2015年9月30日水曜日

レバノン杉と屋久杉


 ≪レバノン杉と屋久杉≫
 
  ≪スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証≫

  フェニキヤ人は、

  そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、

  その新しい移動手段を活用して、

  さらに新しい交易を考案実行し、
  
   富を築き国土を拡大して栄えた。

  その基礎になったのは、

  船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、

  加工し増殖する学術を発展させたことで、

  それが彼等の文化の著しい特徴である。
 
  『日本書紀』にはスサノオの尊が、
 
  子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、

  髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、

  それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、

  尊の皇子・五十猛の神と共に、

  樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。

  『旧約聖書』のエゼキエル書に

  「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、

   セニルの樅で汝の船板を造り、

   バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、

   キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」

  と書いてあり、
 
  フェニキヤ人以後、
 
  こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、

  今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、

  フェニキヤ人はまさに文字通りの
 
  「船木屋」だったことを証言している。

  スサは、そのイラン植民地の大都市であり、

  そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、

  当時世界唯一のフェニキヤ文明が我が国に入って

  造船や植林産業を起こし、

  そのための必須教養として植物学知識が、
 
  説話様式による古代教育に

  新たに加えられた史実の『証拠』なのである。

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:16頁


 ≪スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実≫

 言語以外の証拠はまだある。

 それはスサノオ父子の

 「樹種(こだね)」の子孫である。

 『日本書紀』にある一書には

 「五十猛命が天降った時、

  多くの樹種をもって下ったが、

  韓地には植えず、

  ことごとく持ち帰り、

  筑紫から大八洲中に

  播かない所はなく青山にした」とあり、

  その次の一書に、

  前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、

  杉と楠は船に…、
 
  檜は家屋に…、

  槇(まき)は死者を葬る棺材にせよ。

  と命が言う。

  この杉と楠と檜と槇は

  今も我が国に現存しているが、

  全て列島古来の野生種ではなく、

  外部から持ち込まれた輸入品を

  栽培し続けていることが判っている。

  『日本書紀』のこの記事が

  真実だという生きた物証なのである。

  それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、

  大量に残っている。
  
  それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。

  宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、

  その樹齢3000年を超えると測定された古木で、

  ここ以外にそんな樹齢の杉はない。

  1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、

  それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、

  この島の杉がスサノオらが

  最初に植林した遺跡だということは間違いない。

  このスサノオの話は神話ではなく史実だったのである。

  その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、

  杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。

  それはフェニキヤ文明の到来が

  3000年以上前であったことを、

  今も立証し続けている動かぬ証拠である。

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:19頁


  ≪移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉≫

