2015年8月3日月曜日

箸墓古墳


 ≪箸墓古墳≫

  卑弥呼の墓とされてきた

 箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)の真相が、

 適確に明らかになったからである。

 E 音を嫌う沖縄語では

 百済(ホゼ)をフジと発音するのと同じく長谷はハシに変わる。

 箸墓のハシは付近にある長谷や初瀬と同じく、

 長谷=後の百済を意味する名乗り以外にはない。

 所在地が箸中で、南種子の「長谷」と「中」が揃っている。

 箸は当て字の一つにすぎない。

 古墳は貴族を葬(ほう)むってある。

 それをハシと呼び続けてきたのは、

 少し後世の同じ奈良県下の古墳を

 「百済王(フジノキ)」を意味する

 「藤ノ木」と呼んできた原則通りで、被葬者名なのである。

 ただでさえ死者を恐れた昔の人々が、

 一層恐るべき支配者らの墓を、

 現代人の様に傲慢にも渾名で呼ぶことなど絶対にない。

 これは学究として忘れてはならない鉄則である。

 仮に卑弥呼説が正しいのなら「ウワイ墓」。

 邪馬臺国王の墓なら「ジャマダグ墓」と呼ばれているはずで、

 ハシ墓は間違いなく卑弥呼とは仇敵の百済側の王族の墓である。

 この百済王族の名のついた2古墳の実在とその時間帯からみて、

 国家としての百済の前身は既に奈良にあり、

 5世紀以降の朝鮮半島の百済が、

 その植民地だったことは動かない。

 しかし箸墓は日本の考古学では、

 ひときわ重要な地位に置かれてきた

 一大エポック・メーカーであった。

 それは、文献上、最初に記録された古墳であると考えられる

 『魏書倭人章』の「大冢(ちょう)」造営記事=卑弥呼の死後

 「大 作冢 経百余歩=大掛かりに、

  長径約150mの冢を作った」という記事を、

 日本「最古の古墳」築造記録と規定して、

 箸墓がその卑弥呼の大冢で、

 それが造成された248年から

 『古墳時代』が始まったのだと教え続けて来た。

 箸墓こそ日本建国史上、

 文化財のトップに位置する遺跡であり、

 初期ヤマト政権の成立時期を確定立証する

 最大の時標、最良の定点だとしてきたのである。

 箸墓と同年代土器は、

 248年の3世紀半ばを示す座標として、

 「古墳時代土器」編年の起点でもあった。

 ところが1995年12月7日、

 奈良県の桜井市教育委員会が、

 同市箸中の「ホケノ山古墳」が

 箸墓よりも古い日本最古の前方後円墳だと発表した。

 根拠は、

 同墳後円部の北側に付属する

 空濠(からぼり)の底から大量に出土した土器のほぼ全てが、

 箸墓造営当時の「布留O式」土器で、

 それもホケノ山古墳築造当時ではなく、

 築造後かなりの年月を経た後に、

 一纏(ひとまと)めにして捨てられたものであることが、

 明瞭にわかったからだった。

 こうして考古学上からも

 箸墓古墳は我が国古墳時代の最初の古墳ではなかったことが、

 大量の物証によって立証されたのである。

 ホケノ山古墳は箸墓から東に約200mしか離れていない。

 箸墓古墳は大きいから造営には

 大勢の人が動員されて付近の至るところに飯場が造られた。

 当然、大量の食器や調理器などの土器が必要だった。

 土器は破損し易く、破片は硬いから、

 日常裸足で歩いていた当時の人々には危険物だった。

 そのため空濠に捨てたのである。

 箸墓造営中に割れたものも捨てたが、

 造営が終って人々が引き上げる時には、

 大量の土器が不用になって捨てた。

 こうしたことは箸墓古墳造営以前にホケノ山古墳がなければ、

 箸墓を造った当時に不用になった土器を、

 ホケノ山古墳の空濠に大量に捨てることなどできない。

 仮に箸墓が先でホケノ山のほうが後に造られたのなら、

 箸墓造営時の不用土器を、

 存在しない古墳の濠に捨てることなどできないし、

 また古墳はなくても外濠だけあって、そこに捨てたのなら、

 ホケノ山古墳を造る時には

 濠に土が入って埋まってしまうはずだし、

 土を掘って古墳を盛り上げた跡が空濠になったのなら、

 そこに過去の土器片が堆積しているはずがない。

 ホケノ山古墳が箸墓より古いことは、

 どこからみても疑いようがない。
 
 卑弥呼の大冢から古墳時代が始まったという主張は、

 この箸墓を卑弥呼の墓だとする限り崩れてしまった。
 
 箸墓を248年とする編年も間違っている。

 箸墓の本当の築造年代は今後の研究課題なのだ。

 『崇神紀』の箸墓物語は、

 大和朝廷を古く見せ、

 権威づけるための時代付け用に、

 アカイヤ伝承を改作して百襲姫の墓に仕立てた、
 
 天武天皇流の8世紀の作品にすぎない。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録14:23・31・32頁」


