2015年10月15日木曜日

阿部氏の「多」≪曲玉(勾玉)≫


 ≪阿部氏の「多」≫
 
  稲荷山鉄剣に刻まれた上祖名意富比垝の「意富」や

 第2代以下にある「多」名は、

 乎獲居の系譜が「多」と

 称されていると推測させた。

  だが、前記でみたように大彦命の系列には、

 その父方である孝元天皇が神八井耳命を祖とする

 『古事記』のいう「意富臣」と関係することはあるが、

 といってその「多氏」とは全く結びつく要素がない。

 しかし、

 高屋安倍神社の祭神屋主彦太男心命の

 「太男」にもあるように、

 阿部氏が「太」を持っていることは明らかで、

 大彦命の「大」はその「太」を象徴していると考えられる。

  そこで注目されるのが、

 その遠祖登美夜毘売命、登美毘古命である。

  両名は『古事記』の記載名で、

 登美毘古は『日本書紀』では長髄彦と称される。

  彼は神武東征において激しく反抗し、

 この強大な勢力を現在の大和盆地に

 保持していたことが知られる。

  神武天皇の遠征軍が

  「浪速の渡を経て、
 
   青空の白肩津に泊(は)てたたまひき。

   此の時、登美那賀須泥毘古、

   軍を興して待ち向へて戦ひき」

 とある。

  那賀須泥毘古は『日本書紀』の長髄彦であるが、
 
 その名前は

 第八章 「インドの文化と祝祭」「アヴァンティの種族」で

 紹介した古代アヴァンティ国の氏族ハイハヤ族の一部族

 tālajangha の名称に係わる。

  その語義は「クーラ樹のような脚を持つ」、

 つまり「脚が長い」であり、「長髄」である。

  桜井市の西北の東磯城郡田原本町の「田原本」の

 祖語であると考えられる。
 
  白肩津(日下の蓼津(たてつ))で敗れた

 神武天皇は紀州に下り、紀伊半島の南方から上陸し

 吉野方面から再度大和盆地へと進攻してくるが、

 その際の防衛軍の人々の名称は「生尾人」で、

 『古事記』に3回登場する。

 日本古典文学大系はこれを

 「尾生(おあ)る人」と読み下している。

 第一は
 
 「尾生る人、井より出て来りき。其の井に光有りき。

  爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、

  『僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ』と答え曰しき。

  此れは吉野首等の祖なり」とあり、

 第二は

  それに続いて「即ち其の山に入りたまへば、

  赤尾生る人に過ひたまひき。

  爾に『汝は誰ぞ』と問ひたまへば、

  『僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ(略)』と答え曰しき。

  此れは吉野国栄の祖なり」とある。

 第三は

  「忍坂の大室に到りたまひし時、尾生る土雲、

   八十建、其の室に在りて待ち伊那流」とある。
 
 第一の「吉野首」の吉野はいうまでもなく吉野郡のうちであり、

 第二の国栄は吉野町国栖にその名称を遺し、

 第三の忍坂は桜井市忍坂である。

 「生尾人」は、「オオ」または「オホ」と訓むことは可能で、

 この地域に「生尾人」が広く居住していたことを

 『古事記』は物語っている。

 『日本書紀』はこれを「有尾」(尾有り)とする。

 忍坂の東側は粟原であるが、

 同地区名は現在「オオハラ」と呼ばれる。

 それは「粟殿(おおとの)」も同様である。

 「尾生(おあ)る人」は

 シュメル文明の伝説のオアネスを思い出させる形容であり、

 それがインドへ入って

 yadava (水棲動物)族の avan-ti アヴァンティ となったことは

 第七章で述べた。

 神武東征軍を吉野山中で助けた八咫烏は音読すると

 ya-da-wu となるが、ここでは追求しない。

 「生尾人」は三輪山の大神神社の祭神

 大己貴神と直結していることに述べるに留めておきたい。

 粟原はサンスクリット語の āhāra の転写であり、

 その意義は「食物、糧、饌」を表わす。
 
 āhāra は第八章の「インドの祝祭」で触れたが、

 「阿閉」とも音写」されている。

 阿閉氏は大彦命の子、武淳川別命(建沼河別命)の子

 豊韓別命に興る氏族名とされ、