  今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、
 
  『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、

  3000年以上前にスサから来た王が

  植えたものだったことを疑わせない。

  在来、疑わしい神話の、

  疑わしい架空の「神」とされて来た

  スサノオが、実際には実在していて、

  その伝承通りの植樹をし、

  その木が今も生きているからである。

  ところが垂仁天皇も、
 
  皇子のホムツワケも、

  他のスサノオ伝承に一致する点がある。

  彼等は3世紀の実在者と確認できているから、

  スサノオは一人ではなく、

  「スサの王」という名乗りだったと確定できる。

  それを一柱の神と錯覚し、似た話の分布を理由に、

  それは物語が運ばれてきたのだと史実を

  抹殺し続けてきた「神話学」は、

  根底から再検討されなければならないが、

  それにも増して重要なことは、

  スサノオ植樹が史実だという確認は、

  屋久杉が外来植物だという確認であり、

  原産地はどこかが問題になる。

  屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、

  運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。

  とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。

  それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。

  屋久杉はレバノン杉そのものだったのである。

  『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、

  今でも屋久島で見られるのである。

  縄文杉:ウイルソン株の推定樹齢は三千余年。
      根回り32m、直径13m。

  縄文杉
  縄文杉

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:20~22頁


  ≪より高い海人文化だった我が国の古代文化≫

  こうしたウバイド、フェニキヤ、ギリシャなどの

  西方文化の渡来は、

  在来はすぐシルク・ロードによるものと即断されがちであった。

  しかしシルク・ロードの物資は、

  すべてが陸上運輸であって、海運によるものではない。

  その時代も、正倉院御物が証明するように、

  倭国が日本と改称した時代に、

  中国に唐という大消費者国が生まれたからであって、

  フェニキヤの海上貿易時代とは

  2000年ちかくの差があるのである。

  そしてさらにスサの王の目的は海上交通にあって、

  ラクダで砂漠を越えて荷を運ぶことではなかった。

  屋久杉たちは海上を運ばれて釆たのであって、

  乾操で苗がすぐ枯れてしまう砂漠を通って、

  のろのろと運ばれて来たものでは絶対にない。

  我が国の古代文化はより高い海人文化だったのだ。

  乗り物の発達が経済に大きくプラスすることは

  20世紀が証人である。

  そのため排気ガスによる地球壊滅が近付いても、
  
   車を野放しで造り続けているのである。

  太古の船は

  まさに自動車や航空機以上の経済と武力の

  格差を生んだのである。

  それに次いだのが馬やラクダだった。

  それは12世紀のモンゴルによる

  欧州席巻を見れば瞭熱である。

  正倉院御物中にも海上を運ばれてきたものが当然ある。

  展示物を全てラクダで運んだような錯覚を与える

  「シルク・ロード文明展」といった名称は、

  史実を歪める粗雑な表現である。

  「フェニキヤ軍艦」紀元前七百年の頃。二段櫂式。

  どう云うものか一段櫂式は最初から使われていなかった。
 
  フェニキヤ軍艦
  フェニキヤ軍艦

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:29頁



  ≪私達とスメル周辺古代名詞群の関連≫

    語源     日本語化   日本語名  要点
   
  A メソポタミヤ メスボツミヤ 雌母津宮 母系女帝国 

  B メソポ    ミズホ    瑞穂   沖縄発音化
      
  C タミヤ    タミヤ    田宮=民+ia民国(ヤ) ギリシャ語

  D タミヤ    デンク    デンク⇒テング    天狗 漢音

   メソポタミヤ  ミズホタミヤ 瑞穂田宮       瑞穂田の国

  E スサ     ソセ + ン  祖先         本土発音化

  F スサの王   スサ      杉挿之王       屋久杉の王

  G エラム    エラブ     永良部諸島       大隅発音化

  H フジスタン  フジサン    富士山          

  I スタン     スァン       サン           山

  J        フネザン    富子山  船山    海路標識山

  K ボセイドン  ホセイヅン   百済出水・出雲    大隅発音化

          フジイズン              海神の王

  ※出典:加治木義博・大学院講義録37:4頁

 
  ≪解けた「宿祢とは何か?」という謎≫

  このことで、

  もう一つ国史の中で大きな位置を占めている「宿祢」とは、

