2015年10月23日金曜日

箸墓:『日本書紀』における箸墓の説話


 ≪箸墓:『日本書紀』における箸墓の説話≫
 
  《箸墓》

  奈良盆地の南東、三輪山の麓に横たわる箸墓は、

  大和の古墳のうちでは桜井茶臼山とともに最古の形態である。

  土を積んだ墳丘の表面は塊石で覆っており、外見では積石塚である。

  奈良県桜井市大三輪町

  出典:保育社:カラーブックス:
     古墳―石と土の造形―森浩一著
     
  《箸墓と卑弥呼の冢》

  奈良盆地の南東部、

   大神神社(おおみわじんじゃ)の神域として

  守り伝えられてきた秀麗な三輪山の麓から、

  平地に少し離れて箸墓古墳がある。

  墳丘の長さが278メートルもある巨大な造山(つくりやま)で、

  全国の前方後円墳の中でも10番目の大きさだが、

  平地に立地しているためか、

  あるいは背景の三輪山が青一色であるためか、

  力量感だけでなく神秘さのただよう古墳である。

  『古事記』や『日本書紀』では意外と

  古墳についての説話は乏しいのだが、

  崇神紀にまず出ているのが箸墓の説話である。

  その大筋をたどっておこう。

  「倭迹々日百襲媛(やまととひももそひめ)が、
  
   大物主神の妻になった。

   ところが夫の神は、夜にしかあらわれず、

   どんな姿かを見せない。

   姫が懇願すると、明朝おまえの櫛箱に入っているから、

   自分を見ても驚かないようにと答えた。

   姫が明るくなってから櫛箱を見ると、

   そこに美麗しい小蛇(おろち)がいる。

   あまりのことに姫が驚いて声をあげたので、

   蛇神である大物主神がいかって三輪山へ登ってしまった。

   嘆き悲しんだ姫は、箸で陰(ほと)をついて死んだので

   大市に葬り、時の人たちは箸墓となづけた。」という。

  これは難解な説話であるが、

  私たちにとって興味深いのは説話の後半の部分である。

  「この墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。

    大坂山の石を運んで造る。

   大坂山から墓までは人民が並んで、

     たごし、つまり手送り式で運んだ。

     それを時の人が、歌った。

   大坂に、踵(つ)ぎ登れる。

   石群(むら)を手遞伝(たごし)に越(こ)さば越し難むかも」

  箸墓は、

  畿内地方にある雄大な高塚古墳の中でも古式に属している。

  箸墓と前後を決めにくいこの時期の大型古墳としては

  桜井茶臼山、大阪府摩湯山、京都府椿井大塚山などがあるが、

  いずれも自然地形を利用して墳丘を整えている。

  それにたいして、

    箸墓は、多少は自然地形を利用しているにしても、

  平野に築きあげられた墳丘である。

  もともと丘陵や尾根があったところを修築して

  古墳に利用した場合にくらべると、眼をさえぎるもののなかった

  平地に造りだされた大古墳は、

   それがいかに人間の知恵と労働に
  
  よって営造されたものであっても、

   神の協力のたまものと信じた

  自然の理ではなかったか。
   
 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     邪馬臺国の風雲:130・131頁

  《「矢」の神婚伝承の一致》

 『記・紀』以外のものにも幾重にも立証材料が遺っている。

  それを比べてみよう。

 1 『古事記』「神武天皇記」

  大久米の命が天皇にいう。

  「…勢夜陀多良比売の容姿が美麗なので美和の大神が

      恋慕して丹塗り矢(ニぬりヤ)に化け、厠(かわや)の溝の

   流れの中から美人の陰部(ホト)を突いた。

   その矢を持ち帰って床の辺りに置くと美男子になったので、

   結婚して生まれたのが

