2015年9月15日火曜日

十二天曼荼羅


 ≪十二天曼荼羅≫
 
 中国では帝釈天やガルーダ(カローラ・金翅鳥)などは

 『大方広(ほうこう)仏華厳(けごん)経』

 =略称は華厳経または雑華(ざうげ)経の訳にあるが、

 それは5世紀の仏陀跋陀羅(ブッダバラダ)訳が最初で、

 それ以前には知られていない。

  『十二天曼荼羅』は、

 その『華厳経』の中に書かれている

 天部の神名の梵字(ボンじ)の頭文字だけ使って、

 その方位への配置を略図化したものである。

 天部が初めて中国に伝わったのは

 北涼の玄始年間だから5世紀で、

 卑弥呼時代の国名にみる帝釈天は、

 中国経由で入ってきたものではない。

 さらに深く調べるとより重要な貴重なものが、

 『密教』の「曼荼羅」の中に見つかる。

 曼荼羅は弘法大師空海が中国で教わって

 我が国に伝えた平安時代以後のものだが、

 現存する『十二天曼荼羅』は、

 実に不思議なことになっている。

 卑弥呼当時の国名と全く同じに、

 帝釈天と多聞天だけがあるのだ。

   上・梵天  :ボラ

   下・地天  :ヒリ

     日天  :ア

     月天  :シャ

  東 ・帝釈天 :イー

  東南・火天  :ア

  南 ・焔摩天 :エン

  西南・羅刹天 :ニリ

  西 ・水天  :パ

  西北・風天  :パー

  北 ・多聞天 :ペイ

  東北・伊舎那天:イ

  「十二天曼荼羅」

  不動曼荼羅の場合は、五大明王が中央部へ置かれ、

  十二天はそのまま外部の方向へと開き、広がります。

  そして東北に伊舎那(イサナ)天が配置されている。

  天を王(キ)に置き換えるとイサナキの尊だ。

  多聞天は北だから球磨郡の鬼国に合わせると、

  その南の伊舎那天は伊佐郡に合い、

  西の水天は出水郡に合い、

  南の焔摩(ヤマ)天は邪馬国(屋久島)に合う。

  これらは全て南九州の西半、薩摩半島側だけだから、

  その東部は鹿児島市で、

  そこに東の帝釈天(チヂワ)の略「千石」町があって、

  これも一致しているし、

   さらにその東北東に帖佐(ツサ、現在の姶良町)があって、

  これも帝=teiug ティウ=ツ、釈=Shiak シャツ=サと、

  南九州語の法則通りに短縮された発音に一致している。

  そして東南に位置する火天も、その位置には火山の桜島がある。

  これは地域をさらに拡大すれば、

   薩摩半島から見える東南(辰巳)の島、

  種子島も火々出見の尊などの火の名をもつ3兄弟が生まれた島で、 

  火=ホに対して穂・百の当て字も見られる。

  西南の羅刹(ラセツ)天はラ音を発音しない

   南九州語では「セッデン」と発音するから

  加世田の世田が同じ発音をもっていて、

   朝鮮語のカセダは恐るべき勇猛を意味するから、

  羅刹の特徴にもピタリと合う。

  西北の風天は川辺(なベ)町の古殿が

   フーデンでフーテンに合うが、

  ずっと北西にも熊本県の天草町に福連木があって

   フーデン王(ギ)の名残に見える。

  この地名を北への移動の跡だとすれば、

   南の沖縄にも、

  この風天=フーテン国(マ)の名によく合う普天間(ふてんま)がある。

 曼荼羅というのは観世音菩薩や薬師如来などを信仰して、

 病気を治し、健康を祈り、災厄を避け、子供を授かり、

  一家が繁栄し、死後の安楽を願うために、

 難解な仏教哲学でなく、

 眼で見て誰にでも理解できるように、

 宇宙の構造を図解し、

 それが仏や菩薩によって

 構成され、支配され、守護されているのだと教える、

 一種の「絵解き」教材である。

 我が国では、それは真言密教だけの表現法であって、

 密教が伝わった9世紀より前には、

 図や像としては存在するはずがないとされてきたものである。

 この十二天曼荼羅と卑弥呼政権の国名配置や、

 伊声耆の名乗りその他と完全に符合する事実を考慮すると

 根本的に検討し直す必要がある。

 なぜなら過去の常識は、

 我が国への仏教公伝は、

 百済王・阿直支(アチキ)と王仁による

 応神天皇時代、

 または百済聖王による538年だと信じて疑った者がなく、

 神話の天照大神が仏教徒であったなどとは、

 考えもしなかったからである。

 だが今、

 私たちは、

 その天照大神の父・イサナキの尊の名乗りと同じもの

 現実に仏教の曼荼羅に伊舎那天として実在し、

 現実に伊声耆として卑弥呼政権を支え、

 魏の都・落陽へ使節として行って、

 率善中郎将の官位と印綬を受けた史実を確認している。

 この曼荼羅そのものの伝来ではないが、

 真の仏教公伝は

 卑弥呼以前だということはもう疑いの余地はない。

 しかしこの『十二天曼荼羅』の二図は、

 理明房興然(りみょうぼうこうねん)が集めた

 『諸尊曼荼羅集三巻』の中にあるもので、

 文章に簡単な略図をそえただけのものだったが、

 弟子の光宝大僧頭(だいそうづ)が

 その略図に油紙を重ねて幾つかの図像を詳しく描き、

 さらに定真(じょうじん)がそれを補って

 天福元年(1233年)に完成したもので、

 今は隆聖がそれを写した複製本が

 京都の東寺にあるだけである。

 なぜ?、

 日本では弘法大師空海以後につくられた曼荼羅に、 

 卑弥呼当時の知識がそのまま残ったのであろう?。

 空海は804年に入唐して慧果に法灯を譲られ、

 806年に帰朝している。

 13世紀の天福よりは早いが、

 卑弥呼からは6世紀が経過している。

 これは我が国に伝わっていたものと考えるよりも、

 インドに古くあったものが卑弥呼らの『鬼道』になり、

 それとは全く無関係に別ルートで伝わったものが

 『十二天曼荼羅』として表現されたが、

 いま私たちが見ると

 それが同一のものだったことが明瞭になった、

 ということ以外にはない。

 これで卑弥呼の仏教が、

 のちの真言密教にいちばん近いものだったことがわかった。

 それが観世音菩薩を信仰するのはなぜか、

 これでほぼ答が出た。

 そればかりではない。

 弘法大師は唐で師の慧果との会話に不自由せず、

 永年慧果に師事した兄弟子の唐僧らをさておいて、

 法灯を譲られて日本に持ち帰った。

 それがなぜだったか、

 その謎もこれで解けるのである。

  ※出展:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録:7~10頁」

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