 過去に「卑弥呼の墓」説が有力視され、

 3世紀以前から奈良に大和朝廷が実在した

 有力な証拠とされてきた箸墓古墳を、

 それほど重要な地位に据えてきたものは、

 『崇神天皇紀』の

 倭迹迹日百襲姫伝説=『箸墓伝説』があるからだが、

 その根拠はただ一つ、

 「ハシ墓」という古墳名が、

 「箸」と同じ発音だというだけのことでしかなかった。

 しかもそれを『三輪山伝説』群や、

 「卑弥呼の位宮との争いと死」の史実と、

 精密に比較検討してみると、

 それは百済(ハッセィ)=長谷(ハセ=ハシ)という

 位宮の名乗りの一つを「箸」のことだと

 誤解した後世人が作り上げた「単なるお話」であって、

 「百済(ハシ)と争って自殺した」という史実を、

 「箸で自殺した」という想像説に変え、

 それを更に、同じ発音をもつ百済(ハシ)人の墓に結びっけて、

 倭迹迹日百襲姫の墓だと思い込み、

 あるいは思い込ませようと意図的に「箸墓」にしてしまって、

 いかにも史実のように

 『崇神紀』に掲載した、というのが真相だった。

 『箸墓』の所在地名「箸中」も、

 これらの国名と同じ性質のもので、

 それは南種子の「長谷・中」を、

 そのまま桜井の一部に付けたものだったと、

 改めて再確認して戴けたはずである。

 だがこれでもまだ

 「箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性がある」
 
 と思う人があるかもしれないが、

 それならこれらの

 「国名の字名」は卑弥呼の女王国を形成していた

 旁国や連邦の国名と一致していなければならない。

 しかしそこには、

 卑弥呼の敵であった邪馬壹国が生まれたあと、

 始めてつけられた国名の

 「薩摩=壹国(サツマ)」や、

 壹與の即位地の「吉隠(ヨナパリ)=与那原」があるのに、

 旁国に合うのは「針」が一つあるだけで、

 連邦国名に合うのも豊前だけである。

 残りは武蔵と伊豆(伊都の子孫)でわかるように、

 どれもがずっと後世の国名ばかりで、

 卑弥呼に関係したものはない。

 では桜井の種子島地名は何を物語るのか。

 ここには藤原鎌足を祭神とする談(タン)山神社がある。

 この「タン山」は「種子・山」で、

 但馬も「種子国(タジマ)」である。

 中臣が中祇(ツミ)だ。

 この地域から西に視野をさえぎる高い山並みは

 葛城連峰だが、

 この葛の字は「フジ」とも読む。

 葛城は「フジのキ」で、

 藤ノ木古墳と同名なのである。

 この地域は明らかに藤原氏の勢力圏ではあるが、

 それは「7世紀」の倭国滅亡当時のものなのだ。

 桜井市には、

 旧別格官幣社の談山神社より格がずっと上の、

 旧官幣大社・大神(オオミワ)神社がある。

 祭神は「倭大物主櫛長魂命」。

 倭は古代の倭国(ウワイ)。

 大物主(ダイブツヌシ)は卑弥呼を指す。

 その次の櫛長の長は、

 今では全く使われていない(𤭖)瓦偏に長と書く字だ。

 いま種子島の宇宙開発センターに近い

 「茎永(クキナガ)」が、

 このクシナガの後身で古代「中」の中心地である。

 この「クシナガ」が地名だということを、

 うっかり見逃してはいけない。

 地名=古代国名だからである。

 「ナ」は国称のラマヤナの一つだから、

 それを「ラ」に置き換えるとクシラ、

 これは「クジラ」の清音であることはいうまでもない。

 この「クシラ」に串良と当て字した地名が鹿児島県にある。

 肝属(きもつき)郡串良町である。

 このことでわかるのは、

 このクシラのほうが、

 クシナよりクジラにより近いということと、

 種子島では国称をナと発音していたが、

 大隅ではラに変わったという事実とである。

 そしてさらに重要なことは、

 串良はクジラとは発音しないが、

 桜井の三輪山から奈良平野を挟んで

