2015年8月25日火曜日

シアルク文明:(さろく=歩き回る):商人文化


 ≪シアルク文明:(さろく=歩き回る):商人文化≫

 縄文文化(JOMON CUL)・商人(シアルク=さろく=歩き回る)

    沖縄文化 貝貨幣産業⇒殷

    霊ライン⇒殷  ⇒⇒古墳文化

    稲敷文化

    干支圏

 弥生文化(YAYOI CUL) 

  シアルクという文明の名が、

  今も南九州地方で使われている

  「さるく=仕歩(しある)く=歩き回る」

  という言葉と完全に合い、

  シアルを中国訛りで発音したシァウにも

  「商」の当て字がピッタリ合うことから、

  そこに殷・商人の出自が考えられるところまできた。

  「商人文化」は殷時代前後に始まったのではなく、

  世界最古のエジプト早期王朝と並ぶ

  ペルシャのシアルク期や

  西域のアムリ期からのものだったことが見えてくる。

  そしてそれがシベリヤの

  ミヌシンスク文化にまで届いているのもみえてくる。

  商人たちの血と文化が、沖縄の宝貝貨幣文明を生み、

  その文明が殷・商文明から中国の統一を生み、

  それが文字・言語の発達を進め、

  学問の体系を整えさせたからである。

  中国文明はラクダをつらねたキャラバンによって、

  シルクロードで西に文化を伝えたが、

  それは紀元前3000年以前に西からやってきた

  シアルク=仕歩く(日本語)文化の子孫だったのである。

  エジプトに初めて王朝が生まれた頃から

  東西を結ぶ行商を繰り返していたのだ。

  その物的証拠はまだ見つかっていない。

  しかし、こうして名詞は残り、それで史実を復元できる。

  しかし殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、

  稲敷を故郷だと証言している。

  このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

  隋・唐代まで遅れた事実とともに、

  太古の往来は海路だったために、

  インド亜大陸沿いに往復した商人が、

  中国より日本列島に早く来ていたことを証言している。

  ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

  これはギリシャ人が来たコースも教える。

  彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。
  
  アレクサンドロスがダリウス王を倒して、

  自分はその皇女と結婚し、

  そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした

  「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

  さらに東のインドへと出発したとき、

  陸路をとった大王軍とは別に、

  海上を進んだ別動隊だったのである。

  彼等は、

  インド北部で病を得てギリシャへ引き返した

  大王の情報を得られぬまま、

  インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

  そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、

  建国の地に選んだ新天地が、

  気候温暖な理想郷「ホーライの国=台湾」だったのである。

  するとその眼の前には、

  意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

  目と鼻のさきにある小島を取って

  イオニヤ国く基地)にしたギリシャ人たちは、

  沖縄の島々を或いは戦って取り、

  あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して

  先住民に溶け込みつつ、

  さらに拡がっていった。

  我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

  「商人」が誕生した地域を、

  冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

  その商人独特の慣習が、

  大貿易港のベンガルに残り、

  江戸の魚河岸に残るのは、

  やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→

  東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

  縄文時代の海上交易の名残だったのである。

  ギリシャの人たちも、

  何の知識もない

  「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

  偶然やってきたわけではない。

  ホメロスの作品や神話などとは別の、

  現実的な世界観の中で、

  はるか東方に四季の鮮明な、

  美しいホーライの女神たちの国に

  たとえられる島があることを知っていたのである。

  そして一(ひと)足早く出遭った台湾の環境につられて、

  これこそホーライの国だと信じたために、

  その名が後世、

  フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

  でも中国人はその誤りを知っていた。

  なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

  命令を受けた徐福は、

  山東半島から東に向かって船出した。

  その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

  「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

  「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

  日本列島にあったのである。

  台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、

  見える程の位置にある。

  いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

  彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。

  ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

  これはギリシャ人が

  始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

  始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

  ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

  こうして整理すると

  古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

  私たちが日常体験しているような、

  ハツキリしたものだとわかる。

  我が国へ来たギリシャ人は、

  どんな人たちが、

  何を目的に、いつ、どこを出発して、

  どこを通ってやってきたか。

  そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

  それは天照大神=卑弥呼を生み、

  応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

  それ以前にすでに領土を拡大して、

  中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

  年表にして見ると、

  弥生時代そのものが

  ギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

  そして、さらにそれに先行して、

  西アジア古代文明もまた、

  我が列島まで届いていたことも読み取れた。

  こうして在来の史学では想像もできなかった

  巨大な問題群が、疑いが残らないほど確実に、

  そして大量に解明できたのである。

  それを、

  これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

  完全といっていいほどに、

  卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

  ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録20」

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