化して「ヤマト」と読んでいるから、

  これは「ワ」と発音した唐代よりもさらに後世の発音変化であって、

  3世紀のウワイという発音の片影すらない。

  ところが名詞は発音が主体で文字は従で、

  文字が変わっても発音は変わらないのが原則である。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学講義録15:19頁

  《卑弥呼の墓=「迹」の国に実在》
  
  <卑弥呼の語源>が出たので、ここで<卑弥呼>とその敵、

  <狗奴国男王>・<卑弥弓呼素>の名乗りの謎も解いておこう。

  <卑弥呼の本来の語源>が<ペマカ>だったことが、

  この60%共通文字をもつ二つの名乗りの比較で、

  簡単かつ完全に証明できるからである。

  <卑弥弓呼素>の「弓」の漢魏音は「kiung<キウン>」

  または「kuang<カン>」だから、

  前者だと<卑弥弓呼素>というのは「姫木王の父」。

  後者だと「ペマカの父」になる。

  この人物は、もうよくご存知の<位宮>だから、

  この<姫木王>も<ペマカ>も<壹與>を指しているが、

  この<ペマカ>=愛の名をもった山陵が、

  いま見たばかりの「迹」の国・川内市にある。

  その名は「可愛山陵」で発音は

  「埃の山陵=エの山陵」。

  「エ」というのは「アイ」の鹿児島発音なので、

  これは「愛の山陵」ということで、

  「可愛」は<ペマカ>の直訳を正確に漢字に写したものである。

  この<愛の名>は地名とは無関係だから被葬者を指している。

  とすればそこに葬られているのは<ペマカ>で、

  『魏書』の当て字は<卑弥呼>、

  間違いなくこれが「卑弥呼の墓」なのである。

  しかし<卑弥弓呼素の名>が教えるとおり、

  <壹與>もまた<卑弥呼>と呼ばれていたことは

 間違いない事実である。

  だがいま一度念のため、<卑弥呼>は

  一人だけだったと仮定すると、

  狗奴国男王は大変な老婆だった卑弥呼の、

  そのまた老父ということになる。

  よく計算しておこう。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学講義録15:20頁

  《壹與も卑弥呼。神功皇后陵名の謎解き》

  老卑弥呼は後漢の桓帝と霊帝のころ(160年代)

 共立されたのだから、

  240年代には80歳前後で到底父親が

 生きていたとは考えられないし、

  また生きていたとしても戦闘を指揮して卑弥呼政権を倒し、

  邪馬壹国新政権を樹立して

   君臨する体力があったとは考えられないから、

  卑弥弓呼素は、やはり壹與の義父である

 位宮以外にはありえない。

  壹與も卑弥呼と呼ばれたことは、これで決定的になる。

  とすれば可愛山陵は壹與の墓でもありうることになるが、

  『日本書紀』には、

  彼女は神功皇后として狭城楯列陵に

 葬られたと記録されている。

  いま奈良市にある神功陵は

  対唐謀略用の『日本書紀』援護のために、

  後世に設けられた偽陵だから、名が一致するというだけで、

  単純に誤信することは許されない。

  狭城楯列という名に真相が隠れているか検討してみよう。

  今は主題が違うので、これも結論だけにしておくが、

  狭は彼女の母国・種子島を指すタンネ。

  または狭津国(サツマ)の略で薩摩。

  城はシロで斯盧=白日別=福岡→新羅の本国。

  楯はタテだと沖縄語ではタチで高城=都支=迹。

  ジュンだと「女王の」の沖縄発音への当て字。

  列は無意味だが、

  『古事記』の真福寺本(賢瑜本)には「別」と書いてあるから、

  それなら別陵で、もう一つの陵。

  これは日本武尊の白鳥陵も

  各地に別陵があるので、少しも不思議ではない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録15:21頁