 西南西に対立している葛城山には、

 「櫛羅」という滝のある地名が現存していて、

 こちらのほうは「クシラ」ではなく、

 「クジラ」と発音するのだという事実である。

 種子島語のクジラは、

 近くの大隅半島よりも、

 はるかに離れた奈良県御所(ごせ)市で

 正確に発音されていたのである。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録15:3・8・9頁」


  この移動は、

 天智天皇時代に都で流れた諷歌が

 「橘は己(おのれ)が技々生(な)れれども、

  玉に貫く時、同じ緒を貫く」

 と支配者たちの同族意識を諷刺したことで、

 当時の政権支配者が、

 いずれも種子島出身者だった事実を明瞭に雄弁に物語っている。

 念のために書き添えると、

 橘の名は

 「タンネ(アイヌ語で狭長という意味)島=種子国→タジマ=

  但馬国(タヂバナ)=タヂバナ→タチバナ=橘」

 という順に変化して生まれているから、

 橘という名詞と、

 この諷刺が生まれたのは、

 彼らが兵庫県北部の但馬に移動した時期以後のものだとわかる。

 大神(オオミワ)神社は

 ミワという社名ですぐわかる通り

 『三輪山伝説』の総本家である。

 とすれば百襲姫が開けて見て驚いたという櫛笥(クシゲ)も、

 この櫛長という名乗りが連想させたとみるべきだし、

 「大物主」は大仏の師または大仏尼師で、

 卑弥呼以外に該当者はない。

 すると実に奇妙なことがわかる。

 応神天皇を祭る誉田八幡宮の神体山は応神大皇陵である。

 箸墓が本当に

 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫の墓なら大神神社の神体山は

 箸墓のはずだが事実は箸墓から2.5kmも離れ、

 方角もまるで違う三輪山が神体山である。

 また『日本書紀』は山名を三輪山でなく三諸山と書く。

 また森浩一氏らは、

 箸墓は考古学の年代測定でも

 卑弥呼より2世紀以上も後のものだという。

 どこからみても箸墓古墳は卑弥呼の大冢ではない。

 では葛城山の「櫛羅」の滝のほうは、いっ生まれた名か?。

 それをわざわざ「クジラ」と発音しているから、

 部族の名をつけたのではないことがわかる。

 彼らはクダラという有名な国名と部族名を避けて、

 僅かしか違わないクジラにしている。

 このことでこの名は、

 クダラが不名誉な国名に下落した後に命名したものだ、

 と証言している。

 「クダラ」は馬韓のマレー語読みだから、

 半島の植民地百済だけを指す固有名詞である。

 それが白(シラ)村の江=新羅(シラ)潟

 →新羅方=現在の枚(ヒラ)方での大戦で、

 母国である百済倭国=フジワラ=豊日倭国=大阪府豊島郡に

 所在した

 大国の倭国政権が滅びた663年に、

 その植民地百済も消滅し、

 本国に居たり引き揚げたりした、

 その支配者らも敗残者として

 差別民に落とされたのは動かぬ事実だから、

 奈良県の「百済倭国=フジワラ」遺跡は、

 どちらにしても663年の敗戦によって、

 百済倭国政権の残党が大阪をあとに逃げ込んだ痕跡であり、

 櫛羅の名はその事件が何で、時間帯がいつで、 

 当時の難民のクダラに対する感情が

 どんなものだったかまで記録している

 ちょっと得難い強力な「生き証人」だったのだ。

 在来型の史学では思いつきもしなかったような、

 一見極く小さく見える弥馬升や滝の名ていどの言語文化財が、

 実はこのように犯罪捜査のDNAにも似た、

 実に強力な動かせない証拠力をもっているのである。

 次に、

 大神をオオミワと読み、

 その神体山をミワ=三輪山と呼ぶのはなぜだろうか?…。

 大神のオオは「倭」の別音の「ゥオー」であることは、

 すでによくご存知のとおりである。