   「富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)の命」

   または

   「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)の命」

      です……」

 2 『山城国風土記』

  「可茂の社」前ページの「賀茂の建角身の命」の話に続いて

   「…命の子「玉依日売(タマヨリヒメ)」が

  石川の瀬見の小川で遊んでいる時、流れて来た

  丹塗り矢(ニぬりヤ)を持ち帰って床の辺りに挿して置くと、

  そのせいか妊娠して男の子を生んだので…その子を

  「可茂の別雷の命」と名づけた。……」

 3 『秦氏本系帳』

  「…氏の娘が葛野河で流れて来た矢を拾い、

    持ち帰って戸の上に置いたところ、

   妊娠して男の子を生んだので「別雷神」と名づけた……」

  4 『年中行事秘抄』

   「…多々須玉依媛の命が川上で美箭(矢)を拾って帰り、

     床下に置いたところ美男になったので、

    結婚して生まれた男の子を「別雷神」と名づけた……」

  5 『元亨釈書』

  「城北出雲路の少女が鴨河で洗濯していて

    箭(矢)を拾い、家の軒端に挿して置いたところ、

   妊娠して生まれたのが「賀茂氏」である。」

  この他にもまだ幾つもの一致点があるが、それを見ないでも、

  これらの伝承が同じ話のバリエーションであることは

  一見して分るはずである。

  主人公は「未婚の女性(玉依ヒメ)」で、

  「矢」で象放される「正体不明の夫(神)と結ばれて、

  ある「人物」または「氏族」の「祖先」が生まれる。

  この「ヒメと神」による、

  ほとんど同じ主題の話が『記・紀』ともに

  「崇神天皇」の部分にもみられる。

  略記してみよう。

  6 『古事記』

  「陶津耳の命の娘「活玉依毘売」のところへ、

    夜中に立派な男がやって来て間もなく妊娠したので、

   両親はその男の正体を知ろうと思って、針で糸を着物に

   つけさせ、跡をつけると美和山の神社に着く。」

  これは「神君」「鴨君」の祖「意富多多泥古(オオタタネコ)」

   の出自の説明の部分で、

  彼自身は「大物主大神」の子孫だと名乗る。

 7 『日本書紀』

  崇神十年九月

   倭迹迹日百襲姫の命は大物主神の妻になった。

  神は夜しか来ないから姫は顔が見たいという。

  「驚かないと約束するなら明朝あなたの櫛箱に入っている。」

   と答える。

   翌日開けて見ると小蛇がいたので姫は驚いて叫ぶ。

  すると神は怒って「御諸(ミモロ)山」に登ってしまう。

  後悔した姫は陰部を箸で突いて自殺する。

  だからその墓を「箸墓」という」と、

  ここでは墓の名の由来を説明するする説話になっている。

  『説話』というものが様々な想像と脚色で

   修飾されていることは、

  もう沢山の実例を見たので、

  その変型ぶりに驚かれる読者はいないと思う。

  もし私たちの目的が文学の研究で、

  古代人の想像力や創作力を評価するのなら、

  後で追加されたことがはっきり分る。

  こうした脚色部分が重要な対象になるが、

  私たちの目的はそれとは反対で、

   想像や脚色の混入しない前のもの、

  すなわち手の加わっていない

  「原型を確認」して「比較する」ことである。

  だから重要なのは一致点である。

   想像で追加された違った部分は邪魔になる。

  できるだけ取除くことが必要なのである。

  だから全然逆の方向から

  『説話』を見ようとする「文学者」には、

  古代史の謎解きは不可能である。

  日本の古代史が

  いまだに謎に包まれている原因が何だったか、

  よく理解できると思う。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     邪馬臺国の風雲:132・133頁