  《可愛山陵は壹與の墓》
  
  これで狭城楯列陵は狭城楯別陵が正しく、

  それは紛れもなく薩摩の女王・壹與の別陵で、

  その名は彼女の名乗りに対する当て字だったことがわかった。

  彼女は新羅の始祖王・赫居世として

  13歳で即位したことまで記録されているのだから、

  この名乗りほど適切なものはない。

  偶然こんなに解読できることなど絶対にないから、

  彼女の名乗りと断定する以外ない。

  すると懸案の可愛山陵はだれの墓なのか?。

  そこはまさに薩摩最大の都市・川内市である。

  薩摩女王=壹国(サツマ)女王は壹與以外にはいないから、

  このペマカ陵こそ、壹與の本陵で、

  本来はこちらが

  狭・城・楯・陵=(種子島 or 薩摩)・新羅・女王・陵だったが、

  そのままでは対唐外交上、都合が悪かったので、

  別に奈良に狭城楯別陵を造ったのだとわかる。

  これで可愛山陵と、奈良の狭城楯別陵の年代とがわかる。

  可愛山陵はどんなに計算しても間違いなく4世紀のものだが、

  狭城楯別陵が彼女の陵になったのは、8世紀以後なのだ。

  なぜなら『日本書紀』の「神功皇后紀」は、

  神武東征以来ずっと大和朝廷があって

   皇后も奈良で生活したように書いてあるが、

  実際は彼女は九州を出ていない。

  彼女の槃余(イワレ)稚桜(チオ)の宮とは、

  今も石躰神社として残る隼人町の

  「石割(イワ)れ高千穂の宮」だったことは、

  もうよくご存知の通りで、

   日向以東は仇敵倭国の勢力圏だったからだ。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録15:22頁

  《卑弥呼以後も移動発展を続けた倭国》

  こうして調べれば調べるほど、

 卑弥呼の鬼道とは仏教であって、

  それも我が国での名詞が中国で僧の称号や

  普陀落の山号として使われるほどの

  仏教先進国だったことがわかる。

  また倭国は卑弥呼の死後も滅亡せずに移動し続けて、

  少なくとも7世紀後半までは

  唐政府が「大国=倭国」と認める名実ともに備わった立派な

  オオクニだったのであり、

  その支配圏も近畿の中央部大阪府域まで

 拡大しつつあったことが、

  よくおわかり戴けたと思う。

  だが鹿児島に本国を置き、

  九州から朝鮮半島に支配地や植民地を拡大していた

 小国・日本は、

  7世紀の後半になって唐の後押(あとお)しを利用して

  半島諸国を征服し、

   大国・倭国を攻撃してその支配権も手に収めた。

  天智天皇の男王政権である。

  しかし倭国と組んだ天武天皇は、

  その天智天皇系の大津政府を倒して政権を奪ったが、

  唐の侵略に備えてあらゆる手をうった。

  これで『箸墓伝説』は何であったか、

  それがなぜ奈良県下の歴史遺産として、

  わざわざ特記されているのか、

  それを載せた『日本書紀』とは何を目的に作られた、

  どんな書物であったかが、よくおわかり戴けたと思う。

  以上の結論が正しいことは、

  『日本書紀』編纂直後に提出された傘下各国の

  『風土記』をみて戴けば、

  箸墓伝説と同種のコジツケ説話が充満しているので、

  さらによくご納得がいくと思う。

  比較して独自にご検討戴ければ幸いである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録15:26頁

  《長い移動を立証する分裂伝説群》

  また仮に桜井市の大神神社が卑弥呼時代のものだとすると、

  そこに伝わる記録は、多少の誤伝はあるにしても、

  私たちが知る複数の『三輪山伝説』群ほどに

 大分裂することはない。

  その中でも箸墓伝説はことさらに変形がひどい。

  3世紀から7世紀までは400年、

  ノストラダムスから現在までよりも、まだ短い。

  世襲の語り部がいた古代は、

 むしろ発音の聴き違いは少ないから、

  大きな変化がみられる場合は、

  伝承の途中で「言語の違う人々が大きく誤解した」証拠である。

  「言語は土着する」という不動の鉄則があるから、

  仮に倭国政権が奈良に土着したまま

 400年を経過したのなら、

  伝承がそんなに変形するはどに

  「大きな言語の違い」が混入する可能性はまず絶対にない。

