2015年8月24日月曜日

ドンソン文化


 ≪ドンソン文化≫

 ベトナムのドンソン発掘の銅鼓の絵が、

 エジプトの葦船(あしぶね)と同じタイプであることや、

 インドネシアからフィリピンまでの帆船が、

 地中海スタイルの三角帆であることなど、

 より古い時代からの人と文化の流れが見てとれる。

 ドンソン文化の名で知られる

 インド支那半島出土の銅鼓に書かれた船の絵は
 
 その羽状の多くの表現から天空を翔ける神と

 その船を表現したものだとされているが、

 紀元前1500年頃のエジプトの船と比較して戴くと、 

 この両者が非常によく似ていることに気づかれると思う。

 またその形だけでなく

 エジプトの船は本来葦船だったものからの発展で

 一方の端の扇状の飾りは葦を束ねた

 末端の名残りを止めたものである。

 そして銅鼓の船には

 明瞭に葦の束を結束した船体が描写されている。

 両者ともに見張台があり帆柱がある。

 方向舵も同じものだといっていい。

 唯一つ異なるのは

 一方は帆であるのに

 一方は羽のようなものになっている点である。

 しかしそれは共に風によって運ばれるものである。

 天上の旅は帆よりも羽の方がより適切であるという発想は、

 やはり帆を知るもののみが抱きうるアイデアである。

 漕手が居ないことも注意を要する。

 カレンのクサビ太鼓は昔は銅鼓が主体で、

 太鼓はその予備だったという。

 この銅鼓は1924年から、

 フランス人パジョ氏が、

 ベトナムのドンソン遺跡を発掘した際に発掘され、

 古代からの青銅器として学界の注目を集めたが、

 中国貴州省の苗族や雲南省の彜(い)族は

 今も全く同型の銅鼓を使い続けている。

 家屋文鏡とつながりのある楽器もまだ生きているのである。

 [銅鐸人]の弥生人は、

 紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から

 立派な銅鼓が出ているので、

 そのあたりからの移住者だったことがわかっています。

 中国には今も銅鼓を太鼓のように使っている

 ヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、

 日本でも銅鐸の出土する地域には

 八尾、八百井、矢追、八百板などという

 地名や姓が残っています。

 これから考えると弥生時代の名の起こりになった

 東京都の「弥生」町の名も、 

 古代にはヤオ人が住む「弥=ヤ・生=オ」と

 呼ばれた土地だったものが、

 時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、

 ヤヨイと訛ったものだとわかります。

  ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録38:30頁」

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