2015年9月7日月曜日

和人が造った三角縁神獣鏡(3)


 ≪和人が造った三角縁神獣鏡(3) ≫
 
  「三角縁神獣鏡は方位測定器」

  三角縁神獣鏡を観察すると、

 それは一応「完成されたもの」である。

 それに移行した「祖形」はどこか未完成の部分のある、

 より原始的なものである。

 どんなものでも最初から完全な姿はしていない。

 その発達する前の段階のものが、

 日本以外のどこかにあるのである。

 その先行する鏡が、どこにあるかで、それがまず、

 どこから日本列島にやってきたかという経路がわかる。

 それを起点にしてさぐれば、本当の生産地が見つかる。

 そんな「三角縁神獣鏡の祖形の鏡」がどこにあるか?

 まずそれから検討にかかることにしよう。

 この鏡の祖形を考える上で最も重要な間鹿は、

 「平縁」の「景初三年鏡」が表現している

 魏の漢人政府の思想や機能を示す図柄と、

 「三角緑神獣鏡」のもつ図柄とに、

 大きな相違点があることである。

 景初三年鏡はほとんど無意味な、

 装飾的で細かい幻想的怪物の絵が、

 境界なく画面全体をぎつしり埋めているので、

 全然、方位を示す役には立たない。

 これに対し「三角縁神獣鏡」のほうは、

 ハッキリ四方に境界をつけているし、

 くつきりした「東王父と西王母」だとすぐわかる

 「大きな像」が四方を指している。

 もちろん図柄は製作者によって変わり、

 同じ神と獣が二度ずつ彫ってあったり、

 東王父と西王母が一緒にならんでいるものが

 四方に描かれたものなどもあるが、

 すべてが四方にはっきり区画されていて、

 方位を知ることに役立つことに変わりはない。

 だからはっきり「方位鏡」だとわかる。

 これにはさらに写真の、

 私(加治木義博)が所蔵している「方位鏡」がなによりも有力に、

 「神獣鏡」の用途が「方角を測る器具」だったと証明している。

 (詳細は「邪馬臺国の言葉』参照)

 三角縁神獣鏡は中央に「スメラ山」をおいた立体マンダラ

 このことは「平縁」の魏の景初三年鏡は単なる

 「お守り」程度のものに過ぎないのに対し、

  三角縁神獣鏡のほうは、

 はっきり「方角を測る器具」という機能をもっており、

 両者には根本的な文化の差があるということである。

 この差を考えてみると、

 固定した国土と、固定した都をもっていて、

 安定と幻想の中で夢をみて暮らしている漢人の魏の宮廷と、

 常に移動と取引と侵入と逃亡といった生活を余儀なくされ、

 勝敗の明け暮れを日常の生活として繰り返していた和人の集団との、

 世界観の違い、境遇の違い、目的の違いが現れているのである。

 しかしこれは3~4世紀だけの比較であって、

  鏡は古代の東周(とうしゅう)(紀元前770年~)時代

 に造られ始めたときから化粧道具ではなく、

 方位を知り通信をするための器具であったが、

 春秋戦国時代には、戦闘に欠かせない兵器になった。

 方位を示す指針はいっそう鮮明に、

 円周は次第に細かく分割されて精密に方向を指し、

 日時計としても正確な時を表示するものが現れた。

 「尚方(しょうほう)」とは「方角を貴ぶ」ということなのだ。

 しかし前漢、後漢の太平が続くと、

 それは兵器としての需要を失って、

 ただの化粧道具兼「お守り」として売買されたのである。

 そのため鏡は信仰対象に合わせて造られた。

 「東王父と西王母」は

 ビシューヌとシュリー夫妻の中国式表現であった。

 その製作者はもちろん顧客もともに、

 本質的にシンドゥ教徒=のちの道教徒だったのである。

 それがわかると鏡全体が「立体マンダラ」であることがわかる。

 中央に一番高い部分「スメラ山」があり、
 
 それを取りまいて四方のディパ(大地=国)がある。

 そして大海がそれを取り巻いて、

 その回りに鉄囲山(てついせん)がぐるりと聳(そび)えている。

 これで三角縁神獣鏡はなぜ縁が三角なのかがわかる。

 それは山だからである。

 ぐるりと世界を取り巻く連山、

 それが三角縁でなければならない理由だったのだ。

 この鏡の祖形は、先に申しあげた「方位鏡」である。

 それは古代から伝わったもので鉄製である。

 鹿児島にあったのだから鹿児島製かと考えて、

 多数の古鏡を神宝として伝えていることの多い

 鹿児島県下の神社を広く調査してみたが見つからなかった。

  ※出典:加治木義博
     「WAJIN・KKロングセラーズ:214~217頁」

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