  だからこの『三輪山伝説』分裂の事実が教えるものは、

  その原話の事件があった地点から桜井に落ち着くまでに、

  数々の言語差のある地域を、

  長年月をかけて通過してきたからこそ、

   様々な誤解が入り混じって、

  幾つもの異伝が生まれたのだという動かない真相である。

  こうわかると、その異伝の内容を分析してみれば、

  どこの言葉と、どこの言葉とが出会ったために、

  どんな変形が生まれたかを判定できる。

  しかし今は余り脱線しすぎるから後日に譲るが、

  それもまた倭国大移動が真実だったことを

   完全に証明することは間違いない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学講義録15:27頁

  《邪馬台国大和説は反天皇家工作》

  卑弥呼が奈良にいたという

 邪馬台国大和説が正しいとすれば、

  卑弥呼は3世紀に作られた奈良県下の大冢に

  葬られたということになるのだから、

  その地元の奈良にいた代々の天皇は、

  それがどの古墳かよく知っていて、

  それを最高の皇祖である天照大神の墓として尊察し、

  毎年最高の祭祀儀式を欠かさなかったはずである。

  だが、そんな記録も事実も一切ない。

  また倭とは女性仏教徒という代名詞だから、

  その祭祀は仏式で供養しなくてはならないし、

  7世紀までは卑弥呼の伝統は破れる理由がないから、

  代々女王が君臨しなくてはならない、

  だが政府が公式に作った

  『日本書紀』の天皇たちは女王制でなく、

  男性天皇が主流である。

  また天照大神は奇妙にも伊勢に祭られて、

  わざわざそこまで出かけて行って参拝している。

  それなのに彼女を祭ってあると

  『日本書紀』に明記してある箸墓は見向きもしないばかりか、

  倭迹迹日百襲姫は、卑弥呼とも

 天照大神とも別人だとしている。

  これでは同じ奈良に不動の都を置いていたにしては、

  余りにも皇祖と伝統に不忠実すぎて、

  敬紳崇祖の伝統が生命である天皇家という

 根拠が信じられなくなる。

  こうして正確に判定すると、

  邪馬台国大和説は天皇家への信仰を根底から

 揺るがす目的で、

  事実無根のニセ学説を故意に捏造して破壊工作を進めてきた

  仮想敵国または集団の陰謀説だったとみるほかない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学講義録15:28頁

  旁国の邪馬国と巴利国とが、その後どうなったかを尋ねると、

  これまで卑弥呼の墓とされ、邪馬台国が奈良に

 実在した証拠だ、

  とされてきた箸墓古墳とその周辺の遺跡と地名が、

  実は何だったか、はっきりその正体を現わした。

  それは天智が発案し、天武が命令し、

  その後継者の女帝たちが完成させた

  対唐媒略用宣伝文書『日本書紀』補強用の

 道具立てだったのだ。

  だからそれらは全て卑弥呼らとは無関係な、

  後世に工作された「人工的な」地名で、

  本来の倭国史とは縁遠い空疎な作品にすぎない。

  だが、その対唐工作の実態が見えると、

  それらは『日本書紀』の実像を

   浮き彫りにしてみせてくれると同時に、

  7~8世紀の日本人が現代人にも勝る知性と

  教養の持ち主だったことも明確に立証した。

  それは予想外の成果で日本史の基礎的な

   大問題を解決する史学中でも、

  最大の史料地名になったのである。

  このことがあったので、一見、旁国とは無関係に見え、

  脱線に見えたかと思うが、

   あえて強引に箸墓を中心にしてお話しを進めた。

  このように学問には無数のチャンズがある。

  もちろん歴史はあらゆるものに関連をもっているから、

  幾らでも補強材料に使えはするが、

  その中から最適のもの一を選ばないと

 逸脱して主題を見失なう。

  これらの例は、主題の本質を見失なわずに

 活用できる好例として、

  特に力をいれてご覧いただいたのである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録15:33頁

  《百襲姫の名乗りの真相》

  では倭迹迹日百襲姫の名乗りが、

 どういう構造になっているか?

