2015年9月4日金曜日

和人が造った三角縁神獣鏡


 ≪和人が造った三角縁神獣鏡 ≫


 「三角縁神獣鏡の信仰と作者」

 神像の間にある多層傘蓋はシンドゥ教独特の象徴である。

 日月天王の文字によって神像が日と月の神であることがわかる。

 東に青龍、西に白虎がいる。

 その虎の表情は中国のものではなく、

 東南アジア系の絵であり、

 龍は鹿の角とその姿態がスキュタイ系の絵である。

 これは買手の注文に合わせた東南アジア系鋳造師の作品である。

 福岡県沖の島岩陰18号遺跡出土

 『日月天王三角緑神獣鏡』22.2cm国宝

 「三角縁神獣鏡・国産説」

 三角縁神獣鏡・国産説の骨格になっている部分を検討してみよう。

  ① 「景初四年」と彫った鏡があること。

  これは先の検討どおり、 

  魏で造ったものではないとはっきり言明している。

  しかしそのあとに続く説明は、

  「魏の年号の鏡を使用していることは、
 
  魏の皇帝に服属していたことを表しているから、

  魏に朝貢していた倭国のものだ」という。

  やはりヒミコ政権の鏡であって、

  その鏡が見つかった京都府福知山市あたりが

  「邪馬台国」だったと信じている説なのである。

  ② その鏡には画像をとりまく輪のなかに文章が彫ってあるのだが、

  その文面がほかの「景初三年」や「正始元年」年号の

  入った鏡の文章とほとんど同一で、
 
  字体も非常によく似ている。

  これは「景初四年」がないことを知らない魏から遠く離れた

  「元号を改めたという詔書がすぐに届かなかった地域」の

  人々が造ったものだ、という。

  なにがなんでも魏に服属していた国=

  倭国の製品だと信じこんで、

  それ以外の場合があることを考えないのである。

  しかし魏に服属していた国「ヒミコ政権」は滅びて、

  魏と戦って負けて逃げてきた

  元高句麗王の位宮が伊支馬として君臨する

  「邪馬壹国」になってしまったのである。

  この状態を知っていれば、

  魏の年号を入れても何の役にも立たないことはわかりきっている。

  この年号は政治的な魏の権威には全然関係ない

  「別の目的」を、考えなければいけない。

  それはこの三角縁神獣鏡が出土する古墳が、

  その魏の年号の3世紀中ごろから

  100年も後のものばかりだからである。

  この矛盾を「中国製説=邪馬台・畿内説」では、

  ヒミコが受けとったあと、

  その政権はそれを100年間使わずに

  保存して伝世していたからだ、という。

  これは最高にオカシイ。

  「邪馬台・畿内説」とは、

  その政権は奈良の天皇家だという説なのだから、

  なぜ100年ものあいだ、使わなかったのか?

  なぜ100年経ってから配布したか?その理由は何だったか?

