2015年8月27日木曜日

謡曲『高砂』の起源


 ≪謡曲『高砂』の起源≫

 日本式の結婚式には欠くことのできないものに

 『高砂(たかさご)』という謡曲があります。

 そこでも翁と嫗が「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」

 と呼ばれて出てきます。

 『竹取物語』と『高砂』。

  この二つの関係を調べてみましょう。

  謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている

  観世元清

 (足利義満らに仕えた観世流二代目=1443<?数説あり>年没)

 の作で、

 始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、

 いつか謡い出しの「高砂」の方が

 題名として有名になったものです。

 その、あらすじは、

 肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、

 高砂の浦で老人夫婦に出会って、

 高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、

 なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられます。

 そこで神官は、

 その有名な「高砂や、この浦船に帆をあげて……」

 という謡の通りに

 高砂の浦から船出して、

 住吉の浦に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、

 前の老人が住吉明神になって現われ、

 美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、

 次第に消えていく。

 という大層、夢幻的で優雅なものです。

 今、

 高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、

 この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、

 日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、

 全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、

 それ以上の追究をやめていたきらいがありました。

 しかし詳細に、

 この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、

 世阿弥は創作者ではなく、

 彼は古くから伝わっていた伝承を、

 香り高い文芸作品に仕立てあげた

 「脚色者」だったという事実がはっきりします。

 この「高砂」は

 現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、

 伝承が生まれた当時の高砂は、

 『桃太郎』『竹取物語』の老夫婦がいた

 「タカの国」でなければなりません。

 「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、

 砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、

 「スナ」と読んでみると、

 何と、ぴったり一致するのです。

 日本の古語の特徴の一つに

 「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。

 古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。

 また「ナ」は国のことですから、

 「ス国」と「ツ国」、は同じです。

 これを「高の国」と比較しますと、

 助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、

 「(ス)国=(ツ)国=(津)国」と、謎がほぐれてきます。

 高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する

 別の当て字だったのです。

 この「高津国」は仁徳天皇の皇居が

 「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。

 その宮は大阪市にあったとされますが、

 大阪には「住吉」もあります。

 ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、

 そこから住吉へは船では行けません。

 大阪の地名は

 後世に南九州から幾つもがセットになって大阪へ、

 一緒に移動してきたものです。

 「高砂」はなくて「高津」しかないのです。

 もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。

 ここでその謡曲『高砂』の主題は何か?

 考えてみましょう。

 それはもとの名が相生だった通り、

 高砂の松と住吉の松とが、

 「相生」であるということが中心になっています。

 「相生」とは一体、何のことでしょう?

 「相」という字にはいろんな意味がありますが、

 この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、

 相対する状態をいっています。

 相生とは

 「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。

 ところが実際には、

 その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。

 だからこそ肥後の神官は

 「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」

 と疑い、

 老夫婦は、その疑問に答えたのです。

 その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、

 「別れ」という悲劇を吹き飛ばす

 内容をもっていなくてはなりません。

 それは、

 今は別れ別れになっていても、

 もとは一つ、心も何時までも一つだから、

 それで「相生」の松というのだ、という以外にありません。

 それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、

 二人は「松の化身」でもあることが

 それとなく暗示されています。

 しかしそれだけでは実のところ、

 なにが「非常に目出度い」のか、

 まだよくわからないと思います。

 『高砂』は、

 離ればなれになっても、白髪の老人になっても、

 なお愛情は変わらないことを

 「相生」という言葉に掛けて、

 「あい(愛)」と「おい(老い)」の

 美しさ、悲しさを歌ったもので、

 厳密にいえば、

 そこには「目出たい」という要素はありません。

 前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、

 「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、

 両親もまた、

 それぞれ「沖縄と奄美大島の王と女王」として、

 白髪の老人になるまで、

 末永く栄えたという点以外には見つかりません。

 ところが世阿弥の『高砂』では、

 かんじんのこの部分が抜けています。

 だから何が目出度いのかさっぱりわからない。

 わからないのに世間では

 この『高砂』を目出度いものとしてきました。

 それは

 当時の人々がもとの話をよく知っていたという証拠なのです。

 だから世阿弥は周知のことを

 今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。

 ※出典:加治木義博
     「日本国誕生の秘密・徳間書店:277~280頁」

0 件のコメント:

コメントを投稿