2015年8月22日土曜日

ヤマトはバビロニヤの古代地名


 ≪ヤマトはバビロニヤの古代地名 ≫

 3000年以上前の<縄文人>が、

 現代人と余り差のない企業を営んでいた。

 これまで教えられてきた縄文人のイメージと

 余りにも違いすぎるとお思いではないだろうか。

 でも彼らはなぜ?、そんなにも高い文化をもっていたのだろう?。

 カリエン人の先祖はハムラビ法典で有名な

 バビロニヤ第一王朝人だという。

 だが、さらに掘り下げてみると、

 より詳細にそのルーツの真相が明かになった。

 一例をあげると、

 ハムラビはラルサ王の本拠地

 「エラムのヤマトバル」で

 ラルサ王・リム・シンを捕虜にし、

 アッシリアの全土を征服合併して大統一帝国を作った。

 このラルサの地名に注意がいる。

 エラムは永良部と、

 ヤマトバルは大和原と、

 という沖縄~南九州型地名なのだ。

 バビロン人よりも<ラルサ人>のほうが、

 カリエン人の先祖として、

 より相応(ふさわ)しい。

 だがそのバビロニヤも、

 ハムラビ王の時代を最盛期にやがて衰えはじめ、

 5代、150年続いたが、

 紀元前1530年にカッシイト人に敗れて滅亡し、

 国民は難民となって大半が国外へ流失した。

 また国外脱出しなかった人たちの子孫は、

 のちに勢力を盛り返してカルデア王国をつくり、

 メソポタミヤ平原の支配者に返り咲いた。

 その子孫には今また衰えて迫害されているクルド人がいる。

 こうした名前を比較してみると、

 カルデアンとカリエンは方言関係にある。

 また日本の代名詞のようにいわれてきたヤマトという国号も、

 現実には古代バビロニヤからやってきた人々が、

 移住とともに運んできた、

 はるか西方の古い地名だったことがわかる。

 しかしヤマトという国名が正式に採用されたのは、

 718年、元正天皇の養老2年に発布された

 『養老律令』以後のことである。

 だが752年=天平勝宝4年、

 孝嫌天皇は奈良大仏の開眼供養に合わせて、

 完全な仏教女王国復活を祈って国号をもとのウワに戻し、

 それに「大和」という当て字を初めて採用した。

 この<大和=ウワ>の文字が、

 まるで無関係な発音の「ヤマト」とよまれるようになったのは、

 孝謙天皇が藤原の仲原呂の推す淳仁天皇に譲位したが、

 橘の諸兄(もろえ)や藤原の仲原呂らと激突したあと、

 再び<称徳天皇>として重ねて即位したものの、

 弓削の道鏡の事件で勢力を失い、

 仏教国「大和=ウワ=倭」復活の夢は永遠に消え、

 光仁天皇即位後は男帝国の「日本」が国号として定着し、

 大和までが「ヤマト」とよまれることになづた。

  ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録9:25・26頁」

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