 大彦命の系譜には膳臣、高橋氏族名など、

 「食饌」に係わる職掌にある氏族名が多い。

 これは崇神天皇以降の職制と考えられて

 天皇に対する奉仕とみられているが、

 実際は一定の神に対する奉際であったと考える。

 というのも、それら氏族の根幹をなす阿部氏名は

 サンスクリット語の hava に由来していると考えるからである。

 その語義は「呼び掛け」であるが、「献供、祭式」を表わす。

 本書の第一章祝祭「祝(ハフリ)」で紹介した

 havala (哈波藍)の hava であり、

 ハフリが阿夫利となった例を

 第十一章の 「ドゥルガー・プジャーの里」

 で紹介したが、

 hava は「阿夫」であり、「阿部」である。
 
 阿部氏は単に武人だけでなく、

 神を奉祭する「祝」の職能を備えていたのである。

 高屋安部神社の「高屋・高田」の

 tarkyati(te) <思度・思想>が

 阿部氏の奉祭する神社に冠されている理由がここにある。

 インドのバラモン教の原語である

 brahman は「神聖な言葉」で、その祭官は「聖智に満ちた者」、

 つまり神聖な知識を持つ者は祭官である祝(ハフリ)である。

 そのような阿部氏の祖が大彦命であり、

 その遠祖が登美毘古であり、

 その名は神武東征時大和盆地に覇権を持っていた王者で、

 彼等の総称が生尾人である。

 「オホ」であったと考える。
 
  登美毘古が、阿部氏の本拠地に居たことは

 谷地区の東方桜井を隔てて

 外山(とび)があることにより推測できる。

 外山と表記して単に「トビ」と呼ぶ。

 これを「トビヤマ」と読むと、

 登美毘古の妹登美夜毘売の名称となる。
 
 「トビヤ」はサンスクリット語の dvi-ja で「鳥」を意味する。

 現在そこに鳥見山があることに係わる。

 dvi-ja の本義は「二度-生れる」で、

 親鳥から生れた卵から再度生れる理由から鳥をいうものである。

 この dvi(二、英語のtwo、ドイツ語のzwei)を

 語幹とした用語に dvipa がある。

 これまで jambu-dvipa (閻浮提)の構成用語として

 紹介したものだが、本義は dvi-apa で「二つの川」の間で

 「洲」を意味する「島」を表わす。

 桜井市はかっての磯城郡のうちで、

 外山の北半分は「磯城島」のうちにある。

 この「島」こそ dvipa(dvi-apa) である。

 三輪山の麓を流れる大和川と粟原川の

 二つ(dvi)の川(水:apa)の間の地の意味であり、

 「トビ」で登美毘古の本拠地と考えられる。

 外山と阿倍の近さから安部氏族は

 この登美毘古あるいは登美夜毘売の勢力を

 継承した勢力と判断してよいと思う。
 
  三輪山の東側にある「出雲」が示すように

 三輪山の大己貴命(大国主命)の信仰には

 現在の島根県の出雲族とも深い係わりがある。

 杵築大社(出雲大社)の古い奉祭氏族である富(とび)氏は

 登美毘古の「トビ」と同声であるが、

 その関係は史料ではよく解らない。

 しかし、現在の松江市、八雲村、東出雲町の辺りは

 かっての意宇郡であり、意宇は「於保」と訓まれ、

 その祖を桜井市の「生尾人」と同じくするものとみられる。

 東出雲町の出雲郷は現在でも「アダカエ」と呼ばれている。

 域内に阿太加夜神社が鎮座し、

 地名呼称はその神名に依るものではあるが、

 意宇に居住した種族がアダカエ、サンスクリット語の

 ādi-gaya(太初の種族)と解釈できるからである。

 同社の祭神は出雲国風土記に載る

 「阿陀加夜努志多伎古毘売命」で、

 簸川郡多伎町の多伎神社(多伎)、

 多伎芸神社(口田儀)に祀られている。

 阿陀加夜努志は「太初種族の主」で、

 出雲神話を考えれば「大国主命」を謂っていると考えられる。

 多伎(多岐)は解説を除くが、「生尾人」であり、

 芸とは邇邇芸命の「芸」と同じく古くは勾玉であったが

 後には竹玉(たかたま)と変化した祭儀のための供献物を表わす。
 
 出雲郷の東隣の揖屋町は「生尾」と通じ、

 意宇が大国主命を奉祭した

 富氏の勢力範囲であったことを示す。

 富氏の奉祭する出雲井神社は

 現在出雲大社の地に出雲国造の創設後に

 移されたことはよく知られるところである。