 大神はまた大隅読みでは「ウカン」であって、

 当て字は

 「字迦之(ウカノ)」御魂(みたま)などと書かれるが、

 これは隼人の姫木山を神体として祭る

 中腹の巨石の下に立つ石柱に彫られている神名である。

 伝承と言語と遺跡が全て一致して

 大神は宇迦之御魂であり卑弥呼だと立証している。

 また和は「ワ・カ」の2音があるから

 「大和之」もウカンで大神・宇迦之と同じだ。

 『古事記』が使う国号の大倭も

 7~8世紀の隋唐音では「ウワ」に対する当て字で、

 これは『隋書』時代の倭国の都・宇和島の宇和や、

 聖徳太子の上の宮の[上=ウワ]と同じ発音、同じ意味である。

 これでみるとミワの「ワ」は、

 倭や和でなければならないから、

 それに冠(かぶ)せた「ミ」は、「御」であって、

 「ミワ」とは御倭または御和を意味する名詞だったのである。

 それはウワと発音する大和・大倭の「大=ウ」を、

 「御=ウ」に変えただけのものだが、

 御倭は「倭」を「ワ」と発音しているから、

 唐代以後の呼び名である。

 ところが『日本書紀』はそれを同じ時期に、

 「三輪・美和」という独立した固有名詞風に変えている。

 これは時の流れによる変形ではなく、

 前記の政策のために改字改作したものと、すぐ分析できる。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録15:10・11・12頁」


  しかし卑弥呼が大神(おおみわ)の実体であり、

 その語源の大倭もまた仏教だったのに、

 全てが仏教ではなく

 神道として神社に祭られていることに注意がいる。

 仮に、卑弥呼の仏教政権が奈良にあって

 3世紀に敗北し自殺したのなら、

 以後の住民には軽蔑の対象でしかない

 敵政権の支配者・卑弥呼を、

 わざわざ神社を建立してまで祭ることなど絶対にないし、

 憎むべき敵を思い出させるような遺跡は、

 5世紀もの間には消されてしまって残らないはずなのだ。

 それだけでなく

 尊敬すべき勝利者・壹與や位宮の神社が

 絶対にあるはずだが、奈良県にはそれがない。

 これは壹與の邪馬壹国が

 奈良になかった事実の動かぬ証拠であると同時に、

 奈良にある卑弥呼関係の地名や遺跡は、

 鹿児島から奈良に移動してきた旧卑弥呼政権の残党が、

 自分たちの固有文化を移住先にも作り、

 固有地名を移住先にもつけた移動の跡であって、

 3世紀のものではなく、

 後世のものであるという証拠でもある。

 ではその時期はいっか?。

 天皇たちの名乗りがその移動の跡を記録している。

 橘の豊日=但島国のフジ=用明天皇

 →蘇我の稲目(イナマ)=猪名国(兵庫中南部)

 →天萬豊日=天満豊島=大阪府中北部=孝徳天皇へと

 移動拡大していった倭国政権が、

 天智天皇に攻められて敗れた大化の改新

 (オオカン改新=大神革命=大阪戦争:乙巳の変)で

 奈良に逃げ込んだ670年以後である。

 この用明天皇から孝徳天皇までの系譜は

 全て男王にされているが、

 これも「倭=女性仏教徒」を意味する国名に合わないから、

 男王・天武天皇による虚偽が混じっていると見抜けるが、

 『日本書紀』は一応、

 真実の支配者だった

 推古天皇から斉明天皇までの女王も挟んでいるので、

 真相は、倭国は卑弥呼の伝統に忠実な仏教国だった、

 と結論できる。

 また推古天皇と聖徳太子との関係が、

 卑弥呼と男弟の関係に完全に一致していることや、

 聖徳太子が法隆寺や四天王寺の創建者として

 記録に残っていること、

 彼が少年時代に仏教擁護戦争を戦った

 対物部(モノノベ)戦争が大きく

 『日本書紀』に掲載されていること等は周知の事実だが、

 さらに、

 それらが全て卑弥呼時代からの不変の国家宗教だったことを

 立証する名詞がある。

 大神(オオカン)=大和(オオカン)

