2015年8月4日火曜日

天孫降臨の真相


 ≪天孫降臨の真相≫

 『日本書紀』の一書には

 ニニギの尊が大勢の神々に守られて高天原を出発し、

 天のやちまたにさしかかると、

 猿田彦の大神が出迎えていて尊の道案内をし

 「天神(あまつかみ)之子は

  筑紫日向襲高千穂槵触(くしふる)之峯に行かれよ、

  吾は伊勢之狭長田(いせのさなだ)五十鈴(いすず)の

  川上に行かん」といい、

 それぞれに天降ったとある。

 この一書がいちばん地名が多く出てくるので、

 これを比較の基礎にしてみよう。

 『三国史記』の[新羅本紀]始祖赫居世の条と

 『三国遺事』の新羅始祖、赫居世王の条とに、

 赫居世の建国以前に

 やはり山に天降った六部の人々の話が出ている。

 ここでは詳しい方の後者を使うことにする。

 『遺事』の地名をまず写してみる。

 1 閼川楊山村、 はじめ 瓢嵓峯 に降る。

 2 突山高墟村、 はじめ 兄山  に降る。

 3 茂山大樹村、 はじめ 伊山  に降る。

 4 觜山珍支村、 はじめ 花山  に降る。

 5 金山加利村、 はじめ 明活山 に降る。

 6 明佸山高耶村、はじめ 金剛山 に降る。

 一見しただけでは、

 さきのニニギの命の降った所と

 この6部の降った所とが関連があるようには見えない。

 しかし、この両者は同じ話から分裂したのだから、

 一致するところがあるはずである。

 違うようにみえるのは方言差や用字の違いによるものである。

 それを考えに入れて比較してみると次のようになる。

 ツク シン  ヒュウガン ソ    チ オ

 筑紫の 日向の  襲の   高千穂

 ツク セン  ガン ソ キオ

 突 山 瓢 嵓 兄(衣)の 高 墟

 ツク サン ヒョウ ガン エ エ チオ

 クワン サフン カン サフン

 槵 触の(槵 触の) 峯

   サン カヌ サン

 花 山 金 山   峰(瓢嵓)

 クワ サヌ カヌ サヌ

 イ セ ン サ  サ ナガ タ イ スズ カワアゲ 

 伊勢の 狭 狭長 田五十鈴 川上 

 イ セ ン シ  シ ナカ タ イ ズ アゲ

  伊 山 觜 珍支 大  樹 川揚

 イ サン シ チヌキ タ イ  ジュ

 残りの地名もすべて日本神話に関連がある。

 こんなふうに地名を対照してみると、 

 当て字がバラバラになったときに起こる混乱を、

 案外簡単に復元できることがわかる。

 地名の対比によって、

 こうした神話部分だけでなく、

 新羅景徳王が改めさせた地名でも、

 一見して日本式の訓読だとわかる。

 出典:加治木義
    「KOFUN・KKロングセラーズ:155~158頁」


 そこでこの三国遺事の新羅始祖の条に、

 一体どう書いてあるかみてみよう。

 「辰韓の地。古(いにしえ)、六村あり。」

  として六村の名と村長の名、

  それが後世の地名と結びつけられている。

  三国遺事は13世紀後半のものであるから、

  この後世の地名はすでに不明になったものを、

  思いつく半島内の地名に合わせてあるので除外する。

 (1) 閼川楊山村。 長は謁平。 初め瓢嵓峯に降る。

    これを及梁部李氏の祖となす。
 
 <オセン>は沖縄読みで<ウチヌ>。 

 楊は<ヤギ>で頭音を使うと<ヤヤマ>。
 
 <ウチヌ>、<ヤヤマ>は<沖縄>、<八重山>となる。

 沖縄弁では<八重山>は<ヤヤマ>と発音されている。

 <ヤエヤマ>はむしろ<ヤギヤマ>に近いが、

 これは外部の発音で、楊山が、

 どちらの意味に使われたかは不明である。

 謁平はカピラ→カヒラ→合良→姶良(カヒラ)と続く語で、

 インド起源の<カピラ>と考えることがきる。

 これは釈迦(シャカ)の国の首都の名であり、

 琴比羅宮や兼平などという名とも深く結びついているので、

 当時の沖縄人にこの名があっても決して不思議ではない。

 瓢嵓は<ヒョウガン>で、日向(ヒュウガ)の峯に降る。
 
 及梁部李氏の梁は道(タウ)、

 涿(タク)の音で読めと注があるから

 <キウタポリ>(部は三韓古音<ボウ>)

