2015年8月23日日曜日

茨城県稲敷郡阿見町福田


 ≪茨城県稲敷郡阿見町福田≫

 殷以後の中国青銅器文明が、

 結局はカリエン(カルデア人=スメル人)の

 貨幣経済の副産物であり、

 それは茨城県の稲敷を経由して中国に渡り、

 そのコースに2200kmのレイ・ラインを設定して、

 カルデア天文学の遺物として現在まで残した。

 ということになる。

 その聖なるラインの基点は阿見町の福田貝塚である。

 それはもうご存知のとおり殷墟から出土した

 「青銅人面盉」(ワシントンのフリア美術館蔵)と

 全く同じ多数のアイテムをもつ

 「人面注口土器」(西宮の辰馬史料館蔵)が、

 この福田貝塚から出土したからである。

 これは両者が同一の信仰と文化をもつ人々の手になるもので、

 稲敷のイナと殷のインとが、

 同じ血、同じ言語、同じ信仰、同じ文化、同じ歴史をもつ

 人々のものであることの、動かぬ貴重な傍証であり、

 36度線上に測量し設定されたレイ・ラインが、

 単なる偶然ではなく、

 当時はカルデア人以外には見られない天文学と航海測量学の、

 非常な高文化の遺跡であり、無形文化財の最たるものが、

 何びとでも自由に地図上で確認できる霊域ラインの東西に

 層をなして現存しているのである。

 またその東端の東にある地名の「福田」も、

 大隅音で「福」はフッ、「田」は<デン>で、

 薩摩音ではホッデンである。

 これは「日津出(ホッデ)ン」すなわち

 鹿児島語で「日の出の」という

 地名への当て字だったのである。                         .
 これはこの霊域線が、

 西端の殷墟から36度線上を真東に見るもので、

 その東端が「日立=太陽が昇るところ」と呼ばれていることで、

 間違いない事実だと確認できる。

 いや、それだけではない。

 この「日の出」は、鹿児島語で読むと、

 さらに深い意味が読み取れて、

 この霊域線が何のためのものか…、

 何時の時代に…我が国へでやって来たか…から、

 古代の小国・日本は鹿児島県にあったことが史実であることまで、

 徹底的に立証する。

 鹿児島語では

 「出る」は「ヅッ」、

 「来る」は「ク」と発音するから、

 スメル語を用いて

 「日」を「マル」と読むと、

 「日が出て来る」は、

 「日(マル)出(ヅ=ドゥ)来(ク)マルドゥク」になる。

 これはバベルの主神「マルドゥク」が、

 「マル=円=太陽」であり、

 「ヅク=出来」すなわち

 「出てくる円形神」という神名をもっていることで、

 どこから見ても疑いなく、

 日殷の信仰は明らかにバベルと同じ太陽神崇拝である。

 我が国には古来、

 薩摩に「日の丸」の船(ふな)じるしがあり、

 赤丸で「日」の国を表現して来たが、

 それが幕末の英主・嶋津斉彬(なりあきら)によって

 我が国の国旗に選ばれて、

 明治に正式に国旗になり、

 今では人類の全てが日本の名と日の丸を知っている。

 鹿児島が古代の小国日本で、

 その名はニップルから出たことは既に確認した。

 そこに日の丸の旗があり、

 それを「日のマル」と呼んでいた。

 それはバベルの主神の名の謎を解き、

 日本語とスメル語との関係と、

 福田の<フツデン>がなぜ薩摩語なのかを説明しているのである。

 稲敷の阿見町に今も残る福田は、

 最初はマルドゥクの村だったが、

 「日の出」の当て字がホッデンと読まれるようになって

 「福田」という当て字に変わり、

 周辺一帯が日の立つ所=日立と呼ばれたが、

 後に日の昇る地という意味が嫌われて、

 <ヒタ>には「常」が、<チ>には「地⇒陸」が当てられて、

 「常陸」になったのは「大化」革命の遺物である。

 これは我が国の地名が、様々に変化する事実と、

 発音が先にあって、

  後から当て字されるものだという事実を物語っているのである。

  ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録38:19・21・22・23頁」

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