  どんな意味をもっ名詞かという謎が解けた。
 
  武内宿弥はスサノオで、

  屋久島に初めて杉を植えた人物、

  王であったことは間違いないから、

  古代皇族の名乗りにたくさん見られる

  「足」や「根」の称号で呼ばれても不思議ではない。

  「祢」は、その「根」とみて間違いない。

  では「宿」は何のことか?。

  鹿児島語では杉は「スッ」である。

  そして宿もまた「スッ」である。

  指宿は「イブスッ」と聞こえる。

  「宿祢」も、「杉根」も、

  どちらも「スッネ」である。

  ただ杉根は、

  「杉の木の根っこ」ではなくて、

  「杉の王」を意味していたのである。

  こう解ってみると

  スサノオ=猿田彦=大人弥五郎=武内宿祢の関係は、

  同一とみて微動だもしない。
 
  それはもちろん名乗りの上だけのことで、

  屋久島にレバノン杉を植えたスサノオと、

  壱与=神功皇后を助けた武内宿弥は時代が千年も違い、

  別人であることはいうまでもない。
 
  宿祢と同じものに「足尼」がある。

  こちらはソクニだから大隅人だとソクはスッになる。

  ニもネの大隅語。

  これはスッネという発音を聞いて、

  大隅人が当て字をつけたものということになる。
 
  さらに南九州では

  スッネは「少ない」でもあるから
 
  少名彦名の命でもある。
 
  ※出典:加治木義博・大学院講義録36:22頁

  ≪新教材「勝山古墳出土の木片」≫

  大学講義録31の発送準備が終わった後に、

  奈良の勝山古墳出土の木板に、

  紀元199年の特徴をもつ年輪があり、

  その外側にあったが削られてなくなっている部分も

  最大12年分だから、

  紀元180年から紀元190年にかけて伐採されたもので、

  勝山古墳は我が国最古の前方後円墳である可能性があると、

  例によって関西では特に大きく報道された。

  事前に関係者から情報を受けていたので、

  各紙をとって報道ぶりを比較してみたが、

  愛講者の皆様からも

  お住まい地域の報道状況をお知らせ戴いたので、

  ご関心にお答えしてご好意のお礼に代えたい。

  それが邪馬台国と結びつけられているので、

  「まだヤマタイコクなんて…」と笑ってしまわずに、

  この木片を教材として役立ててみよう。

  ご存じのことだが念のため

  『年輪考古学』を要約すると、

  太陽黒点の盛衰周期などの影響で

  地球気温は年ごとに変動するから、

  樹木の成長は一定していない。

  その年の気温差が年輪の大小になって『記録』されている。

  この記録は屋久杉(ヤクスギ)の切り株など

  1000年を超える樹齢のものの研究で、

  何年は高温で、

  何年は低温だったと判明しているから、

  寒暖に影響され易い樹木なら、

  その年輪の特徴を標準木の年齢と比較すれは、

  その木がいっ切られたか断定できる。

  今回の木板はヒノキで、

  スギに近い針葉樹だから、
 
  比較さえ精密なら、

  その年代は充分信頼できる。

  ※出典:加治木義博・大学講義録32:3頁


  ≪大隅は古代日本の中央で皇居のある首都圏≫

  でも、役人というのは、政府の役人のことで、
 
  たかが神社のお賓銭集めなどの名だとは思えない、
 
  コジつけだとお思いの方があるかもしれない。

  だが八幡様は今、言ったように
 
  応神天皇の「宮城」であり、「政府」だったのである。

  そこに働く職員が、役人の始まりだったのは、

  当然のことなのである。

  4世紀の応神天皇時代に、

  役人という代名詞が

  存在していたということの方が驚きである。

  大隅は、

  日本の「最涯ではなく」

  「中央で皇居のある首都」だった。

  それは頼朝の時代には、

  現代よりさらに強く意識し崇敬されていた地域だった。

  だからこそ頼朝は、

  愛する忠久にその土地を委ねたのである。

  これが理解できれば、八幡領の広大さは不思議ではなく、

  また武力で我が国の支配権を手にした頼朝が、

  天皇の落胤で自分の子である忠久を、

  当時の我が国南端の最涯の地に、

  なぜ送り込んだのか、その理由が明瞭にわかる。

  それでこそ嶋津氏とは何だったか?

  嶋津之庄とは何だったか?

  が、本当に理解できたのである。

  縄文時代にスサの王が移植した屋久杉について、
 
  念のためにつけ加えると、

  邪馬国は上屋久町で屋久島北部。
 
  狗奴国=久の国は南部の屋久町で、

  屋久杉は超古代のスサ

 (今はイランの都市)の王スサノオが、

  はるばる船で運んで来て植えたレバノン杉である。
 
  『日本書紀』には、

  八岐大蛇退治の後の「一書」に

  「浮き宝がないのはいけない」と言って、

  杉と楠とを植えた、と書いてある。

  その移植の時代は、
 
  古代シリヤにあった

  フェニキヤ=船木国(きや)が大船を使って、
 
  造船用のレバノン杉を世界に運んで売り歩くのを主体に、

  貿易で栄えていた時代である。

  だからスサノオノミコトという神名は、

  「スサの王」という名乗りで、

  決して個人名ではなく肩書きである。
 
  その証拠にはるか後世の『新漢書』にも

  「帥升・スイサヌウ」と名乗る倭の国王が、

  漢の都に来たと記録されている。

  ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
      『言語復原史学会:加治木義博』
       KKロングセラーズ・162~163頁