  といったことが『記・紀』の記事で説明できなければならないが、

  その説では、それに該当する朝廷の変化については、

  何ひとつ証拠をあげていない。

  これを「国産説」は突いて、

  ③ 「100年ものあいだ保管していたというような

  伝世説はあまりにも空想が過ぎる。

  紐を通す穴の状態をみても、そんな説は認められない」といい、

  この100年のズレは、

  「古墳時代が4世紀から始まったとする

  従来の考えが間違っているので、

  私(加治木義博)は3世紀の前半から

  始まったと考えている」と

  「国産説」の代表者・菅谷文則氏(橿原考古学研究所課長)はいう。

  それは本当だ。

  誰が考えても、

  せっかく鏡に権威をもたせるために

  魏の年号を入れて造ったものを、

  魏が栄えているあいだは使わずに、

  魏が滅んで世の笑いものになってから使うというのは、

  どう考えてもおかしい。

  常識では考えられない発想だ。とても人を納得させる力はない。

  その「紐を通す穴」というのはつぎのようなことだ。

  ④ 三角縁神獣鏡の背面にある紐を通す穴は

  鋳造したままで「磨いてない」。

  だからざらざらで紐はすぐ擦り切れてしまう。

  これはほかの中国製の鏡と大きく違う点で、

  「一時的な使用目的」だったと思われる、

  という想像説である。

  だが私たちはもう、その穴は紐なんか通すのでなく、

  木の枝などを通して昼間は見えない北極星の位置を表示し、

  今の術語でいう「真方位(しんほうい)」の方角を

  正しく測定するのに重要な

  役割をもった部分だったことを突きとめている。

  枝や木片を挿すのだから磨く必要はない。

  私たちの研究結果のほうが正しいことを、

  この磨いてない穴が証言しているのである。

  しかしもっと重大なことを、菅谷氏はこう指摘している。
                 
  ⑤ 「初期大和(やまと)政権の中心地であった

  奈良県桜井市の三輪山(みわやま)山麓から

  天理市にかけての地域からは、

  三角緑神獣鏡は一面も出土していない。

  初期大和政権にはこの鏡を必要としない

  社会情勢があったとみてよい……」。

  これは

  「三角縁神獣鏡は、

   ヒミコ以前から連綿と続いている大和政権の鏡だ」

  といい続けてきた

  「邪馬台国・大和(やまと)説」にとって致命的な指摘である。

  「邪馬台国・大和説」は

  「三角縁神獣鏡が畿内を中心に大量に分布しているから、

   邪馬台国は大和にあったのだ」という主張だった。

  そのかんじんの大和の、

  またその時代に初期大和政権があったと

  主張してきたその中心地に

  三角縁神獣鏡の影も形もない……!?

  これほどはっきりと

  「奈良は三角縁神獣鏡とも邪馬台国とも関係ない……」と

  事実で証言しているものがあるだろうか……。

  それは素人が、思いつきで並べる想像説ではない。

  その奈良の地元にある我が国でも

  最高に権威のある研究機関の現役の指導者が、

  事実にもとづいて言う真実の報告なのである。

  ⑥ そして日本では弥生時代以来すでに500個もの

  「銅鐸(どうたく)」が生産されていて、
  
  その種類も多い。

  これは原材料も技術もあった証拠だから、

  三角縁神獣鏡も国産が可能だったことを示している、という。

  これはどうみても、「国産説」のほうが筋が通っていて、

  「魏=中国製説」の完全敗北である。

  では、これで国産説の決定的勝利に終わったのであろうか?

  いや、ここで問題が発生している。

  「国産説」は

  「三角縁神獣鏡は国産だ」とはいっているが、

  今ご覧になったように、
  
  菅谷氏は「初期大和政権の中心地であった

  奈良県桜井市の三輪山山麓から天理市にかけての地域」

  といっている。

  氏は「そこにその時代に初期大和政権があった」

  という前提に立っているのである。

  私たちはすでに、

  この本の前のほうで天皇政権が奈良に入ったのは、

  倭王・武のとき以後であることを突きとめた。

  それは5世紀末に近い時期で、

  菅谷氏の言う初期大和政権というのは

  ヒミコや崇神天皇がいた3世紀半ばの

  「邪馬台国」のことである。

  菅谷氏は、

  「古墳時代が4世紀から始まったとする

   従来の考えが間違っているので、

   私は3世紀の前半から始まったと考えている」

  とつけ加えたのだ。

  これはヒミコが魏からの贈り物を受けとった

  240年を頭においている証拠である。

  氏はどうしても、邪馬台国は奈良で、

  それが初期大和(やまと)政権だと信じている。

  やはり「邪馬台国・大和説」なのである。

  ちがうのは「角縁神獣鏡を造った国」だけなのだ。

  だとするとなぜ、

  そこから三角縁神獣鏡が出土しないのかについての説明がいる。

  なぜなら、ご存じのとおり、

  大和政権の祖神である天照大神の記事にも

  「この鏡を見るときは私を見ると思え」と
  
  皇孫に鏡を授けたと書いてあるし、

  鏡が「三種の神器」の一つで

  天皇の地位の象徴であることは誰でも知っている常識である。

  当然そこには鏡崇拝者の大集団がいた。

  その中心地であった都のあとに、たとえ特殊な鏡にしろ、

  当時の鏡としては一番多く出土する三角縁神獣鏡が、

  ただの一面も出土しないということは、

 そこは絶対に「初期大和政権の所在地ではない」という

  「確定した答え」なのである。

  ※出典:加治木義博
     「WAJIN・KKロングセラーズ:205~210頁」

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