 <キ>音のない沖縄では<チウタポリ> 

 あるいは<チウチポリ>となる。

 これは琉球王子の<ウォヌウチポリーグヮ>とごく近い。

 (2) 突山高墟村。 長は蘇伐都利。 初め兄山に降る。

    これを沙梁部鄭氏の祖となす。

 <ツサヌ>と読むと邪馬臺の旁国「対蘇の(ツサヌ)国」に合う。

 これに対応する地名は同じ姶良郡に帖佐(ツサ)があり、

 やや音が変るが鹿児島市内に唐湊(トソ)。

 佐賀県に鳥栖(トス)。

 高知県以外にも多く土佐(トサ)が分布している。

 墟は<ハラ>、<カラ>とも読めるから高原、

 または財(タカラ)、高良。

 また<キョ>の頭音で高城、高来、多久などとも合う。

 兄山は鹿児島は川内市に可愛山(エノサン)陵があり、

 古く衣(エ)の国と呼ばれ、

 頴娃(エイ)の地名を残していることと合う。

 兄の<アニ>は、この<エノ>の方言化である。

 沙梁部鄭氏は、<サタ>、<サル>の双方に読める。

 猿(サル)田彦大神は佐多(サタ)の大神でもある。

 長の名「蘇伐都利」は伐を<キ>ると読むと<スキタリ>。

 <リ>を<イ>と発音する薩摩弁に直すと、

 スキタイ人という民族名が浮び上ってくる。

 猿田彦は白髪、赤肌、高鼻、巨眼の天狗の面で表現される。

 これは人種名とすれば非常によく合う。

 これにはも少しおまけがつく、

 仇良伐は<キュウラキ>で佐賀県の厳木(キュウラギ)。

 麻等鳥は天の日槍の妻「麻多鳥」と酷似している。

 (3) 茂山大樹村。 長は倶(一に仇に作る)礼馬。

    初め伊山(一に皆比山に作る)に降る。

    これを漸梁部また牟梁都孫氏之租となす。

 <茂>は古音<シキ>であって、

 <蜜、<頻>、<繋>と同意であり常緑多実の樒<シキミ>も、
 
 これから名がで出ている。

 <シキ>は<磯城>、<志岐>、<信貴>また<益城>などと変るが、

 聖域、境内、禁裏の意味をもち、

 いま<式場>と使う<シキ>もこの流れである。

 <大樹>は<ウジュ>、または<ウキ>であるが、

 <シキ>、<ヤマ>と連繋があるのは<ウジ>で、

 ここは語音の説明だけに止めておく。

 倶と仇の共通音は「ク」しかない。

 <クレマ>で伊支馬と同じ語尾になっている。

 <クレ>は高麗、呉の日本読みである。

 伊山(サヌ)イサヌは鹿児島県に伊佐郡があり、

 重要地名である。

 漸梁は清(せい)音でセンダ。千田。牟梁は牟田。

 (4) 觜山珍支村。(一に賓之。また賓子。また氷之に作る)
 