2015年9月27日日曜日

鹿児島ハンヤ節


 ≪鹿児島ハンヤ節≫


 「リオのカーニバル」

  鹿児島ハンヤ節は移民とともにブラジルへ行き、

  サンバやマンボを生み、

  世界的に有名なリオのカーニバルを生み出した。
             
  「タイ山地アカ族の歌垣(かがい)」

  グエバ・アカ族(本文参照)の歌垣は

  風土記や万葉集に登場する日本の歌垣とまったく同じもの。

  ただ衣装は部族ごとに異なる。

  「写真」

  上:南米の夜に酔いしれる

  下:生きていた万葉弥生時代

   ※出典:加治木義博・言語復原史学会
            「㈱保育社『焼酎入門』:87」
 
 数々の共通文化をもつにもかかわらず、

 アカ語は日本語の先祖ではない。

  一例をあげると

  「ノー(行く)アガ(何処)エー(え?)」

  「ジバ(焼酎)ドウム(飲む)ユー(に行く)」

  「ヨームー(良いな)」となる。

  「エー」と「え?」、

  「ユー」と「ゆく」、

  「ヨー」と「よい」といった同音がありながら、

  また「焼酎、飲む、に行く」と語順の一致もありながら、

 よく見ると、

 最初の疑問文は「行く、何処、え?」と独特の文法をもっている。

 また基礎語の一致も少ないので、

 たしかに我々と共通の祖先をもってはいるが、

 別れた時代ははるかに古く、

 約二千年前とは考えられない。

 アカ語は親族語ではあっても租語とはいえないのである。

 日本列島へ焼酎をもちこんだ人々は

 アカ族以外に求めなければならない。

 それがどういう民族であったかは

 言語学的には見当がついている。

 それはやはり

 タイ国で少数民族として扱われているカレン族で、

 ビルマには州を形成するほどの犬族である。

 しかし言語学の成果をお話しするのには本書は不適当である。

 ここでは焼酎のルーツをついに彼方に望み見る。

 というところでお話を終わることにする。

  「リズムの渡来」

  リス族の楽曲は沖縄のものに近似しているが、

  沖縄のリズムは真っ直ぐ鹿児島に上陸している。

  鹿児島ハンヤ節はテンポの速さで異色の民謡であるが、

  原型は沖縄を経由してタイ奥地につながる。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:122」


  この点、『大言海』や『広辞苑』になると、

  はっきりポルトガル語であるとしているのは、

  さすがであるが、

  わざわざAlambique(アランビケ)を語源としてしまい、

  本当の直接語源を記録している

  『日葡辞書』を知らないのは惜しい。

  いかに高名な学者であっても、

  こうした手落ちはある。

  文献によって歴史の真相を探るためには、

  徹底した探求が必要であることを

   よく心にとめておいていただきたい。

  『日葡辞書』はこのほかに、

  もっと重大なことを教えてくれる。

  それは蘭引が

   日本で蒸溜器の名として使われるようになる以前に

  「焼酎甑」というものが既に存在していたという事実である。

  「リオの謝肉祭(カーニバル)」

  ハンヤ節は移民の手でブラジルに伝えられ、
  
  サンバやマンボの軽快なリズム生み出した。

  世界的になったリオのカーニバルのあの陽気な祭りは、

  キリストとは無縁の焼酎文化なのだ。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:124」


  蘭引と焼酎の起源を結びつけることは

   根本から間違っているのである。

  それ以前に日本列島に古い時代から焼酎があり、

  更にポルトガル人の来航で

   別系統の蒸溜器である蘭引がはいって来た。

  ところが江戸時代のもの知りが、

  何でもかでも蒸溜器を

   蘭引とハイカラぶって呼んだために、

  この二系統の区別がわからなくなって、

   焼酎そのものが、

  室町時代前後からのもののように

   感ちがいされてしまうことになった。

  いつの世にも居る一知半解の大先生のおかげで、

  ここでも歴史の真相は、ひっかきまわされて、

  でたらめな泥土の下に、

   だんだん深く埋め隠されてしまったのである。

  このことは、焼酎の生産が現代に至るまで、

  九州ことに中、南部にかたよっていたことにも原因がある。
  
  ルイ=アルメイダらによって西欧医術が伝えられ、

  アルコールが消毒薬として使われるようになったために、

  薬用の焼酎(今の分類ではスピリッツ)が

   全国的に造られるようになったが、

  ポルトガル主導型であったために、

   蒸溜器もランピケと呼ばれた。

  蘭引は厳密にいえば製薬器具ではあっても、

   製酒器具ではなかった。

  焼酎はだから元禄時代になっても

   薩摩の阿久根港から、煙草と一緒に移出されて、

  大阪や神戸に荷揚げされる

   ”薩摩の国という外国”からの舶来商品として

  記録に残っているのである。
  
  「ハンヤ節」

  原型のハンヤ節がどれほど開放的か歌詞をみてほしい。

  〆はんやえー、

  大尻(うじい)振い振い三十まじゃ踊え、

  三十越ゆぇば子が踊っ。

  (はやし言葉)