  改めて確かめてみよう。
  
  「倭」

  これは都の跡に残った地名・上井のことではない。

  卑弥呼が君臨した女王国全体の大義名分である

  「優婆夷国女性仏教信徒の国」を

   世界に標榜するトップ・ネームなのだ。
  
  「迹」

  この発音は漢魏音だとセキだが、

  『日本書紀』が使う当て字だから8世紀も和訓で

  「跡=アト」を意味する語「ト・トー・ツ」である。

  これは支配圏の南限を投馬国とみて、

 その頭音「トー」とみると、

  名乗り全体が表現する地域配列からみて合理的になる。

  するとこれは十島村だけでなく大島郡全域を指し、

  十島はその当時の国名の名残りを

 止どめているのだということになる。

  投馬国も張政の追加国名だが

 卑弥呼領だった可能性は充分ある。
  
  「迹」

  鹿児島県の西南瑞、大島から北上すると

   次のブロックは薩摩半島南部だから、

  これはその首都である現在の川内市で、

  その古名である都支(トチ)国=現在の高城(タキ)が

 最適である。
  
  「日」

   これは「後の小国日本=今の鹿児島県」の中央部、

   首都のある巴利国のマレー語式訳語である

  「日」であって、日向・日本の語源になった地域、

    姶良郡と薩摩郡一帯。
  
  「百」

   前ページで説明した通りで、

    種子島から肝属郡にかけての大隈半島南部。
  
  「襲」

   文字通り「襲の国」で、古代蘇奴国。

    曽於郡から姶良郡東南部+宮崎県南部。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録18:4頁

  《箸墓古墳は「雄略女王陵」か、「雄略天皇陵」か》

  この、天武天皇製の『記・紀』によれば

  「反正天皇」に当たる「女王と夫の男王」の、

  その子孫である倭王・武=

  「天武天皇製の『記・紀』の雄略天皇」が、

  やっとのことで奈良県の一角「高市」を取り、

   長谷の地を手に入れて、

  そこにまた観世音を祀る長谷寺を建てたのである。

 『記・紀』はさすがにその「名乗り」で、それをよく記録している。 

  『古事記』は大長谷若建。

  『日本書紀』は大泊瀬幼武と書くが、

  この「大」は倭(ゥオ)、

  「泊瀬(ハッセ)」は一見して百済(ハッセイ)で、

  倭王らが自称した名乗り

  「倭・百済・新羅~七国諸軍事~」からみると、

  元の倭国はすでに細かく分けられていて、

  泊瀬は百済として扱われていたのである。

  高所にあるその

   長谷・泊瀬の宮の眼下に横たわるのが「箸墓」である。

  その被葬者は誰か、

  それを記録しているのは、

  倭人だけの前方後円墳をその地域に持ち込んで、

  神聖な墓の名を

  「長谷(ハシ)墓」とつけ、

  それを永く伝承してきたことが最大不動の証拠だから、

  当時としては、唯一、長谷(はし)の名乗りをもつ

  「いわゆる雄略天皇」と、

 その妻「倭女王」しか被葬者はいない。

  だとすれば『日本書紀』は

  この天皇の人としてあるまじき非行の数々を

 列挙しているから、

  その一つを天武天皇の方針に従って

 「百襲姫に故事つけた」のが、

  例の『著墓伝説』なのだという新たな証拠まで揃いはじめる。

  これがもう覆ることのない『箸墓の最終結論』だ。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録18:5頁