 <賓>(ヒヌ)と<氷>が同音に使われるのは

 <氷>を<ヒ>と呼んだ日本の上代語の漢字仮名。

 <ヒシヤマ>は<シ>が<支>で表記された場合<

 キ>と入れかわるから、

 <日置>(ヒキ)、<日木山>、<表木山>(これは<氷支山>)。

 また<菱刈>という地名と姓が鹿児島県下にある。

 別伝の<ヒシ>を先にしたが<觜>は<ハシ>であって

 これも同県内に櫨山という字を当てて

 <ハシヤマ>と読む地名と姓がある。

 <珍支>は<チヌチ>と読むと<津奈木>という沖縄音

 <チヌチ>が本土音にそっくり変った地名が

 水俣市のすぐ北にある。

 長を智伯虎という。

 これは泄謀觚か、それに近い名である。

 初めて花山<カサヌ>に降る。

 これも鹿屋市に笠野原という広大な台地があり、

 また笠野の姓もある。

 (5) 金山(カヌサヌ)加利村。

 <カヌサヌ>は華奴蘇奴国が志の邪馬臺旁国の一つにあり、

 一国とされる規模から考えると、

 やはり<笠野原>であって、

 同じ位置を指示しているとした方がいい。

 <加利>は<菱刈>にもみられるように、

 <カリ>という名詞が主体である。

 長を祇沱(一に只他に作る)という。

 これは<キダ><木田>または<キタ><北>だということである。

 初めて明活山払降る。

 <アカツサム>は<秋津島>という古名に近い。

 これも同じく後で、その出自がはっきりする。

 (6) 明佸山高耶村。

 上半は明活山と同じもの、

 <タカヤ>は高屋山上陵のある<高屋>に最も近い。

 長を虎珍という。

 これは<川内>を<コーチ>と読むものか、

 または<小茅沼>、<小角>という日本式の名である。

 初め金剛山に降る。

 これは半島や、

 大阪と奈良の境にある金剛山とは限らない。

 剛は<タケ>であって

 殆んど全世界的な言葉で<山>を意味する<タケ>であり、

 <金>は<コム>、<クマ>の方言に対する当て字であった

 調査が終っている

 (加治木義博著「異説日本古代国家」)から、

 全国に分布する<金峯>、<熊野>、の山名をもつものに当る。

 鹿児島から熊本にかけても数ヶ所の候補地が現存する。

 以上六部の祖先は皆、天から山へ天降ったとしている。

 ということは、この人々もまた、

 もとは一つで、それが六つに分かれると共に、

 伝承も変って別々に天降ったということになったと考えるのが、

 理性的な見方である。

 そこで、この六つの山名を、もう一度一緒に見ると、

 <日向>の、<衣>の、<伊佐>の、<笠野>、<秋津島>、<金峯>となる。

 これは『記・紀』で馴染みぶかい天孫降臨の地名と

 実によく似ている。

 紀の記事は

 日向の襲の、高千穂の、槵触峯(クシフルタケ)となっていた。

 <衣>は別音で<ソ>である。

 この<日向>と<衣>は問題がないから、あとがどの程度合うか、

 もう一度、『記紀』の方に、原名を比べてみょう。

 まず可能性が目立つのは<高千穂>と<金峯>である。

 <高千>と<金>と比べると<コチ>と<コヌ>の関係は、

 はっきりしている。

 <チ>は沖縄弁で、本土語の<津>、

 すなわち現代語の「の」であった。

 <ヌ>もまた沖縄発音で、やはり「の」であった。

 残る<穂>と<峯>は<ホ>と<ホー>であって、

 <穂>は<峯>を意味することは、

 <穂高>といった語も証人になる。

 疑いもなくこれは同一のものである。

 <槵触>と<花山>、<明活山>を比べてみると、

 <槵>(クワン)の<クヮ>と<花>の<クヮ>と

 <活>(クワツ)の<クヮ>が同音である。

 また<槵>を<クシ>と発音しているが、

 これは<クワヌ>の<ヌ>を<之>の字に

 置きかえてみると<クヮシ>になり、 

 私たちが菓子の字をあてているものと、

 <カシ>即ち<樫>、<柏>、<橿>という字が浮んでくる。

