2015年9月13日日曜日

国際通貨「宝貝」


 ≪国際通貨「宝貝」≫

 インドからの移住者があったことは確かだといっても、

 現代の航空路のように、

 インドから一直線に日本へ、

 やってきたと考えるのは早計である。

 活路を求めて故郷を離れたものばかりでもない。

 戦乱に遇って亡命する者もあれば、

 現在の華僑のように、

 世界に網を張った交易拠点に就職して赴任するものもある。

 さらにより深く人間生活の実態を考えると、

 古代の東洋経済に不可欠の機能を果たした

 「国際通貨」があったことを忘れてはならない。

 それは宝貝である。

 南海産の貝殻が財宝として扱われたのは、

 それが通貨として役立ったからで、

 紙きれにすぎない紙幣がいま、

 尊ばれるのと同じである。

 宝貝は印欧語でコウレーと呼ばれる。

 日本で高の字をコウと音読するほかに、

 タカと訓読することは、

 コウレイに高麗の当て字をしたことに原因がある。

 コウレイ=タカラから

 高麗はタカラとも読まれることになった。

 そして価値の高さ、地位の高さ、山の高度などが、

 いずれもタカいと表現されることになったのである。

 日本の黒潮圏には宝貝科のうち貨幣に使われた数種を産する。

 特に沖縄には多産する。

 また宝貝は美味であるから、

 貝塚から大量の宝貝の穀が出ていいはずだが、

 沖縄の貝塚からは宝貝は出ない。

 このことは宝貝が食用にされずに、

 輸出されたことをはっきりと立証している。

 黒潮の流れに乗ってインドから

 宝貝を追ってやってきた通貨供給者たち、

 その拠点が次第に北上し、

 やがて日本本土に及んだことも疑いない。

 日本列島だけでなく、

 のちには朝鮮半島が高麗と呼ばれたことからみて、

 この人々がさらに発展北上していたことも間違いない。

 弥生人の風俗を保っているカレン人の生活は、

 当時の生活を知る上の貴重な文化財である。

 カレンの歴史を詳しく語り伝える語り部の酋長は、

 その祖先はバビロン人で、

 その滅亡と共に大移動を続け、

 日本、朝鮮、旧満州に広く居住していた記録をもつ。

 事実カレン語は日本語と同系で、

 高句麗語とも、アイヌ語とも深い結びつきをもっている。

 こうみてくると高麗(こうらい)人を意味する

 コーレアン(KOREAN)という綴りはそのままで

 カリエンとも読める。

 タイ、ビルマの人々はカレンとはいわず

 カリエンと永く呼んできたのである。

 さらに彼らは卑弥呼を想わせる

 女性家長制を守り続けて今も酋長は老女である。

 そこでみていただいた通り高麗人とカレン人とは、

 その名も同じだったのである。

 カレンはコーレアンすなわちインド語の宝貝人が

 元になって生まれた民族名であり、

 13世紀の沖縄には、

 まだ海上に出て活躍する貫頭衣の彼らの姿が見られた。

 彼らは採集して加工し、

 通貨になったものを、

 中国へ東南アジアヘと輸送する。

 もどりにはその土地の物資を仕入れて船腹を満たす。

 もちろんコーレイの名を生んだインド、

 ことに南海のスリランカとの交流もあり、

 カツオ節やコンニャクを運んだり、

 山鉾の神事を伝えたのも、

 彼らと彼らの交易相手であるインドの人々である。

 インド南東部オリッサ州の山鉾巡行風景。

 高くヤグラを組み、ホロをかけ、

 屋上に柱を立てて縁起物を結び、

 高い舞台で祇園バヤシを演奏しながら、

 大勢の町衆が引きまわす。

 その巨大な車輪や舞台の手すりなど、

 日本人に親しみ深い形のものが多い。

 神事の手順や日程、お旅所があることなど、

 まさに日本の祭りそのものである。

 インドの山鉾はプーリーのものであった。

 沖縄ではフーリーという祭りをし、

 日本各地でも祭りの芸能を″風流″の当て字で呼ぶ。

 これをブリューと発音するところもあるが、

 すべてプーリーの名の名残をとどめていて、

 そのルーツがどこであったかを証言している。

 山鉾がどういうコースで日本にやってきたかが、

 その運び手と共に、はっきりわかったのである。

  ※出典:加治木義博
     「日本人のルーツ・保育社(カラーブックス):122・123頁」

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