  「今来た青年好(にせどんよ)か青年(にせどん)。

  相談(そだん)かけたら駆落(はつち)こそな青年(にせどん)。」

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:126」


   島津藩が琉球を支配した時というのは、

   慶長一四年(1609)のことである。

  この年、徳川家康は、

   西国大名の海外交易を止めて財政的に弱体化させようと、

  五百石積み以上の大船を没収したが、

   事前にそれを察知した島津藩は、

  先手をうって琉球を服属させ、

   しかも併合はせずに、あくまで外国として扱い、

  家康の謀略の裏をかいて、以後も海外貿易を続け、

   鎖国中も日本で唯一の自由な窓を、

  海外へ向って開きつづけていた。

  これが明治の日本統一への大きな足場となり、

  原動力になったという事実は、

  沖縄の果した大きな役割りの一つとして、

  忘れてはならないことである。

  しかし泡盛が、焼酎生産に果した役割りとなると、

   問題は別である。

  大槻氏のいうように泡盛製法が薩摩に伝えられたのは、

  その1609年以後のことで、

  しかもそれは成功をもたらさなかった。

  ところがそれより50年以上も前に、

   郡山八幡の棟木札が書かれて、

  すでに鹿児島には焼酎があったことが、

   はっきりと証明されている。

  焼酎の方がはるかに前からあって、

  そのあとで泡盛の製法が伝授されたのである。

  「泡盛は焼酎製造の原型となったものである。」

   と書いたものがあるが、

  それは決してあり得ない想像説であることは、

  その時間的前後関係をみれば、

  はっきりして疑問の余地もない。

  焼酎と泡盛は全く別の酒であったから、

  焼酎のほかに泡盛の製法を求めたのであり、

  泡盛ははるかに遅れて日本にやってきた酒なのである。

  「女性解放の歌」

  ハンヤ節は女性の歌である。

  江戸時代の苛酷な封建社会を経て、

  こんなに明るい女性文化があったのである。

  それはタイ山地、台湾山地、沖縄

  そしてリオにつながる卑弥呼型の女性文化なのだ。

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「㈱保育社『焼酎入門』:128」

2015年9月23日水曜日

官僚(科挙)制度


 ≪官僚(科挙)制度≫

  「諸悪の根源は時代遅れの『科挙制度』」

  これは明治政権が、徳川政権の圧制手法を一掃せず、

  かえって輪をかけた悪政手法を採用したことに原因がある。

  もちろん西欧との極端な文化の差、

  ことに科学文明の遅れからくる国防力の貧困は、

  国が滅ぶ可能性のある瀬戸際にあった。

  とにかく先進国の侵略だけは防(ふせ)がなくてはならない。

  これが至上命令で、

  他のことをかえりみる余裕(よゆう)はなかったのである。

  そこで徳川政権が採用して、

  とにもかくにも300年、

  政権を維持できた方式である階級制度を継承して、

  天皇を絶対君主とする弾圧国家を作り、

  その支柱として利用したのが

  孔子(コウシ)の儒教(じゅきょう)だった。

  その

  「3尺さがって師の影を踏まず」というのが、

  教育者に利用され、

  教師は、どんなに薄ノロでも、

  「先生」という敬称で崇(あが)め奉られることになった。

  また教師がどんなに間違ったことを教えても、

  そのまま記憶して答案を書けば満点で卒業できたのである。

  このシステムは全ての職業にも採用され、

  国家が用意した定義だけが「善」で、

  それに反するものが「悪」とされ、

  国家のきめた定義を唯々諾々(いいだくだく)と

  守る男だけが採用されて官僚になった。

  教師たちももちろん官僚の一員である。

  これは徳川政権の発明ではない。

  孔子の登場で明瞭なように中国の

  『科挙(かきょ)制度』の物真似で、

  これが後に我が国が太平洋戦争に引摺りこまれて、

  せっかくの大日本帝国を亡ぼした

  諸悪の根源になったのである。


  「当然の結末、鎖国経済大国日本の末路」

  『科挙』は中国の唐代に制定されて

  清(シン)朝まで続いた文官登用試験の名で、

  パスすると官職につくことができる。

  ところが、

  試験官がその制度を悪用して賄賂(わいろ)を要求し、

  受験者もまた賄賂で地位を買うのは、

  資産を作り家を栄えさせ、

  家名を高めるための当然の行為で、

  受験という苦行の一部分ぐらいに思っていて、

  採用されて官職を得ると今度はその権力で国民を苦しめて、

  賄賂を搾(しぼ)り取り資産を没収して、

  贅沢を尽くすのが出世だと思っていた。

  これは心ある人なら許せない悪人だとお思いになると思うが、

  日本では現在でも、大学を受験するのは、

  官吏になり、高給社員になるためだというのが常識である。

  その官僚は今も実に多くの

  「許認可」権を握って「武器」に使っている。

  国民や企業が税以外にその許認可を得るために、

  どれだけ苦労し出費を強いられてきたか、

  男性社会では常識である。

  それが我が国の発明や企業の誕生を遅らせ、

  抹殺して日の目を見ずに、

  産業の発展を大きく阻害し、

  製品価格を吊り上げ、

  今みるような世界一の高物価国にしてしまったのである。

  もうすでに突入している国境のない経済社会時代には、

  在来のようなとんでもなく高価な

  「国内独占価格」では商品は売れず、

  国内価格による利益でカバーしてきた

  国外ダンピングも不可能になり、

  経済鎖国時代に生まれた巨大産業の終末期が

   すでに来ている。

 ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録2・4~5頁


  「人類進化論」………地震よりはるかに恐ろしい大崩壊

  「子曰く」というような儒教型教育を

  学問だと思っていたのは紀元前の思考力、

  古代には「学ぶ」とは「真似る」ことであったが、

  それでは学問は人類の進歩についていけない。

  『学者』とは発明・発見能力を備えて、

  常に実行し業績を挙げている人をいう。
  
  ただ知識を切り売りして教えるだけの

  保守的なものは単なる「教員」に過ぎない。

  この二つを混同して区別できなかった過去の野蛮な状態が、

  世界中でどんどん崩壊し解消されつつある。

  日本の大学→官僚制度は

  中国の古臭い

  「科挙制度」模倣に過ぎないから時代遅れな

  「受験制度」はもう長続きはしない。

  またその制度が生む能力では

  「人真似産業」などの無能な企業弱者しかつくれず、

  21世紀初頭には維持できずに全滅して、

  代って世界に先駆けて新しいものを発見発明し創造できる

  「先進能力者」だけが生存できる新時代に入る。

  その「前触れ」がすでに世界的に始まっている。

  すでに金融界が崩壊を始めているがそれは

   バブル崩壊のせいではない。

  人類全体が古いものから脱皮して

  新しい知性をもち始めてきた現れである。
  
  それは無能な企業、金融界、政界、行政、法律、警察、

  既成宗教、学界、社会モラルの欠陥に

  気づいてそれに我慢できなくなり、

  古臭い商品に愛想を尽かし始めた進歩した新人類が、

  積極的に

  「善悪」の基準を改め、

  新しいものを求め始めたせいなのであって、

  すべて当然訪れることが決定済みの

  人類進化の必然的な過程に過ぎない。

   ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
             1995.10.29 レジメ


