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≪ヤマトはバビロニヤの古代地名 ≫
3000年以上前の<縄文人>が、
現代人と余り差のない企業を営んでいた。
これまで教えられてきた縄文人のイメージと
余りにも違いすぎるとお思いではないだろうか。
でも彼らはなぜ?、そんなにも高い文化をもっていたのだろう?。
カリエン人の先祖はハムラビ法典で有名な
バビロニヤ第一王朝人だという。
だが、さらに掘り下げてみると、
より詳細にそのルーツの真相が明かになった。
一例をあげると、
ハムラビはラルサ王の本拠地
「エラムのヤマトバル」で
ラルサ王・リム・シンを捕虜にし、
アッシリアの全土を征服合併して大統一帝国を作った。
このラルサの地名に注意がいる。
エラムは永良部と、
ヤマトバルは大和原と、
という沖縄~南九州型地名なのだ。
バビロン人よりも<ラルサ人>のほうが、
カリエン人の先祖として、
より相応(ふさわ)しい。
だがそのバビロニヤも、
ハムラビ王の時代を最盛期にやがて衰えはじめ、
5代、150年続いたが、
紀元前1530年にカッシイト人に敗れて滅亡し、
国民は難民となって大半が国外へ流失した。
また国外脱出しなかった人たちの子孫は、
のちに勢力を盛り返してカルデア王国をつくり、
メソポタミヤ平原の支配者に返り咲いた。
その子孫には今また衰えて迫害されているクルド人がいる。
こうした名前を比較してみると、
カルデアンとカリエンは方言関係にある。
また日本の代名詞のようにいわれてきたヤマトという国号も、
現実には古代バビロニヤからやってきた人々が、
移住とともに運んできた、
はるか西方の古い地名だったことがわかる。
しかしヤマトという国名が正式に採用されたのは、
718年、元正天皇の養老2年に発布された
『養老律令』以後のことである。
だが752年=天平勝宝4年、
孝嫌天皇は奈良大仏の開眼供養に合わせて、
完全な仏教女王国復活を祈って国号をもとのウワに戻し、
それに「大和」という当て字を初めて採用した。
この<大和=ウワ>の文字が、
まるで無関係な発音の「ヤマト」とよまれるようになったのは、
孝謙天皇が藤原の仲原呂の推す淳仁天皇に譲位したが、
橘の諸兄(もろえ)や藤原の仲原呂らと激突したあと、
再び<称徳天皇>として重ねて即位したものの、
弓削の道鏡の事件で勢力を失い、
仏教国「大和=ウワ=倭」復活の夢は永遠に消え、
光仁天皇即位後は男帝国の「日本」が国号として定着し、
大和までが「ヤマト」とよまれることになづた。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会・大学講義録9:25・26頁」
「言語復原史学会・大学講義録9:25・26頁」
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