2015年9月27日日曜日

鹿児島ハンヤ節


 ≪鹿児島ハンヤ節≫


 「リオのカーニバル」

  鹿児島ハンヤ節は移民とともにブラジルへ行き、

  サンバやマンボを生み、

  世界的に有名なリオのカーニバルを生み出した。
             
  「タイ山地アカ族の歌垣(かがい)」

  グエバ・アカ族(本文参照)の歌垣は

  風土記や万葉集に登場する日本の歌垣とまったく同じもの。

  ただ衣装は部族ごとに異なる。

  「写真」

  上:南米の夜に酔いしれる

  下:生きていた万葉弥生時代

   ※出典:加治木義博・言語復原史学会
            「㈱保育社『焼酎入門』:87」
 
 数々の共通文化をもつにもかかわらず、

 アカ語は日本語の先祖ではない。

  一例をあげると

  「ノー(行く)アガ(何処)エー(え?)」

  「ジバ(焼酎)ドウム(飲む)ユー(に行く)」

  「ヨームー(良いな)」となる。

  「エー」と「え?」、

  「ユー」と「ゆく」、

  「ヨー」と「よい」といった同音がありながら、

  また「焼酎、飲む、に行く」と語順の一致もありながら、

 よく見ると、

 最初の疑問文は「行く、何処、え?」と独特の文法をもっている。

 また基礎語の一致も少ないので、

 たしかに我々と共通の祖先をもってはいるが、

 別れた時代ははるかに古く、

 約二千年前とは考えられない。

 アカ語は親族語ではあっても租語とはいえないのである。

 日本列島へ焼酎をもちこんだ人々は

 アカ族以外に求めなければならない。

 それがどういう民族であったかは

 言語学的には見当がついている。

 それはやはり

 タイ国で少数民族として扱われているカレン族で、

 ビルマには州を形成するほどの犬族である。

 しかし言語学の成果をお話しするのには本書は不適当である。

 ここでは焼酎のルーツをついに彼方に望み見る。

 というところでお話を終わることにする。

  「リズムの渡来」

  リス族の楽曲は沖縄のものに近似しているが、

  沖縄のリズムは真っ直ぐ鹿児島に上陸している。

  鹿児島ハンヤ節はテンポの速さで異色の民謡であるが、

  原型は沖縄を経由してタイ奥地につながる。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:122」


  この点、『大言海』や『広辞苑』になると、

  はっきりポルトガル語であるとしているのは、

  さすがであるが、

  わざわざAlambique(アランビケ)を語源としてしまい、

  本当の直接語源を記録している

  『日葡辞書』を知らないのは惜しい。

  いかに高名な学者であっても、

  こうした手落ちはある。

  文献によって歴史の真相を探るためには、

  徹底した探求が必要であることを

   よく心にとめておいていただきたい。

  『日葡辞書』はこのほかに、

  もっと重大なことを教えてくれる。

  それは蘭引が

   日本で蒸溜器の名として使われるようになる以前に

  「焼酎甑」というものが既に存在していたという事実である。

  「リオの謝肉祭(カーニバル)」

  ハンヤ節は移民の手でブラジルに伝えられ、
  
  サンバやマンボの軽快なリズム生み出した。

  世界的になったリオのカーニバルのあの陽気な祭りは、

  キリストとは無縁の焼酎文化なのだ。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:124」


  蘭引と焼酎の起源を結びつけることは

   根本から間違っているのである。

  それ以前に日本列島に古い時代から焼酎があり、

  更にポルトガル人の来航で

   別系統の蒸溜器である蘭引がはいって来た。

  ところが江戸時代のもの知りが、

  何でもかでも蒸溜器を

   蘭引とハイカラぶって呼んだために、

  この二系統の区別がわからなくなって、

   焼酎そのものが、

  室町時代前後からのもののように

   感ちがいされてしまうことになった。

  いつの世にも居る一知半解の大先生のおかげで、

  ここでも歴史の真相は、ひっかきまわされて、

  でたらめな泥土の下に、

   だんだん深く埋め隠されてしまったのである。

  このことは、焼酎の生産が現代に至るまで、

  九州ことに中、南部にかたよっていたことにも原因がある。
  
  ルイ=アルメイダらによって西欧医術が伝えられ、

  アルコールが消毒薬として使われるようになったために、

  薬用の焼酎(今の分類ではスピリッツ)が

   全国的に造られるようになったが、

  ポルトガル主導型であったために、

   蒸溜器もランピケと呼ばれた。

  蘭引は厳密にいえば製薬器具ではあっても、

   製酒器具ではなかった。

  焼酎はだから元禄時代になっても

   薩摩の阿久根港から、煙草と一緒に移出されて、

  大阪や神戸に荷揚げされる

   ”薩摩の国という外国”からの舶来商品として

  記録に残っているのである。
  
  「ハンヤ節」

  原型のハンヤ節がどれほど開放的か歌詞をみてほしい。

  〆はんやえー、

  大尻(うじい)振い振い三十まじゃ踊え、

  三十越ゆぇば子が踊っ。

  (はやし言葉)

  「今来た青年好(にせどんよ)か青年(にせどん)。

  相談(そだん)かけたら駆落(はつち)こそな青年(にせどん)。」

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:126」


   島津藩が琉球を支配した時というのは、

   慶長一四年(1609)のことである。

  この年、徳川家康は、

   西国大名の海外交易を止めて財政的に弱体化させようと、

  五百石積み以上の大船を没収したが、

   事前にそれを察知した島津藩は、

  先手をうって琉球を服属させ、

   しかも併合はせずに、あくまで外国として扱い、

  家康の謀略の裏をかいて、以後も海外貿易を続け、

   鎖国中も日本で唯一の自由な窓を、

  海外へ向って開きつづけていた。

  これが明治の日本統一への大きな足場となり、

  原動力になったという事実は、

  沖縄の果した大きな役割りの一つとして、

  忘れてはならないことである。

  しかし泡盛が、焼酎生産に果した役割りとなると、

   問題は別である。

  大槻氏のいうように泡盛製法が薩摩に伝えられたのは、

  その1609年以後のことで、

  しかもそれは成功をもたらさなかった。

  ところがそれより50年以上も前に、

   郡山八幡の棟木札が書かれて、

  すでに鹿児島には焼酎があったことが、

   はっきりと証明されている。

  焼酎の方がはるかに前からあって、

  そのあとで泡盛の製法が伝授されたのである。

  「泡盛は焼酎製造の原型となったものである。」

   と書いたものがあるが、

  それは決してあり得ない想像説であることは、

  その時間的前後関係をみれば、

  はっきりして疑問の余地もない。

  焼酎と泡盛は全く別の酒であったから、

  焼酎のほかに泡盛の製法を求めたのであり、

  泡盛ははるかに遅れて日本にやってきた酒なのである。

  「女性解放の歌」

  ハンヤ節は女性の歌である。

  江戸時代の苛酷な封建社会を経て、

  こんなに明るい女性文化があったのである。

  それはタイ山地、台湾山地、沖縄

  そしてリオにつながる卑弥呼型の女性文化なのだ。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:128」

0 件のコメント:

コメントを投稿