  「日本を取り巻く暗黒の過去と未来」

  人類は今、キリスト教、イスラム教、シンドゥ教などの

  信徒に分かれて対立し、

  互いに白眼視し合って、

  宗教が世界を分裂させかねない様相を呈している。

  一つ間違えば巨大な宗教戦争が起こって、

  たちまち世界戦争に拡大する恐れがある。

  信仰の違いがこれほどまに鋭く対立し始めているのは、

  私たち日本人にとっても他人ごとではない。

  私たちの生命線を握っている

   平和なグローバル民主政治と経済を、

  無残に破壊する現実は無視できない。

  だがそれだけではない。

  なぜなら、それらの巨大宗教は、

   その内容も歴史も一応、

  常識化していて、

  他の信者でも相手の宗教が

   どんなものか互いに知っている。

  だが日本の神道は、日本人自身でさえ、

   その真実をよく知らない。

  すべての日本人が尋ねられても返答に困る。

  しかも前記のように明治以後

  「日本だけが神州だ。

     日本の神だけが本当の神だ」と称して、

  侵略戦争を続け、

  世界の人々に大変な恐怖と犠牲を払わせた

   極悪の前科をもっている。

  そのために戦後、世界は日独伊を監視し、

  連合国の団結をはかるために

  『国際連邦政府』を作って運営してきた。

  だが戦後の日本官僚と歴代政権は、

  この事実を国民に知らせまいと、

  その名を「国際連合」と、

  わざと誤訳し省略して、

  それが日本人を敵として厳しく区別対する

  「旧連合国による連邦政府」であることを隠して、

  国民をいつわり続けてきた。

  ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
            大学院講義録13・10頁


  執筆の前に熟考する必要がある『企画』

  都市の大書店に行くと体験できるが、

  雑誌売り場は通るのに困る程の混雑だが、

  歴史書の専門書コーナーには人影がない。

  歴史書は売れないという印象をうけるが、

   それは錯覚だ。

  なぜなら、

   一般書の中にも歴史を題材にした本が大量にあり、

  そこでは立ち読みして買っていく人が大勢いるからである。

  同じ歴史書なのになぜ?こんなに違うのか?。

  それはそこで立ち読みをしてみるとわかる。

  一般書のほうは少なくとも読者層を考えて、

  それに合わせて興味本位に書いてあるが、

  専門書のはうは旧態依然とした権成主義で、

  「○○博士によれば…何々である…」式に、

  要点を羅列し、意見を述べただけのものが多い。

  これでは買う人は学者仲間か、

  受験に備えて辞書がわりに使う受験生ぐらいのものである。

  我が国の在来の学術書は、

  いまだに旧い官僚制度のままの大学組織の中で、

  戦前の勲章や位階勲等のような権威づけの道具でしかなく、

  むしろ「わかりにくいほうがいい」書物だ。

  難解なほうが高級で、著者も偉いとされているのである。

  しかしそんな時代錯誤の本は書いても無駄である。

  皆さんの著書は一人でも多くの読者に読まれる必要がある。

  それには執筆前に、

  どんな読者むけに、

  どんな書法で、どう書くか、

  細かく熟考して『企画』しておかねばならない。

   ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
             大学院講義録1・3頁


  「私たちは「宇宙怪物」?」

  読者も今は「天孫族」といわれても、

   べつに気にする人はいないと思う。

  しかしこの一節を読まれたあとは、

   きっと気になるはずである。

  いうまでもないが今の日本は、

  世界の助けがなければ

   絶海の孤島に合衆国なみの人口が飢えてひしめく、

  大変な「生き地獄」になる国だ。

  商品をいくら作っても買ってもらえなければだめだし、

  お金がいくら余っていても、

  石油や食料を売ってもらえなければ

   一カ月ももたない国である。

  そして今では私たち日本人の生活は、

  テレビで全世界に「まる見え」なのだ。

  それが戦前のままの「ものの考え方」、

  体質をもっている、と分かれば、

  こんどは天皇や総理がハラを切ったって、

  世界の人は許してはくれない。

  外国人の目からみれば、

  テレビで見る自衛隊や、

  日の丸の旗を立てて走りまわる自動車は、

  日本人が戦前の悪魔と同じ人間集団だと立証する

  証拠以外のなにものでもない。
  
  世界の人々はそれを見るたびに、

  心の中で十字を切り、

  一日も速く日本人が一人慣らずこの地球上から、

  消滅するようにと神に祈るのである。

  もちろん、そんなことを口に出していう人は少ないが、

  経済摩擦にかこつけて、連日テレビで報道される

  「激烈な反日行動」の裏には、

  このことが「爆発点」に達したとき、

  かならず表面化する「抑圧された感情」が、

  はっきりと色濃くにじみ出ている。

  その「嫌悪感」を、いっそう強く助長しているのが

  「日本人種の孤立した歴史」なのである。

  私たち自身、

  「世界のどの国の人たちと親戚関係にある」のか、

  はっきり説明できない。

  世界でも類をみない

  「人類のなかの無国籍もの」なのだ。

  外国人からみれば、

  天孫族とは

  「宇宙から流れてきた(人類以外の怪物)」

   なのである。

  そんなことで、

   どうして「国際化」などできるだろう?

  そばへ寄れば、

  「人類」の人々は気味わるがって逃げるだけだ。

  夜になってひと皮むければ、

  その下から「もの凄い正体」が、

  ニューツとでてきそうだからである。

  日本のこれからが、安心だと思う人は、

   余りにも世界のことも、

  人情も分からない「愚か者」なのである。

  仮に議員や官僚にそんな者がいたら、