 簸川郡簸川町に現在富村(とびむら)があるが、

 その地は斐伊川の湾曲した位置にあり、

 川(水)に巻かれる地形にあるが、

 古くは斐伊川と宍道湖の間にあった。

 その西北側に出雲国風土記にもある鳥屋神社が鎮座する

 鳥井地区がある。
 
 これは dvi-ja の転訛で、

 桜井市の外れ、磯城島とその様子がよく似ている。 

  以上のような考察から、

 大彦命の系譜では稲荷山古墳の鉄剣に現れる

 「多」は、神八井耳命を祖とする「意富臣」系列とは全く違う。

 大和盆地にいた最も古い(太初)氏族「生尾人」の系列にあるものと

 知ることができるのである。

 因みに出雲風土記「出雲郡」の最後に記述されている

 役職者名の中に「少領外従八位下太臣」とある。
  
  埼玉県埼玉郡の西側の郡名大里郡は

 「多氏(生尾人)の里」とよいことが判った。

 大里郡大里村高本に高城神社、

 熊谷市宮町にも高城神社が鎮座する。

 この「高城」はサンスクリット語の

 tarkuati の語幹 tark- を転訛させた神社名である。

 前者の近くには市田の地名があり、

 これも「智度」である citta である。

 また後者の神社は近郊に千形神社があり、

 千形(近津)は cikiṭṣa で「知識ある者」の意で tark- に相当する。

 熊谷市の西隣り深谷市西島及び宿根の滝宮神社はこの系列に入る。

 大里郡内の寄居町保田原の「波羅伊門神社」と同町西ノ入の

 「波羅伊門神社」は双方とも
 
 brahman (神聖な知識を得た者) の転訛で、

 一般にバラモンといわれる祭官を表わす用語である。
 
  また、同町内赤浜にある出雲乃伊波比神社は

 入間郡毛呂山町岩井の同名社の

 天穂日命に因む神社名で「伊波比」は「剣、刀」を表わす用語であり、

 神名の「穂」が「矛」であることを覗わせる。

 毛呂山町の出雲伊波比神社のある岩井は

 「伊波比」の転写であるが、

 同町の北側比企郡鳩山町の東端にある

 石坂、東松山市の岩殿は

 この伊波比が基礎になっていると見られる。

 両地区の間にある物見山は「物:布都・経津」に

 係わる剣が介在する。

 この地区の南側は坂戸市であるが、

 そこの石井は「岩井」であり、

 「坂戸」は埼玉 śakti-mat の śakti の音写、

 鹿島神宮の摂社坂戸社とおなじである。
 
 このように

 北武蔵には「剣」を地名とする里郷が散在しているのである。
 
  茨城県岩井市の「イワイ」も「伊波比」と同根である。

 ここは平将門の本拠地であったところである。

 岩井地区内に藤田神社(小字藤田)があるが、

 藤田は市内の冨田、辺田地区名と通じ「布都:剣」を表わす。

 藤田の東側の幸田(こうだ)は「サキタ」で śakti (剣)に依る。

 この幸田の東隣りが水海道市の大生郷で

 「尾生」あるいは「生尾人」に通じる。

 その大生郷の北側は結城郡石下町で、

 町内に阿部神社(豊田)が鎮座する。

 石下は「伊波我」とも読め、

 祖語が「剣」であったと考えられる。

 この地域からは少々離れているが、

 同県の栃木県境にある

 笠間市には石井(いしい)神社(石井)が鎮座するが、
 
 この名称は「イワイ」が古名であった。

 石井の南隣りは来栖で栗栖と同じ「剣」で、

 その東方の佐志能神社、大渕の佐城(佐白)、才木の祖語も

 śas-ti śakti である「剣」で、
 
「イワイ」であったことを補足する。

 石井の近郊に大郷戸(おおごと)がる。

 大郷は大生郷と同義と考える。
 
 笠間市内には常陸風土記に載る「大神駅」があって

 三輪山を進行する人々がいたことを示す。

 同市の西方の真壁郡には大和村がある。

 村内には高久神社がある高久、大国玉神社のある大国玉、

 そして阿部田の地区名があり、

 阿部氏族の存在を覗わせる。

 大国玉神社は延喜式神名帳に真壁郡一座として同名で載り、

 大国主命を祭神する。

 鹿島郡鉾田町の「鉾」は矛で「二つの刃のある剣」である。

 町内には坂戸、鳥栖地区に黒栖神社が鎮座するが、

 黒栖は栗栖と同様で、

 この町名が「剣」に由来する状況が知られる。

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