 =倭神(オオカン)=倭上(オオカン)と並べてみると、

 最後の当て字は「ワジョウ」という発音もある。

 この発音に合う称号は、754年に来朝して

 唐招提寺を創建した

 唐僧・鑑真(ガンジン)和上のワジョウで、

 これはオショウと発音する和尚と同じものである。

 それは本来はインドの梵語の

  Upadhyaya =ウパードヤーヤに当たるもので、

 和上・和尚という漢字は

 発音に対する当て字ではないことがわかると思う。

 ところが上記の我が国の倭上は、

 和上・和尚と発音・意味ともに完全に一致するから、 

 その称号は倭国で生まれたものだと、

 容易に確認できるのである。

 これまで検討してきたのは、

 箸墓古墳とその周辺が、

 3世紀の卑弥呼とは無関係で、

 そこにみられるのは

 後世の百済倭国の遺物ばかりであるという事実だった。

 それを『日本書紀』が、

 卑弥呼の正式な名乗りである

 倭迹迹日百襲姫の墓であると書いているのは、

 『日本書紀』は天武天皇らが

 唐政府向け宣伝用に作ったもので、

 自分たちの政権は

 内戦によって生まれたばかりの不安定な革命政権ではなく、

 古代から綿々と継続してきた中央政権だ、

 と錯覚させる目的で作られているためで、 

 3世紀の史実も利用しては居るが、

 それらは小国日本時代の、

 沖縄から鹿児島県での歴史であって、

 奈良県での歴史ではなかったことも明白になった。

 だがさらに念のため次は、

 百襲姫の名乗りを構成している

 古代国名が本当に奈良県のものではないのか、

 なければどこのものか?検討してみよう。

 「倭」の字の3世紀の発音は

 ウワイで鹿児島県国分市の上井だけに残る。

 『隋書』にある倭国は愛媛県の宇和島が首都だから、

 もう「ウワ之国(シマ)」と語尾の「イ」が省略されている。

 奈良県ではさらに変化して「ヤマト」と読んでいるから、

 これは「ワ」と発音した唐代よりも

 さらに後世の発音変化であって、

 3世紀のウワイという発音の片影すらない。

 ところが名詞は発音が主体で文字は従で、

 文字が変わっても発音は変わらないのが原則である。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録15:13・14・15頁」

  「天武天皇製の『記・紀』」によれば

 「反正天皇」に当たる「女王と夫の男王」の、

 その子孫である倭王・武=

 「天武天皇製の『記・紀』の雄略天皇」が、

 やっとのことで奈良県の一角「高市」を取り、

 長谷の地を手に入れて、

 そこにまた観世音を祀る長谷寺を建てたのである。

 『記・紀』はさすがにその「名乗り」で、

 それをよく記録している。

 『古事記』は大長谷若建。

 『日本書紀』は大泊瀬幼武と書くが、

 この「大」は倭(ゥオ)、

 「泊瀬(ハッセ)」は一見して百済(ハッセイ)で、

  倭王らが自称した名乗り「倭・百済・新羅~七国諸軍事~」

 からみると、

 元の倭国はすでに細かく分けられていて、

 泊瀬は百済として扱われていたのである。
 
 高所にあるその長谷・泊瀬の宮の眼下に横たわるのが

 「著墓」である。

 その被葬者は誰か、

 それを記録しているのは、

 倭人だけの前方後円墳をその地域に持ち込んで、

 神聖な墓の名を「長谷(ハシ)墓」とつけ、

 それを永く伝承してきたことが最大不動の証拠だから、

 当時としては、

 唯一、長谷(はし)の名乗りをもつ

 「いわゆる雄略天皇」と、

 その妻「倭女王」しか被葬者はいない。

 だとすれば『日本書紀』は

 この天皇の人としてあるまじき

 非行の数々を列挙しているから、

 その一つを天武天皇の方針に従って

 「百襲姫に故事つけた」のが、

 例の『著墓伝説』なのだという新たな証拠まで揃いはじめる。

 これがもう覆ることのない『箸墓の最終結論』だ。

 『記・紀』が書く記事のウソは、

 黄金塚古墳が暴露してくれた。

 少なくとも反正天皇=倭王・済までは、

 女王制が厳格に守られていた事実が、

 その葬制という動かない証拠になって残っていた。 

 では『記・紀』が書くことは全てウソばかりなのか?…。

 『記・紀』はこの2天皇たちの葬制をどう書いているか、

 調べてみる必要がある。

        皇居       崩年     陵の所在地

 反正天皇記 多治比之芝垣宮   60才  陵 河内之恵賀・長枝 「※」

 反正天皇紀 河内・丹比・紫籬宮 空白   陵 空 白

 雄略天皇記 長谷・朝倉宮    124才 陵 多治比・高鸇

 雄略天皇紀 泊瀬・朝倉宮    空白   陵 丹比・高鷲原

 (「※」本によっては本文にはなく割注に

  「毛受野(モズノ)陵の北」とあるが、

  現在そこには、そんな陵はない)

