2015年8月22日土曜日

三角縁神獣鏡の正体


 ≪三角縁神獣鏡の正体 ≫

 卑弥呼の鏡ではなくても、

 三角縁神獣鏡は日本の建国史にとって

 最も重要な文化財の1つである。

 その正体については、

 すでに『建国前夜の巨大連邦発見』で詳しく解明ずみだが、

 通俗書のため、

 出版社の編集時に、

 専門的な部分が大量に省かれているので、

 話題になったついでに、

 今ここで僅かでも補足して、疑点が残らないようにしておこう。

 日本では鏡の縁の断面が

 三角になっていることに注意を奪われている嫌いがあるが、

 主要度では画像と銘文のほうが上である。

 神獣鏡という命名で、人物像は神だとわかるが、

 その理由は「東王父・西王母」と銘文に書いてあるからである。

 この神仙の名は道教のもので、

 インドのシンドゥ教の中国版である。

 神獣鏡は秦代頃から造られているから、

 秦の始皇帝が心酔した方士たちめ宗教用具として誕生し、

 発達したことは間違いない。
  
 卑弥呼は仏教徒だから神仙は宗教上の敵である。

 そんな鏡を喜ぶわけがない。

 また日本に仏教が入ったのも彼女の時代なのだから、

 それ以前の鏡にある像は全て仏像ではない。

 神像をわざわざ彫った三角縁神獣鏡は、

 絶対に卑弥呼の鏡であるはずがないのである。

 だが三角縁鏡は卑弥呼時代前後に造られている。

 これが卑弥呼鏡説を生んだのだが、

 魏の政府が彼女用に特製したのなら、

 必ず全部に尚方製の銘文があるはずなのに、それもない。

 では三角縁神獣鏡は、

 史学にとって、どんな役に立つのだろうか?…。

 それは古墳時代人の宗教が、

 神仙をあがめるシンドゥ教だったことを記録し、証明している。

 古墳に葬られている人々はシンドゥ教徒であって、

 仏教徒の倭国人ではない。

 彼等は卑弥呼と対立して卑弥呼政権を倒した

 邪馬壹国人と、その仲間たちだったのである。

 そのことは卑弥呼が共立された時代から

 彼女が死ぬまでの弥生末期の、

 北部九州の埋葬遺跡が全て古墳でないことで、

 充分立証できるし、

 彼女の宗教「仏教」の後継者だった女性天皇たち=

 推古天皇や斉明天皇と、

 その擁護者だった聖徳太子までが、

 古墳でなく墓地に葬られていることが、

 動かせぬ証拠として厳存しているので、反対の余地はない。

 古墳を造る人々が、

 統一政権を握った時期からを古墳時代として

 区分するとすれば、

 それは山上王・位宮が卑弥呼政権を倒した瞬間で、

 魏の正始8年(247年)のことである。

 もちろん古墳人はそれ以前からいたから、

 これは発掘考古学でいう古墳時代とは無関係である。

  だが時間的にあいまいな発掘考古学と違って、

 総合史学なら古墳時代の真の出発点を、

 こんなに完全に精細に特定できるという事実を、

 三角縁神獣鏡が明確に教えてくれるのだ。

 それがどんなに役立つ貴重な文化財だったか、

 改めて確認して戴きたいのである。

 三角縁神獣鏡より以上に、

 「卑弥呼の鏡か?」と騒がれていたのは、

 卑弥呼が魏に始めて遣使した年の翌年=

 景初3年の銘文をもった

 略称『和泉景初三年鏡』で、

 これは大坂府泉南市の前方後円墳

 「和泉黄金塚古墳」発掘調査で

 判明した副葬品のひとつである。

 この古墳は全長85m、前方邸の長さ28m・幅34m・高さ6m、

 後円部直径57m・高さ8mあって、

 南北に長く、後円部中央に棺槨3つ、東西に並んでいた。

 『景初三年鏡』が入っていた中央の棺は、

 遺骨はないが副葬品が鏡と玉類だけなので、

 彼葬者は女性とされる。

 東棺には頭部部分に

 中年以後の男性の歯と僅かな遺骨のの破片があった。

 西棺は刀剣・甲冑・鏃などから男性とされ、