   それは不適格者だ。

  これでなぜ?…

  「本当の日本の古代史」や、

  さらに詳しい「日本人のルーツ」が

  「緊急に」必要なのか、

   よくお分かりになったと思う。

  あとはご自分でいろいろ思索していただきたい。

  そして本当に世界の人たちに、

  心から愛され親しまれ、

  互いに助けあえる日が来るようにしていただきたい。

  ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
             HIMIKO225~226頁

2015年9月22日火曜日

結婚披露宴で「なぜ謡:高砂か!」


 ≪結婚披露宴で「なぜ謡:高砂か!」≫

  『高砂』の起源と読み方

  日本式の結婚式には欠くことのできないものに

  『高砂(たかさご)』という謡曲があります。

  そこでも翁と嫗が

  「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」と呼ばれて出てきます。

  『竹取物語』と『高砂』。

  この二つの関係を調べてみましょう。

  謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている

  観世元清

  (足利義満らに仕えた観世流二代目=

    1443<?数説あり>年没)の作で、

  始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、

  いつか謡い出しの「高砂」の方が

  題名として有名になったものです。

  その、あらすじは、

  肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、

  高砂の浦で老人夫婦に出会って、

  高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、

  なぜ相生の松といわれるのか、

   その由来を教えられます。

  そこで神官は、その有名な

  「高砂や、この浦船に帆をあげて……」

  という謡の通りに

  高砂の浦から船出して、

  住吉の湊に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、

  前の老人が住吉明神になって現われ、

  美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、

  次第に消えていく。

  という大層、夢幻的で優雅なものです。

  今、高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、

  この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、

  日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、

  全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、

  それ以上の追究をやめていたきらいがありました。

  しかし詳細に、

  この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、

  世阿弥は創作者ではなく、

  彼は古くから伝わっていた伝承を、

  香り高い文芸作品に仕立てあげた

  「脚色者」だったという事実がはっきりします。

  この「高砂」は現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、

  伝承が生まれた当時の高砂は、

  『桃太郎≡竹取物語』の老夫婦がいた

  「タカの国」でなければなりません。

  「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、

  砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、

  「スナ」と読んでみると、何と、ぴったり一致するのです。

  日本の古語の特徴の一つに

 「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。

  古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。

  また「ナ」は国のことですから、
 
 「ス国」と「ツ国」、は同じです。

  これを「高の国」と比較しますと、

  助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、

  「ス国=ツ国=津国」と、謎がほぐれてきます。

  高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する

  別の当て字だったのです。

  この「高津国」は仁徳天皇の皇居が

  「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。

  その宮は大阪市にあったとされますが、

  大阪には「住吉」もあります。

  ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、

  そこから住吉へは船では行けません。

  だから大阪の地名は後世に南九州から

  幾つもがセットになって大阪へ、

  一緒に移動してきたものです。

  だから「高砂」はなくて「高津」しかないのです。

  もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。


  『高砂』はなぜ目出度いのか?

  ここでその謡曲『高砂』の主題は何か?

  考えてみましょう。

  それはもとの名が相生だった通り、

  高砂の松と住吉の松とが、

  「相生」であるということが中心になっています。

  「相生」とは一体、何のことでしょう?