  《「美和山伝承」の比較一覧表》

  原型確認に一番便利な方法は

    一覧表にして観察することである。

  簡単に最大公約数としての原型が浮かび出てくる。

  女主人公     川   突くもの   夫  子または子孫

 1 勢夜陀多良比売 厠の溝 丹塗り矢 美和大物主神 富登多多良伊須気余里比売

  2 玉依比売 瀬見小川 丹塗り矢  火の雷の命   加茂の別雷の命

  3 秦氏の娘     葛野川  矢     松尾大明神  別雷の命

  4 多多須玉依媛   川上   美箭    天神     別雷の命

  5 城北出雲路少女  鴨河   箭     鴨の羽    賀茂氏

  6 活玉依毘売 記 (河内) 針 美和山大物主 神・鴨の祖 意富多多泥古

  6 活玉依媛  紀             大物主大神  大田々根子

  7 倭迹迹日百襲姫       箸 自殺  大物主神

  前の表の「川の名」が全部違い、「突くもの」も矢・針・箸になる。

  「人名、神名」も多少の共通点はあるものの、

  まるで違ったものが混っている。

  これは、それらの名が実録ではないことを端的に示している。

  それでいながら何となく、切っても切れない

  共通点があるために従来も「三輪山型」だとか、

  「丹塗り矢伝承」だとか呼んで、一とまとめにしてきた。

  しかしその程度では、

  これらの話が本来一つのものだという証明にはならなかった。

  それはどうすれば証明できるであろうか?。

  ただ一つの方法は、

  それらの名が出鱈目に創作されたものか、

  一つの名が変型したものかを、

  明らかにすることである。

  この場合は次ぎのようにして始めて、

  もとは一つの名前だったことが立証できる。

  倭迹=イツ=イッ=活

  (鹿児島方言では「活き魂」を「イツダマヒ」と発音する

  活=カツ=火都=ホト=富登=火都=火の=火津=ビチ=別(沖縄発音)=美知→美和。

  倭=オ=倭火都=オホタ。

  倭火都の=イカツ津=イカツチ=雷。

  倭=オー=倭迹迹=オー都都=大タタ。

  雷=ライ=良伊。

  ツ=ス、チ=キ=須気。

  倭=イ=依=ヨリ=余理。

  ピチ=美津=ミチ=ミ=目=マ=マ津=マ=松。

  美知大神=チオー神=目津大神=マツオー神=松尾大明神。

  大松=タマツ=玉の。

  玉の=タマ津=タムツ=大物。

  意富多=イトミ都=イツン津=イヅンヂ=出雲路。

  勢=セイ=城。

  夜=ヤ=矢。日百襲=カモス=カモ子=カモシ=賀茂氏。
  
  ほとんどに沖縄方言の影響が見られる他は難しいものはない。

  可茂、賀茂、鴨、神、秦、天などについては

   先に説明したから省略する。

  後にただ一つ残った「根子」については面白い挿話があり、

  少し丁寧に説明する必要があるから、

  ページを改めてお話することにする。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録15:3頁

  過去に「卑弥呼の墓」説が有力視され、

  3世紀以前から奈良に大和朝廷が実在した

   有力な証拠とされてきた箸墓古墳を、

  それほど重要な地位に据えてきたものは、

  『崇神天皇紀』の倭迹迹日百襲姫伝説=『箸墓伝説』が

   あるからだが、

  その根拠はただ一つ、

  「ハシ墓」という古墳名が、

   「箸」と同じ発音だというだけのことでしかなかった。

  しかもそれを『三輪山伝説』群や、

   「卑弥呼の位宮との争いと死」の史実と、

  精密に比較検討してみると、

  それは百済(ハッセィ)=長谷(ハセ=ハシ)という

  位宮の名乗りの一つを「箸」のことだと

  誤解した後世人が作り上げた「単なるお話」であって、

  「百済(ハシ)と争って自殺した」という史実を、

  「箸で自殺した」という想像説に変え、

  それを更に、同じ発音をもつ百済(ハシ)人の墓に結びつけて、

  倭迹迹日百襲姫の墓だと思い込み、

  あるいは思い込ませようと意図的に「箸墓」にしてしまって、

  いかにも史実のように『崇神紀』に掲載した、

   というのが真相だった。

  するとここで旧『唐書』の記事が重要な証言として

   不動の重みをもつ。

  旧『唐書』は「東夷」中の「倭国・日本」章で、

  「倭国」と「日本国」はそれぞれ独立した2カ国で、

  「日本国は倭国の別種なり」とはっきり書き分けている。

  いま注目する必要があるのは、

   そのうちの日本国の記事にみる、

  唐政府の疑惑をあらわにした特記である。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学講義録20:13~16頁