 高位の女性を中央に、

 男性2人が左右を守る形になっているので

 卑弥呼の墓かといわれたが、

 古墳の構造や副葬品の形式年代から

 4世紀に築造されたもので、

 高位の人の古墳ではあるが、

 卑弥呼の墓ではないことになった。

 和泉(いずみ)の語源は「倭済」で、

 倭の五王の一人「済」の領土だったことになる。

 この倭・済と反正天皇の名乗り「多・遅比」は

 共にオオ・ジヒと読める。

 塚名の黄金はオオキンと読めるから、
 
 大君の南九州発音と同じである。

 これが行方不明の反正天皇陵だとすると、

 4世紀の倭国が女王制だったことを証明する

 凄い遺跡ということになる。

 黄金塚古墳の被葬者は女性を中心に、

 左右を男子の武人二人が守護するように寄り添って葬られている。

 これを壹與の墓に見立てた学者もいた。

 しかし壹與は時間差よりも、新羅の始祖王だから、

 先にお話しした戒律シラバッガに厳重に拘束されており、

 むろんその子孫もその戒律を厳守した。

 女性と分かりきった赫居世を、

 『三国史記』「新羅本紀」がムリヤリ男性として扱っているのも、

 そのシラバッガの戒律のためだったのである。

 黄金塚被葬者の女王制と、

 景初三年鏡の副葬という葬制、

 『宋書』や『唐書』の記録が立証するのは、

  この古墳は女性崇拝と鏡を厳禁した

 邪馬壹国の後身=新羅や日本人の墓では絶対になく、

 間違いなく真の「優婆夷=倭(ウワイ)」で、

 卑弥呼の後継者だった大国・倭国の女王の墓だということである。

 これが、南九州の果てで卑弥呼が敗北して死んだ後、

 その後継者の黄金塚のヒロインが、

 そこから直線で550km離れた和泉で死んで、

 景初三年鏡を副葬するまでに200年以上かかった、

 その距離と時間の経過を示す真実の歴史なのである。

 また『記・紀』はそのころの天皇を全て男王として描いているが、

 黄金塚が教える真相は、

 和泉王朝には少なくとも一人は女王がいたという史実である。

 そしてイズミは倭済だから、

 倭の五王の「済」と一致し、

 観世音菩薩を本尊とする古寺・水間寺が近くにある。

 水間は水まで、古い沖縄発音だとミズバである。

 倭の五王はすでにお話ししたとおり、

  讃は仁徳天皇。

  珍は履中天皇。

  済は反正天皇。

  興は允恭・安康天皇。

  武は雄略天皇である。

 反正天皇の名乗りは「瑞歯(ミズバ)別」だから

 ミズバ=ミズマ=水間である。

 そこに水間寺があるのは偶然ではない。

 多くの例証によって倭国の皇室の特質は、

 姫木山と卑弥呼と同じく、

 寺の名と天皇の名乗りの発音が一致すれば、

 その古寺は元皇居だったという証拠になる。

 さらに黄金塚の名も強い傍証になる。

 これを文字通りの金属名だとしては、全く無意味に近いが、

 「黄」をオウ、「金」をキンと漢音で読むと「オウキン」、

 「大君(おおきみ)」または「倭王(オウキン)」の


 九州発音に一致する。

 この地域の住民は九州からの移住者だ。

 埋葬当時の呼び名が残っていた間に、

 後世人が、わざとか、洒落てか、

 「黄金」と当て字したことが見えてくる。

 こうして和泉倭国の皇居が見つかると、

 そこで観世音菩薩を祀っていた優婆夷女王こそ、

 2人の武人と景初三年鏡に守られて眠る、

 この黄金塚古墳の主だと確認できる。

  ※参照:このブログ(和人が造った三角縁神獣鏡)

  ※出典:加治木義博
       「言語復原史学会・大学講義録10:36・37・38頁」
        「言語復原史学会・大学講義録17:30・31頁」

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