2015年8月8日土曜日

大化政変(乙巳の変)の真相

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 大化政変(乙巳の変)の真相
 大化政変(乙巳の変)の真相

 ≪大化政変(乙巳の変)の真相≫

 唐の大軍が動員され、

 『日本書紀』の記事どおりの唐の将軍たちが、

 新羅軍と連合して戦ったことは、

 中国の歴史に詳しく記録されているので、

 白村江の百済の全滅とそれに続く百済の滅亡が、

 事実あった事件であることは疑いない。

 それが事実であったことは『日本書紀』も、

 その不名誉なはずの事件を詳しく記録していることで分る。

 この戦争が新羅(日本国)王

 「金春秋(チヌ・ハラキ)」の作戦であり、

 それは高麗を戦闘に誘いこんで滅ぼすのが、

 本当のねらいだったという釋・道顕の解説も収録している。

 「日本書紀」ではこの事件の前に、

 中つ大兄の皇子による「蘇我入鹿殺し」があり、
 
 蘇我氏が政権の座から追われたように見えるが、

 蘇我の正体が前政権の「倭国」であり、
 
 中つ大兄の正体が金春秋である以上、

 これは明らかに戦争による追放であって、

 『日本書紀』のまるで歌舞伎をみるような

 「悪大臣・天誅の場」といった事件は、

 戦後に金春秋が日本と倭国の合併政権を作ったのち、

 今度は蘇我氏を完全に追放したことの説話化であって、

 天智天皇が正当な皇位継承権の持主だったと

 印象づけるための手直しが随所に見られる。

 では本当の戦闘記事はどうなったのか?。

 蘇我の稲目以下の蘇我氏系譜は幾重にもダブッたもので、

 整理すると、

 その一族の名と相互関係は

 『記・紀』の「神武東征」に敵として登場する

 「長髄彦」一族と寸分のくるいもなく完全に一致する。

 「長髄彦退治」の部分が

 倭国滅亡当時の戦闘描写だったことは間違いいない。

 長髄彦のいた土地「トビ」は、

 従来、大阪・奈良県境の生駒山東部だと信じられていたが、

 長髄彦や、孝徳天皇の「天萬豊日」という名などは、

 今の大阪市北部から豊中市にかけて広がる

 旧豊島郡が領土であったという名乗りになっている。

 そこは古代の港湾都市「豊崎」を都に、

 背後に弥生時代から栄えた豊かな田園地帯

 「豊之国(卜ヨシマ)」をもった一大経済圏だった。

 天智は、

 かって蘇我氏の仏教政策に反対して勢力を失っていた

 倭国の元高官「中臣鎌子」の内応によって

 「大化クーデター(乙巳の変)」を成功させた。

 ということになる。

 今、

 奈良市に入っている富雄など従来「トビ」とされた地域は

 旧倭国の一族が細々と生き残った辺鄙な田舎に過ぎない。

 ※出典:加治木義博「邪馬壹国大移動:66頁」

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