2015年8月9日日曜日

常陸・日立(稲敷)

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 常陸・日立(稲敷)
 常陸・日立(稲敷)

 ≪常陸・日立(稲敷)≫

 魏代の中国人は高度に科学的な方位知識をもっていた。

 その知識はすでに紀元前12世紀を超える殷代に、

 殷の首都(今の河南省安陽県・殷墟)と、

 日本の茨城県稲敷郡とを結ぶ直線を、

 正確に測量していた事実が

 完全に立証されている程のものなのである。

 なぜそれがわかるかといえば、

 この2点は正確に北緯36度線上に並んでいて、

 その距離が2200kmきっかりある。

 だから稲敷は殷墟の真東にある。

 太陽の昇る所ともいうことになるが、

 そこは「ヒタチの国」と呼ばれた。

 なぜか常陸という字が当てられているが、

 県内に日立市があるから、

 やはり

 「日立ち=日が出発するところ」というのが語源だ。

 それはいうまでもなく殷の王室からみて

 太陽が昇る東極という意味で、

 稲敷が聖地だったのであり、

 稲敷という地名は、

 「殷(イナ)の儀式(シキ)場」を意味している。

 しかも稲敷の福田貝塚から出土した

 縄文土器の人面注口器と、

 殷墟から出土した青銅製の人面注口器

 (米国ワシントンのフリア美術館所蔵品)とは、

 全く同じ信仰対象としての共通点を25以上も持つ。

 測量だけに絞ってみても、

 当時の人々が、海を超えて遥か彼方にある地点を

 2200kmきっかりに測量して

 首都と聖地を置くことができたのだ。

 だから千数百年後の魏人なら当然、

 より一層高度な方位知識を持っていたのである。

 (詳細は加治木義博者『日本人のルーツ』参照)

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録10:16頁」

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