  《反正・雄略2天皇の皇居と陵墓地》

  『記・紀』が書く記事のウソは、黄金塚古墳が暴露してくれた。

  少なくとも反正天皇=倭王・済までは、

  女王制が厳格に守られていた事実が、

  その葬制という動かない証拠になって残っていた。 

  では『記・紀』が書くことは全てウソばかりなのか?…。

  『記・紀』はこの2天皇たちの葬制をどう書いているか、

   調べてみる必要がある。

         皇居       崩年     陵の所在地

  反正天皇記 多治比之芝垣宮   60才  陵 河内之恵賀・長枝 「※」

  反正天皇紀 河内・丹比・紫籬宮 空白   陵 空 白

  雄略天皇記 長谷・朝倉宮    124才 陵 多治比・高?賚

  雄略天皇紀 泊瀬・朝倉宮    空白   陵 丹比・高鷲原

  (「※」本によっては本文にはなく割注に「毛受野(モズノ)陵の北」とあるが、

    現在そこには、そんな陵はない)

  『古事記』にはムリに空白を埋めた跡がはっきり見え、

  124才などと現実離れしたことを平気で書いているが、

  『日本書紀』は中国人に笑われるようなことは、

  ここでは書かない。

  だがそれでも、ご覧の通り双方とも、

  この2天皇もまだ奈良には葬っていないと書いている。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学講義録18:6頁

  《女王と天皇は別居婚だった》

  この高?賚・高鷲の今の発音はタカ・ワシだが、

  昔の振り仮名は「タカ・ハシ」で、

  高は高族、ハシは長谷・泊瀬・土師だったが、

  それをタカワシと読む時代になってから

  「高鷲」という当て字をしてしまったのだと、簡単にわかる。

  いうまでもなく、それらの陵名は、陵が造られたその時に、

  同時に漢字で命名された陵名でも地名でもないことがわかる。

  そうすると残る問題は、
 
   その「高?賚・高鷲陵」は大阪にあるという点である。

  箸墓は間違いなく奈良県にあり、

 その間を生駒山系が隔てている。

  夫妻の墓が別々になっている。

  これはなぜだろう?。

  それは古代日本の夫婦制度は、別居がたてまえで、

  男のほうが女性の家へ通う

  「足入れ婚」と呼ばれるものだったからである。

  では箸墓に葬られている女王は誰だったのであろう?。

  雄略天皇には次のように複数の后妃がいたと記録されている。

  雄略の后妃

  皇后…記 草香の幡梭姫(仁徳天皇の皇女)    記 若日下部王(大日下王の妹)
   妃…紀 韓姫    (葛城圓大臣の娘)    記 韓比売(都夫良意富美の娘)
              この妃が清寧天皇と稚足姫(伊勢大神の齋宮)とを生む。
   妃…紀 稚姫    (吉備上道臣の娘)    記 ナシ
   妃…記 童女君   (春日の和弭臣深目の娘) 記 ナシ

  (注)幡梭(ハタヒ)
     日下部(クサカベ)
     都夫良意富美(ツブラオホミ)
     和弭(ワニ)  