 風土記逸文で、

 <槵>が<クリ><栗>のことだというのを見たが、

 これは<クリ>だけでなく、

 <カシ>や恐らく<シイ>、<カヤ>など

 穀斗科その他の乾果全体をさしていたもので、

 それが太古のお菓子でもあったのであろう。

 私たちは今でも<クリ>(マロン)や<クルミ>、<カシュウ>などを

 お菓子屋で買っているのである。

 <槵>の古音がわかると、

 <花山>も<活山>も<クヮシヌ>に対する当て字を

 山の意味にかけたもので、

 天から降ったのだから、

 それは<山>でなければならないという先入感が、

 <シヌ>に山(サヌ)の字を使わせた、とすべきである。

 これで従来続けて<クシフル>と発音していたものは、

 <槵>(クワシ)<ヌ>と<フル>とに

 分けるべきものであることがわかった。

 この<槵><ヌ>は<槵><ノ>としてもいいが

 それでは何のことか判らない。

 これを、

 さきにみた<栗野>という地名だとすると、

 倭人章の鬼奴国と三つのものが合致して、謎は消滅する。

 では、あとに残った<触>と<明>は何か。

 まず<触>を片づけよう。

 遺事の同じ始祖の条に、国号<徐羅伐>。又<徐伐>。と書き、

 割注で

 「今俗に京の字の訓(よみ)を<徐伐>と言う。

  それはこれが理由である」と説明している。

 朝鮮半島では首都のことを<ソウル>という。

 それはこの新羅の国号による。というのである。

 これは今の大韓民国になっても<京城>と書いて、

 やはり<ソウル>と発音しているから、

 <徐伐>を<ソウル>と読むことは疑う余地がない。

 では、<徐>が<ゾ>であり、

 清音化して<ソ>に用いたことはわかるとして、

 <伐>がどうして<ウル>と読めるのであろう。

 その手がかりは紀の天孫降臨の一書の六にある。

 ここでは<日向襲之高千穂添山峯>とあり、

 訓(よみ)の割注があって

 「添山、これは曽褒里能耶麻(ソホリノヤマ)と言う」

 と説明がついている。

 <ソホリ>と読むというのである。

 また奈良県にもその北端に添(ソフ)の郡(コオリ)があり、

 のち添の上と下に分けられ、

 現在では大半が奈良市になって

 僅かに東北端に添上郡(ソエカミグン)が残っているが、

 <添>が<ソフ>、<ソエ>と発音が変ることの

 よい証拠になってくれている。

 奈良も<ソホリ>であったのである。

 <添>はそれ以前に<ソホリ>と発音されていたのであるから、

 <ソフ>との間に<ソフリ>と

 発音された期間があると考えることができる。

 一方朝鮮語は<伐>の字を<パル>と発音する。

 <徐伐>が<ソフリ>だと知っていた時代がすぎると、

 次第にこの字音に影響されて、

 <ソフル>になりさらに<ソウル>になってしまった

 と考えることができる。

 この<ソフル>を問題の<フル>と比較すると、

 <ソフル>とは<襲>の国の<フル>であったことがわかる。

 これは襲の羅(くに)のフルであって、

 <徐羅伐>と書かれても同じ意味だという理由が

 至極明快にわかるのである。

 また、<徐>が<ジョ>の<ジ>に重点が移ると清音<シ>になり、

 <伐>が<キリ>から<キ>に移って<シラキ>という音になる。

 <シラキ>とはソラ郡であったからソジシの空国と書かれ、

 空国はカラ国と読まれて

 韓国を生み出したことも不自然ではない。

 次に赫居世王という名が何を意味するかをみておこう。

 赫(力)居(コ)世(シ)と続くから

 王を国と入れかえると<国>は<マ>で「カコシマ」となる。

 これは明らかに鹿児島の朝鮮式発音である。

 すると明は<アカル>と読めば阿鹿児(アカル)であって、

 応神天皇の明の宮の名とも一致するのである。

 また<赫居世>は<朴赫居世>とも綴られている。

 <朴>は一般に<ポク>と卜の字音で呼ばれているが、