 『古事記』にはムリに空白を埋めた跡がはっきり見え、

 124才などと現実離れしたことを平気で書いているが、

 『日本書紀』は中国人に笑われるようなことは、

 ここでは書かない。

 だがそれでも、ご覧の通り双方とも、

 この2天皇もまだ奈良には葬っていないと書いている。

 この高鸇・高鷲の今の発音はタカ・ワシだが、

 昔の振り仮名は「タカ・ハシ」で、

 高は高族、ハシは長谷・泊瀬・土師だったが、

 それをタカワシと読む時代になってから

 「高鷲」という当て字をしてしまったのだと、

 簡単にわかる。

 いうまでもなく、

 それらの陵名は、陵が造られたその時に、

 同時に漢字で命名された陵名でも地名でもないことがわかる。

 そうすると残る問題は、

 その「高鸇・高鷲陵」は大阪にあるという点である。

 箸墓は間違いなく奈良県にあり、

 その間を生駒山系が隔てている。

 夫妻の墓が別々になっている。

 これはなぜだろう?。

 それは古代日本の夫婦制度は、

 別居がたてまえで、

 男のほうが女性の家へ通う

 「足入れ婚」と呼ばれるものだったからである。

 では箸墓に葬られている女王は誰だったのであろう?。

 雄略天皇には次のように複数の后妃がいたと記録されている。

 雄略の后妃

 皇后…記 草香の幡梭姫(仁徳天皇の皇女)

    記 若日下部王(大日下王の妹)

  妃…紀 韓姫    (葛城圓大臣の娘)

    記 韓比売(都夫良意富美の娘)

   この妃が清寧天皇と稚足姫(伊勢大神の齋宮)とを生む。

  妃…紀 稚姫    (吉備上道臣の娘)

    記 ナシ

  妃…記 童女君   (春日の和弭臣深目の娘)

    記 ナシ

 (注)幡梭(ハタヒ)

    日下部(クサカベ)

    都夫良意富美(ツブラオホミ)

    和弭(ワニ)  