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録18:7頁

  《倭国独特の女王と天皇の関係》

  このうちの誰が箸墓陵の被葬者なのか。

  皇后をよくみてみると、実に奇妙なことに気づく。

  それは『日本書紀』に、

  皇后・草香の幡梭姫は仁徳天皇の皇女だと書いてあることである。

  『記・紀』の系譜を信じるなら、

  雄略天皇は、父・允恭天皇の姉妹と結婚したというのだ。

  仁徳天皇が倭王・讃であることは、

  多くの証拠が揃っていて、もう疑いのない事実だから、

  讃と武がいた時代は『宋書』で確実にわかる。

  それには次のように記録があるからである。

  「高祖 永初二年 詔曰 倭・讃 萬里 修貢」。

  この永初二年は西暦421年である。

  武が即位した年は彼が上表した年で、

  順帝の昇明二年、478年で、この間57年経っている。

  讃は元嘉二年(425年)にも上表して間もなく死んだが、

  その年を紀は即位から87年目だと書く。

  彼は即位前に軍隊を率いて兄の大山守と戦い、

   その3年後に即位したから、

  最低に見積もっても百才以上まで生きたことになる。

  そんな父をもつ草香の幡梭姫皇后が、

  父・讃が死んだ年に生まれたと仮定しても、

  雄略天皇が即位した時には、皇后は53才になっている。

  しかし百才以上になった父に、

   実子が生まれることは絶対にありえないから、

  単純計算しても皇后は7~80才で

   雄略天皇と結婚したことになってしまう。

  しかもその間、子供を生んでいないし、結婚後も子供はなく、

  跡継ぎの清寧天皇は他の妃が生んでいる。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録18:10頁

  《箸墓の被葬者はソナカの子孫・草香幡梭姫皇后》

  だが砂漠のような平坦な土地にでも坂のないところはない。

  むしろ奈良のはうが、

   はるかに大坂と呼ぶに相応しい地形に満ちている。

  このていどのことにも気づかずに、

   今でもまだ「大きい坂」説を信じて、

  知性の欠如を宣伝し続けている人や書物があるのは悲しい。

  こうして皇后が、

   実は大国・倭国の仏教女王だったことが確認できると、

  その草香幡梭姫という名乗りの読み方は一つしかなくなる。

  草はソウの頭音「ソ」、香は「カ」、

  幡はハタの頭音「ハ」、梭は従来通り「ヒ」だが、

  発音は大隅式に「シ」と読まなければならない。

  すると「ソカハシ」、

  これには「蘇我・箸」姫と当て字したはうがよくわかるが、

  蘇我は後世の当て字の一つで、

   その本来の発音はソナカだったことは、

  もうよくわかっているから、

  『古事記』風に書くと皇后の名は

   「息長長谷(ソナカハシ)比売」、

  間違いなく神功皇后→応神天皇→仁徳天皇の後継者で、

  雄略天皇の皇后、長谷寺の尼女王で

   箸基の被葬者だったことが決定的にわかる。

  これで宿題の箸墓問題は完全に解決したと思うが、

   いかがだろうか。

  ここでお断りしておくのは、

  今ある長谷寺はこの尼女王のハセデラではなくて、

  養老5年に道明上人が天武天皇のために三重の塔を建て、

  さらに神亀4年に聖武天皇の勅願で

  徳道上人が堂宇を建立した新義真言宗の総本山で、

  寺名もチョウコクジと読むのが正しい。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録18:11頁

  《奈良は3世紀の間つづいた仏教の国都》

  このとき初めて倭国は奈良県に入った。

  そして次第に勢力圏を広げて、670年の大化直前には、

  山の中の長谷よりずっと環境のよい

  高市郡の中心地・明日香村に本拠が移っていた。

  なぜなら「アスカ」という地名は

  「アショカ」王の大隅訛り「アスカ」に完全に一致する。

  これは仏教女王国・倭の武王が占拠する前には、

  存在するはずのない名だからでである。

  そして大化までの倭国の記録時

 全て女王制の仏教国だったし、

  皇極・斉明女帝らが去った後も、

  明日香は蘇我氏と仏教の本拠として残り、

  天智・天武時代の17年が過ぎると

  聖武天皇の大仏建立を頂点に、

 奈良は仏教全盛の国都に戻り、

  またその間、

   持統女帝以後、称徳天皇に至るまで

 実質的に女王制が続いて、

  中断したのはその僅か17年間だけにすぎない。

  478年前後に幡梭(ハシ)姫+雄略朝が高市に入って以後、

  称徳朝が倒れた770年までの3世紀の間、

  アショカ王の霊は明日香に君臨し続けて、

  空白があったのはその17年だけなのだから、

  この一帯にある478年前後から

 670年までの遺跡や、出土品は、

  すべて仏教遺物で、他の宗教の遺物はない。

  それは箸墓や周辺の古墳についても全く同じである。

  これほど明確なものを、年代、宗教、目的、用途などについて、

  思いつきの出鱈目解釈を並べる連中がいるが、

  それは無知の自白に異ならない。

  あなたも私も「以て他山の石」としなければならない。

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