  《宮古島から広まった『三輪山伝承』》

  発音を活用して、国名の移動または伝播の経路と、

  それに付随する謎の解き方をお話ししてみよう。

  これも弥奴国を例に使うと、

  そのギリシャ語発音は MIANO 、

  パーリ語では myya nu だったから、

  宮之浦、宮之城が移動伝播の経路で、

  その前は沖縄の宮古島、後世の伝播先は宮崎県の都之城、

  京都府の美山町、宮城県、岩手県の宮古などが候補地だが、

  そのうちの「ミヤマ」の名は

   宮古島以前のルーツも教えてくれる。

  それはソナカ仏教宣布団が、

  最初に目標にした東方の金地国「ミャンマー」である。

  するとこの仏教伝播ルートは、

  「箸墓」説話=『三輪山伝承』の謎も解いてくれる。

  箸墓の蛇だけが一つだけ小蛇に変えてあるが、

  この伝承の他の主役はすべて大蛇である、

  しかし太古から日本列島には

  アオダイショウより大きい蛇は棲んでいない。

  だから日本列島先住民は大蛇の怖さを知らない。

  彼らはマムシなどの毒蛇には注意を払うが、

  そのマムシも美味な食物くらいにしか考えていなかった。

  これでは大蛇に対する畏怖がテーマになる

  大蛇伝説が生まれる下地がない。

  我が国各地の大蛇伝説は、全てが作り話で実話ではない。

  大蛇伝説は現実に大蛇の恐怖を知る

   熱帯地域の住民だけしか、

  考え出せない文化なのである。
  
  箸墓は後世の仁徳皇女=雄略皇后の名に基づくもので、

  当然、百襲姫のハシ=ハセと同音だったため

   混同されたのであって、

  とても「奈良に卑弥呼がいた証拠だ」などと

   言えるようなものではない。

  そんな説は何も知らない者の幼稚な思いっきに

   過ぎなかったのである。

  それに比べて私たちは、

   パーリ語に語源をもつ弥奴国の国名から、

  これほどまでの史実を発掘し、

   疑問を解消し真実を立証しながら、

  全てを充分に把握することができた。

  念のため『漲水嶽神婚説話』を簡単にご紹介しておこう。

  宮古島が無人の原野だった太古、

  平良の漲水嶽に男女の神が天降ってから人が住み始め、

  次第に賑やかになって数百年あと、

  平良の陣屋に大本家が富み栄えていた。

  神に願をかけて生まれた娘が成人して、

  降るような縁談も断り、外出もせず自重していたが、

  15才のある夜、一人の美少年が幻のように

  部屋に入ってきて妊娠してしまった。

  娘は死のうとするが父母は「早まるな」と止め、

  針に長い糸を通して与え、

  少年が来たらこの針を襟のあたりに刺せと教え、

   娘は実行する。

  翌朝、糸をたどって行くと漲水嶽に首に針を刺した

   大蛇がいた。

  親子は悲しんで死を考えるが、夢の中で少年が
  
  「私は漲水嶽の天神だ、3年後に子供を連れてこい」という。

  生まれた女の三つ子を連れて行くと

   神は3児を島の守護陣にした。

  だから島民は漲水嶽を崇拝しているのだ。

  以上で箸墓の由来説話は、

  雄略天皇=倭王・武が上表した478年より後に改作した、

  新タイプのものだったことが明瞭にわかる。

  その名も漲水嶽が南九州で「水張り岳」と訳されて

  「ミッハィ岳」と鹿児島語発音が固定した後に、

  さらに移動して「ミハ山」と当て字されたものが、

  近畿発音で「ミワ」山と読まれて「美和山」になり、

  その後「糸が三輪残った」という解説が

   考案されて三輪山になった。

  このほうが大学講義録15の

   御倭(ミワ)説よりも、より有力だ。

  これは大和朝廷が沖縄・南九州人の政権でなければ

  伝わるはずのない伝承である事実と、

  沖縄を出発して奈良に定着するまでの、

  距離と時の経過が長いことを明確に証言している。

  こんなに伝承とその改作の筋道が明白である以上、

  卑弥呼が奈良に住んでいて彼女が体験した事件が、

  そのまま三輪山伝説になったとか、

  奈良での史実が、

  なぜか宮古島だけに伝わつて変形したなどとは

   到底考えられない。

  箸墓の話はやはり後世の雄略皇后「ハシ姫」の墓名を

   説明しようと、

  『漲水嶽神婚説話』の遥かな子孫を利用して
 
   コジつけただけのもので、

  卑弥呼とは何の関係もない

  「誤報・埋め草記事」だったという事実が誰にでもわかる。

  『記・紀』の記事は神武東征記事が代表して立証するように、

  時代も人物もお構いなしに、

  手当たり次第に合成して作り上げたものが多いことは、

  すでに多数の実例で確認済みである。

 
  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録14:30頁

  《箸=丹塗り矢、箸墓伝説は誤解の産物》
  
  著墓の由来は『崇神紀』の

  「埴安彦の乱」の

   次の、 倭迹迹日百襲姫が大物主の妻になった話で、

  大物主は夜にだけきて姿が見えないため、

   姫が姿が見たいというと、

  「では明日の朝、櫛箱を開けてみよ。しかし驚くな」

   というので、

  約束して翌朝開けてみるとその正体は

   小蛇だったから思わず悲鳴をあげた。

  神は怒って三諸(みもろ)山へ姿を消す。

  恥じて後悔した倭迹迹姫の命(原文通り)は

  箸で急所を突いて自殺、大市に葬ったから、

  当時の人はそれを「箸墓」と呼んだ。

  というのであるが、

  これは神武天皇妃「比売多々良伊須須気余理比売」は

  大物主が丹塗矢(にぬりや)に化けて

  妃の母をレイプして生ませた子だという『神武記』の話や、

  八咫烏=建角身の子・玉依日売が川へ遊びに行って、

  流れてきた赤い矢を拾って帰ると、

  妊娠して男の子を生んだという

  『山城風土記』にある「下鴨神社の縁起」とも同じ内容で、

  元は一つの史実が様々に変形したものだというのが、

  もう異論の余地のない定説である。

  その本来のモチーフは赤い矢で、

  それを難しく丹塗矢(にぬりや)と書き替えているが、

  これには全て根拠がある。

  赤い矢はアカイヤヘの当て字、

   丹塗矢(にぬりや)は沖縄の古代信仰の聖地であった

  ニルヤ・ヌリヤの名が赤を丹(に)と書かせ、

  ヌリヤを塗り矢と誤解して、お伽話化したものである。

  だから箸墓伝説はこの結婚話から変形した

  「百済(ハシ)の倭迹迹姫の自殺」話を、

  箸で自殺したと更に脚色し直して、

  全く無関係な百済王墓を百襲姫の基に

   仕立て上げたものにすぎない。

  イザイホー:朱づけ遊び

 『語句説明』

  出典:フリー百科事典
    『ウィキペディア(Wikipedia)』


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