 木の名として用いられる場合は<ホウ>と発音されている。

 これを10世紀の百科辞典「倭名類聚鈔」によって

 古名を調べてみると、

 その巻二十中の木類の項に

 「厚朴、重皮附」本草云厚朴一名厚皮、楊氏漢語抄云、

  厚木保々加之波乃木(厚きホホカシハの木)。

  釈薬性云重皮、和名保々乃加波(ホホの皮)厚朴皮名也。」

 とある。

  ※句読点( )注は加治木義博。

 <朴>は<ホホ>であったのである。

 これは彦<火火>出見尊、または日子<穂穂>出見命、

 あるいは日子<日日>出見と書かれる<ホホ>と全く同音である。

 <朴>とはこの<ホホ>に対する当て字であったとすれば、

 このヒコ<ホホ>出見尊の山陵のある姶良郡との関係が

 さらに深く、

 またこの尊を祭るのが鹿児島神宮の名をもつことは当然で

 日子<朴>出見尊を祭る赫居世国神宮と書いても

 全く同じ読み方ができることに注意して戴きたい。

 三国遺事は、

 朝鮮の坊さんが1227年に、

 朝鮮に伝わる伝説、逸話などを集めて記録したものである。

 新羅建国からは少くとも1000年以上

 経過しているとみなけれはならない。

 それにもかかわらず、いま謎ときができるだけの、
 しつかりした中身を伝えていたのである。

 著者、僧一然氏は、殆んど700年目にあたる今、

 彼の仕事がこんなにも認められて、

 泉下で大いに満足していると思う。

 こうして、作為なく、

 収録者も話者も真相を知らぬままに話し、

 書き綴ったものが、

 新羅神話とは、

 日本神話と同じ天孫降臨の変型したものであることを証明した。

 新羅の始祖は半島でなく鹿児島に住み、

 その名も赫居(カゴ)之王と名乗っていたのである。

 とすれば後世朝鮮半島に住み、

 新羅の国を発展させた人々は血液も言語も、

 日本人と共通であったはずである。

 日鮮同祖論はここで新らしい大きな証拠によって、

 その正しさが証明されたことになる。

 ただ従来は半島から日本列島へ、

 人々が移り住んだと全く反対に考えられてきた。

 日鮮語の類似は、

 朝鮮語が日本へ入ったためだ、とされてきた。

 だが、どうやらそれは完全に間違っていて、

 正反対に

 日本から半島へ流入したとせねばならないようである。

 それを確かめるのは、別に難事でも何でもない。

 日本人は、すでにみたように、

 混成民族であることがはっきりしているから、

 日本語もまた、海外の言語が混入しているはずである。

 朝鮮語は、
 
 三韓が九州から移動したのであれは、

 共通語があって当然だから反対側の国々、

 南西諸島からさらに南西にひろがるマレー語圏のことばと、

 日本のことばを比較すれば、

 日本を中心にして、どちらからどちらへ移動したか、

 かなりの精度でつかむことが可能なはずである。

 このことはまた当然、

 これまで日本式発音だけで検討してきた官名などが、

 どういう構造になっているかを

 確かめるのにも役立つはずである。
 
 また日本語でとけない名詞。

 <ヤマト>とか<アスカ>とか

 邪馬臺とか狗奴国とかの正体を、

 明らかにする手がかりが得られるかもしれない。

 沖縄の向うにはすぐ台湾があるが、

 その土着の言語はマレー語圏に属する。

 マレー語には<クリ>という発音で<毛>を意妹する語がある。

 <粟野>はマレー語とすれば「毛の」を意味し、

 霧島の山ふところにあって

 毛人の国にさらに有力な証拠を加えることができる。

 まず大きく網をひろげて、

 さらに飛躍した証拠群を捉えるためにも、

 マレー語は重要な対象であり、

 それは大きな収穫を約束してくれている。

 ※出典:加治木義博
     「邪馬臺国の言葉・コスモ出版社:104~112頁」

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