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録18:4・5・6頁」


  このうちの誰が箸墓陵の被葬者なのか。

 皇后をよくみてみると、

 実に奇妙なことに気づく。

 それは『日本書紀』に、

 皇后・草香の幡梭姫は

 仁徳天皇の皇女だと書いてあることである。

 『記・紀』の系譜を信じるなら、

 雄略天皇は、父・允恭天皇の姉妹と結婚したというのだ。

 仁徳天皇が倭王・讃であることは、

 多くの証拠が揃っていて、

 もう疑いのない事実だから、

 讃と武がいた時代は『宋書』で確実にわかる。

 それには次のように記録があるからである。

 「高祖 永初二年 詔曰 倭・讃 萬里 修貢」。

 この永初二年は西暦421年である。

 武が即位した年は彼が上表した年で、

 順帝の昇明二年、478年で、この間57年経っている。

 讃は元嘉二年(425年)にも上表して間もなく死んだが、

 その年を紀は即位から87年目だと書く。

 彼は即位前に軍隊を率いて兄の大山守と戦い、

 その3年後に即位したから、

 最低に見積もっても百才以上まで生きたことになる。

 そんな父をもつ草香の幡梭姫皇后が、

 父・讃が死んだ年に生まれたと仮定しても、

 雄略天皇が即位した時には、皇后は53才になっている。

 しかし百才以上になった父に、

 実子が生まれることは絶対にありえないから、

 単純計算しても皇后は

 7~80才で雄略天皇と結婚したことになってしまう。

 しかもその間、子供を生んでいないし、

 結婚後も子供はなく、

 跡継ぎの清寧天皇は他の妃が生んでいる。

 この関係は、崇神天皇の父・開化天皇が、

 父の妃・伊香色謎の命を皇后にして崇神天皇が生まれ、

 その崇神天皇が伯父の大彦の娘・御間城姫と結婚し、

 また崇神天皇からみて卑弥呼の倭迹迹日百襲姫とは、

 夫婦ではないが、

 やはり祖父の妹に当たるのと共通のもので、

 同じことは、まだまだ歴代にわたって続く。

 私たちは天武天皇の歴史書き替えの事実を知っているから、

 これらから帰納できる結論は、

 『記・紀』が書く、

 それらの皇后の実像は、

 やはり卑弥呼と同じ宗教女王であって、

 決して天皇の妻ではなかったが、

 『記・紀』の編集者たちは、

 その女王の地位の高さを変えるわけにもいかず、

 それは堅く守りながら

 ムリヤリ男王天皇制に逆転させるとすれば、

 その地位は皇后以外になく、

 どうしても天皇と夫妻にするほか方法がないために、

 一見非常に不合理な、常に老婆を妻にするという、

 正常な人類の社会では絶対にありえない夫婦関係が、

 連続して実在したように見えることになった。

 真実が理解できず外見だけみると、

 これが日本独特の伝統的な天皇の実態だという、

 世界にも類を見ない野蛮で

 異様な幻影が造り出されてしまい、

 天皇家に対する評価を不当に著しく低めて、

 欧米人のひそかな軽侮の的にしてきた。

 しかし今その真相の謎は解けた。

 彼らも今後は、

 みずからの誤解を恥じることになったのである。

 しかし、それがはっきりわかってみると、

 皇后・草香の幡梭姫と雄略天皇の関係は、

 その独特の女王と天皇の関係にぴったり一致しているから、

 草香の幡梭姫皇后が

 倭迹迹日百襲姫や卑弥呼の後継者だったことは、

 疑いを挟む余地がない。

 泊瀬の朝倉の宮、

 すなわち長谷寺にいた倭(ウワイ)女王は

 皇后・草香の幡梭姫以外にはありえないことがわかる。

 すると、

 例の「箸墓伝説」は、

 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫のものではありえないにしても、

 別の老女王の百済姫=ハシ姫の事件だった

 可能性はさらに高まり、

 箸墓古墳の主は老齢の皇后・草香の幡梭姫だと

 断定できる証拠が、さらにまた加わったことになる。

 以上の考証から、より面白い結論が、まだ幾つも引き出せる。

 ① 少なくとも雄略天皇当時には、

   倭国の女王と天皇とはそれぞれ別の宮殿に住まい、

   別の陵に葬られたという事実。
 
 ② もう1つは「大阪」という地名の正確で決定的な語源と

 ③ その時期とだ。

   それは「大=倭・阪=塞」で、

   これは「倭塞=ウワサカ=優婆塞=男性仏教徒」が

      「倭塞=オーサカ」と発音されるようになった後、

 ④ シラバッガの継承者=シンドゥ国の日本政権(実行者)が、

 ⑤ (理由)優婆塞という仏教名を忌み嫌って消去するために

 ⑥ (口実)「大きな坂があるからだ」という

   「故事つけ」を作ってつけたのである。

 だが砂漠のような平坦な土地にでも坂のないところはない。

 むしろ奈良のはうが、

 はるかに大坂と呼ぶに相応しい地形に満ちている。

 このていどのことにも気づかずに、

 今でもまだ「大きい坂」説を信じて、

 知性の欠如を宣伝し続けている人や書物があるのは悲しい。

 こうして皇后が、

 実は大国・倭国の仏教女王だったことが確認できると、

 その草香幡梭姫という名乗りの読み方は一つしかなくなる。

 草はソウの

 頭音「ソ」、

 香は「カ」、

 幡はハタの頭音「ハ」、

 梭は従来通り「ヒ」だが、

 発音は大隅式に「シ」と読まなければならない。

 すると「ソカハシ」、

 これには「蘇我・箸」姫と当て字したはうがよくわかるが、

 蘇我は後世の当て字の一つで、

 その本来の発音はソナカだったことは、

 もうよくわかっているから、

 『古事記』風に書くと皇后の名は

 「息長長谷(ソナカハシ)比売」、

 間違いなく神功皇后→応神天皇→仁徳天皇の後継者で、

 雄略天皇の皇后、長谷寺の尼女王で

 箸基の被葬者だったことが決定的にわかる。

 これで宿題の箸墓問題は完全に解決したと思うが、

 いかがだろうか。

 ここでお断りしておくのは、

 今ある長谷寺はこの尼女王のハセデラではなくて、

 養老5年に道明上人が天武天皇のために三重の塔を建て、

 さらに神亀4年に聖武天皇の勅願で徳道上人が

 堂宇を建立した新義真言宗の総本山で、

 寺名もチョウコクジと読むのが正しい。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録18:7・8・9・10頁」

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