2015年8月22日土曜日

「民族学」の見たスサノオ


 ≪「民俗学」のみたスサノオ≫

 島根大学講師当時に語られた速水保孝氏の次の説は、

 異なった見方を教えてくれる。

 それを要約すると、次のようになる。

 * 『記・紀』の基になったものは、

   弥生時代の稲作人たちが持ってきた話である。

   その足と手を使って造った稲田が、

   脚摩・手摩・稲田媛という名詞の意味なのだ * 

 といった解釈で、次のような結論を引き出している。

 * それが豪雨による水害で破壊されてしまう。

   それを八俣大蛇の仕業だとしたものが、

   スサノオ伝説なのだ。

   だから出雲は特にヘビ信仰が強いのである。

   それは八俣大蛇の姿をば

   「眼が真っ赤。腹が血で赤く爛(ただ)れている」

   と書いている。

   これにもこの地域独特の、密接な理由が考えられる。

   それは船通山(鳥髪山)1143mを源とする

   <斐伊川>などは水の色が赤い。

   それは鉄鉱石が多くて、

   大量の砂鉄が川底を流れる>せいなのである。

   この鉄を用いるために古来、

   タタラ送風機を使って高温をつくり鉄鉱を溶解して銑鉄を

   造ってきた。

   その時の溶鉄の流れもまた異様に赤く輝いて、

   いかにも赤く爛れた怪物の腹を思わせる。

   スサノオは朝鮮半島から渡来したというから、

   先進地の製鉄や治山治水技術をもっていた。

   スサノオを祭るこの集団が尾鰭をつけて神話を作った。

   作り話の背景には歴史がある *

 この説は、

 八俣大蛇の正体は、

 出雲独特の鉄の赤錆が彩る荒れた川で、

 それを治水技術で改修した先祖の功績を、

 スサノオの大蛇退治という比喩で表現して、

 神として祭ったのだという分析である。

 今流に言えば

 「環境行政の功績」を教える「喩え話」なんだというもので、

 お伽話を鵜呑みにせず、

 科学的に結論した優れた知性の産物に見える。

 しかし問題がある。

 それは、

 では天皇家は、

 スサノオの子孫だと主張しているのだから、

 朝鮮半島出身の製鉄工人の子孫だということになる。

 スサノオは天照大神の弟で、天=沖縄から日向出身である。

 それを何故?半島出身者が祖先として祭るのか?。

 次々に疑問が殖えて、

 私たちが今求めている天皇家のルーツをたどる歴史とは

 無縁なものになっていってしまう。

 実はこの速水説は、史学ではなくて、

 柳田邦男や

 折口信夫(釋超空)や

 松本信廣、

 松村武雄、

 肥後和男らの

 主張した「民俗学」の見方なのである。

 それはどんな風にスサノオを見ているか知っていないと、

 これから先、脱線してしまうから、

 要約してご覧に入れよう。

 ※スサは進む・荒ぶという意味、

  または出雲・紀伊にある地名。

  <建>も<速>も勇武の形容詞。

  嵐の神だとする自然神格説と

  出雲系氏族の祖神とされる人文神・英雄神とするのが

  一般的だ。

  この神が天に昇ると国土が揺れ動き、

  泣くと山の木が括れ、海も川も干上がってしまう。

  これらは巨人的な性格をあらわしいる。

  天照大神に対する敵役と

  出雲での英雄神・文化神ぶりは全く対照的だ。

  これは別の2神が後に同一視された結果だろう。

  天で農耕をさまたげ、新嘗の神聖を穢した罪で、

  髪や爪を抜かれて重荷を負おわされて追放されるのは、

  穢れ災厄を担わされて祓われる

 「形代(かたしろ)」の人格化であり、

  天の岩戸の物語りでは、

  尊貴を殺して天地を暗くする邪霊の役割で、

  宮廷の祭儀と神話では敵役である。

  それに対し、

  出雲地方や、出雲と文化的に密接な紀伊地方では、

  人類に福祉を授ける恩人とされている。

  また父に根の国に行けと命じられ、

  高天原から根の国に追放され、

  大国主が根の国を訪れると、根の国の支配者であったり、

  木種を分布させ終えると熊成峯から根の国に入ってしまう。

  根の国は死者の国だが、一面、ニライカナイ同様、

  生命と豊穣の源泉>だとも信じられていたらしい。

  『日本書紀』の一書に、 

   追放されると青草を束にして蓑笠にし、

   宿を乞うたとあるのも。

  豊を根の国からもたらす「まれびと」の姿で、

  『備後風土記逸文』にある

  <蘇民将来>を訪れた<武塔神>は

  「わしは素戔嗚の尊だ」と名乗る。

  彼が<大気津比売>や大蛇を殺し、

  大小の須佐田を定めた(『出雲風土記』)というのも、
 
  本来出雲の豊穣神が、

  後に朝廷の祭儀で邪霊とされたもので、

  号泣したのも司祭の狂踏乱舞を写したものという。*

 スサノオの尊は「神話」だと言って

 『神話学』で全て説明しようとし、

 いや信仰だから『宗教学』だといい、

 いやそれは民間の風俗習慣から生まれた伝説の一種だから、

 それらを総括して研究する『民俗学』でなければ

 正しく把握できないと言われてきた。

 その結果でた結論が以上のようなものだったのである。

 その結果、

 ご民俗学ではスサノオはご先の通り民間信仰の厄払いに使う

 「形代(かたしろ)」にまで墜ちてしまった。

 私(加治木義博)は30年前から倭人のルーツ調査に、

 台湾からミャンマーまで東南アジアの住民を訪ねてまわった。

 その間に各地で我が国の形代と同じものに出会った。

 それはバナナの葉や、他の広葉樹の広くて大きな葉や、

 木の皮を人の形に切ったものだったりしたが、

 我が国の形代は材料が紙だというだけで、

 その形も目的も信仰も全く同じだった。

 そればかりでなく同時に、

 藁や樹枝を束ねて丸い輪にした

 「茅の輪(ちのわ)」があった所も多かった。

 何のことはない。

 民俗学が言う日本人は、

 いま東南アジアの至るところに現存しているのである。

 だが、そこには1か所も、スサノオの尊は愚か、

 似た伝承を思わせる神も人物も伝わってはいなかった。

 「形代(かたしろ)とスサノオの尊」は

 関係があるように見えたが、やはりは、

 我が国だけの実在人物で、

 形代信仰とは無関係だという明確な定義が確立したのである。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録30:16~19頁」
 

  

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