  「相」という字にはいろんな意味がありますが、

  この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、

  相対する状態をいっています。

  だから相生とは

  「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。

  ところが実際には、

  その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。

  だからこそ肥後の神官は

  「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」

   と疑い、

  老夫婦は、その疑問に答えたのです。

  その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、

  「別れ」という悲劇を吹き飛ばす

   内容をもっていなくてはなりません。

  それは、今は別れ別れになっていても、

  もとは一つ、心も何時までも一つだから、

  それで「相生」の松というのだ、

   という以外にありません。

  それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、

  二人は「松の化身」でもあることが

   それとなく暗示されています。

  しかしそれだけでは実のところ、

  なにが「非常に目出度い」のか、

   まだよくわからないと思います。

  『高砂』は、離ればなれになっても、

  白髪の老人になっても、なお愛情は変わらないことを

  「相生」という言葉に掛けて、

  「あい(愛)」と「おい(老い)」の美しさ、

  悲しさを歌ったもので、

  厳密にいえば、

   そこには「目出たい」という要素はありません。

  前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、

  「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、

  両親もまた、それぞれ

  「沖縄と奄美大島の王と女王」として、

  白髪の老人になるまで、

   末永く栄えたという点以外には見つかりません。

  ところが世阿弥の『高砂』では、

   かんじんのこの部分が抜けています。

  だから何が目出度いのかさっぱりわからない。

  わからないのに世間では

   この『高砂』を目出度いものとしてきました。

  それは当時の人々がもとの話を

   よく知っていたという証拠なのです。

  だから世阿弥は周知のことを

  今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。

  絵:高砂(たかさご)

  伝統工芸「和紙押絵」

   継承者:加治木花象作「高砂」屏風による。

  足もとには従来の州浜(すはま)の代わりに

   沖縄と奄美大島の地図を描き加えて、

  <オキナ>と<オウナ>の語源が

   平に見えるようにしてあります。


  「住吉」の名の語源

  嫗を特定している「住吉」とは

   奄美大島でなければなりません。

  しかしなぜそれを「住吉」と名づけたのでしょうか……?

  奄美大島の地名を調べてみますと

  「住用村=スミヨーそん)」という村があります。

  「村」の代わりに「之国」をつけると

  「住用之国=スミヨシ国」になるので

   住吉はこれに対する当て字です。

  では「スミヨー」は何を意味するのでしょう?

  古代日本語には<ス>と<ツ>の区別が

   なかったことをお話ししましたが、

  これを「スミ」にあてはめてみますと

  「ツミ」になります。

  「ツミ」は『記・紀』に

  「津見」「積」「祇」という当て字で出てきます。

  ワタツミ=綿津見・海津見の神、

  オオヤマツミ=大山積・大山祇の神、

   などと書かれていて、

  それは山幸彦が訪れた海神国を始め、

  日本神話の神名、

   ことに海神の首長クラスについていますので、

  海人の王を意味する敬称だとされています。

  そうだとすれば「津見」は文字どおり

  「津=港・海」を「見る=監視する。支配する」

  という意味の官名だということです。

  次は「ヨー」ですが、

  古代の「ジョ」が後世「ヨ」に

   変わったことを先にお話ししました。

  だから「ヨー」は古くは

  「ジョー」と発音された音なのです。

  壹與の與が「ジョー」に対する当て字で、

  「嬢・女王」を意味することも、

   すでに確認しました。

  以上を考えあわせますと

  「スミヨー」は

  「津見の女王=海・港を支配する女王」という名になります。

  これは「住吉の大神」が古来「海の守護神」として、

  漁業や船舶関係者に崇拝されている事実と完全に表しますので、

  住用は間違いなく住吉の語源だったのです。

  「住用」が「住吉」になったのは、

  南九州語の「良う」は大阪語の「良し」ですから、

  神として祭られた場所によって変化したのです。

  でも「嫗」自身は奄美大島の支配者として、

  「海=ワタ、津=ツ、女王(メ)=ミ」と呼ばれて、

  住用を都として住んでいたのです。

  これで赫夜姫(かぐやひめ) だけでなく

  『竹取物語』に登場する人々の全貌がわかりました。

  これはあなたにとっては、思いがけないものだったかも知れません。

  中には私(加治木義博)の分析は「我田引水」過ぎる、

  と批判的な方もおいでになると思います。

  しかし、それはページ数が限られているために

  多くの説明をやむなく削って省略したからなのです。

  もっと詳しい充実した証拠をお読みになりたい熱心な方は、

  どうぞ私の他の著書をお読みください。

  『コメント』

  「高砂」の言葉から、地名を探索しました。

  TBさせて頂きます。

  結婚を9月に控え、披露宴で手配をした時

  「高砂」について調べていて

  このHPにたどり着きました。

  いろいろと他の説明を読んだ後でしたので、

  ここでやーっとかかっていた雲が晴れた感じがします。

  ありがとうございました。

 ○『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      日本国誕生の秘密277~284頁