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戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利
戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利
≪戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利≫
白村江を韓国の地名と信じている人がいる。
戦勝国新羅の正史『三国史記新羅本紀』は
百済戦を詳細に記録しているのに、
白村江に似た地名も海戦も倭軍と戦った記録さえもない。
『日本書紀』だけが
「大唐 軍将 率 戦船一百七十艘 陣烈 於 白村江」と、
たった一度書いているだけ。
しかもその前には
この戦船一百七十艘は安曇比邏(アヅミヒラ)夫が
扶余国太子豊璋を百済に送った船団だと書き、
同年、阿部比羅夫が船師一百八十艘で蝦夷国を攻めたと、
斉明天皇紀の最後の部分にわざと離して書いてある。
ア津ミ・アベはアメ、ヒラ夫(オ)は
シラ王(オ)で新羅王=天(アメ)命開(ヒラキ)別=天智天皇の名。
蝦夷は蘇我蝦夷=百済倭国王で、
白村江・百済・蝦夷の国は皆同じ大阪なのだから、
この3船団は本当は敵の日本軍の1船団だけ。
そんな事実はこの大戦直後には、
『日本書紀』編集者も天武天皇も国民も、知り尽くしている。
それをわざわざ3船団のように見せ掛ける努力を
重ねた目的は、簡単に割り出せる。
天武天皇の当時最大の敵は、
彼が倒した天智天皇一族よりも、
巨大な兵力をもつ唐だった。
『日本書紀』はその唐に読ませるのが目的だったから、
本当は敵の新羅=日本軍の船団なのに、
それを自国の船団に見せる記事に仕立て、
百済倭国の首都・大阪の大敗戦も、
朝鮮半島の植民地・扶余国の敗戦にすり替え、
自国の名もわざと日本のまま押し通した。
それが可能だったのは唐軍が
実戦に参加した半島植民地の地名が、
もともと倭国の地名と共通のものが多かった。
それは大量過ぎるので省略するが、
『三国史記』「誌・地理四」を見れば一目瞭然。
唐は、
朝鮮半島の植民地を百済の本国と錯覚していて
『日本書紀』のウソを見抜けなかった。
その「地理四」に半島百済の略史がある。
「至 二十六世 斐王 移都 所夫里 国 号 南扶余
至 三十一世 義慈王」。
この記事は武寧王の息子・斐王が
538年に
洒比(シヒ)
(所夫里はソウルで「都」という意味)に遷都して、
国名を「南扶余」に変えた。
それが最後の王・義慈まで続いたというのだから、
7世紀には半島には事実上「百済」という国は存在しなかった。
それなのに唐は南扶余と百済とを混同し、
新旧の両『唐書』も、
大化・壬申の2大革命ほどの大事件を全然知らない。
前記の百済・蝦夷・白村江などの
国名・地名が同じ大阪地域だと知らず、
天武『日本書紀』の謀略を見抜けない。
唐の役人に見抜けなかったのは当然。
しかしそのお陰で日本は唐の侵略を免れたのだから、
滅びたのは半島の百済だとした
天武天皇の智略が唐に勝ったのである。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会・大学講義録17:21・22頁」
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