2015年8月2日日曜日

和泉黄金塚古墳


 ≪和泉黄金塚古墳≫

  近畿陶芸産業の中心地・和泉は

 「景初三年鏡」を副葬していた

 「和泉黄金塚古墳」がある地域である。

 この鏡はその年号からみて、

 卑弥呼が魏から貰った百面の鏡の一つである

 可能性が高いというので、

 邪馬台国畿内説を非常に勇気づけ、

 一時は「黄金塚こそ卑弥呼の墓だ」と

 主張する人物まで現われたが、

 この古墳の発掘研究者の一人である

 森浩一氏(元同志社大学教授)らが、

 年代測定上、それはありえないと否定して、

 卑弥呼の墓説は消滅してしまった。

 念のため森氏の説を朝日新聞社刊の

 『邪馬台国のすべて』から抜粋しておこう。

 「語りかける出土遺物」

 森浩一「『和泉黄金塚古墳』(昭和二十九年)

 という報告書では

  4世紀の中ごろか、その後半であろうと書いたのです。

  (中略)日本の古墳の年代を決める場合、

  有力な材料に使っておったのが天皇陵とその年代でありました。

  (中略)が意外と積極的に証明する資料がない。

  最近では古墳時代に関するほとんどの天皇陵を

  私は疑っております。

  (中略)天皇制の学問への呪縛から自由になろうと思うのです。

  (中略)黄金塚古墳の年代は、私は現在では5世紀の初頭まで
  下げなくてはいけないと考えています。

  それは日本の古墳との比較からも、

  また東棺にあった新羅の慶州の古墳からよく出る

  長さ六センチある水晶の切り子玉が、

  朝鮮の古墳との関係の手掛かりをあたえています。」

 氏は続けて

  「仮にこの鏡が二三九年に魏でつくられ、

   その年かその直後に日本列島に運ばれてきたとしましても、
   の古墳に埋めらるるまでの約二百年はどこで

   どのようにして保持されていたのか。」

 と結んでいるが、

 この鏡には実に大きな意義があり、答えがある。

 5世紀の古墳が卑弥呼の墓でないことは誰にでもわかる。

 それなのに卑弥呼当時の年代を彫った鏡が副葬されていた。

 これは、たとえどんな遺物が出ても、

 それだけでは卑弥呼の墓だと断定する証拠にはならない、

 という、

 発掘考古学の限界を教える重大な教訓なのだ。

 従来は何か出るとすぐ

 「邪馬台国だ!」と狂喜宣伝する考古学者が続出したが、

 景初3年鏡でも、こんなふうに証拠にはならない。

 粗雑な史観と売名に毒された似非学者には、

 真の史実はとても復元できない現実の厳しさを、

 はっきり頭に焼きつけておいて戴きたい。

 それより5世紀にも鏡を貴び、

 副葬する伝統を持ち続けた人々が、

 土師器と須恵器産業の経営者だったという事実と、

 その最高支配者らが、

 卑弥呼の鏡を意識して所有し続けており、

 景初三年の文字が

 権力の象徴として強力に役立っていたということ、

 その鏡は200年を超えて伝世されてきたのに、

 その伝統がこの黄金塚の主葬者で断たれて、

 死骸と共に葬り去られた事実。

 こうした史実が、復元史学の大収穫として貴重なのである。

 黄金塚古墳の被葬者は女性を中心に、

 左右を男子の武人二人が

 守護するように寄り添って葬られている。

 これを壹與の墓に見立てた学者もいた。

 しかし壹與は時間差よりも、

 新羅の始祖王だから、

 先にお話しした戒律シラバッガに厳重に拘束されており、

 むろんその子孫もその戒律を厳守した。

 女性と分かりきった赫居世を、

 『三国史記』「新羅本紀」が

 ムリヤリ男性として扱っているのも、

 そのシラバッガの戒律のためだったのである。

 黄金塚被葬者の女王制と、

 景初三年鏡の副葬という葬制、

 『宋書』や『唐書』の記録が立証するのは、

 この古墳は女性崇拝と鏡を厳禁した

 邪馬壹国の後身=新羅や日本人の墓では絶対になく、

 間違いなく真の「優婆夷=倭(ウワイ)」で、

 卑弥呼の後継者だった

 大国・倭国の女王の墓だということである。

 これが、南九州の果てで卑弥呼が敗北して死んだ後、

 その後継者の黄金塚のヒロインが、

 そこから直線で550km離れた和泉で死んで、

 景初三年鏡を副葬するまでに200年以上かかった、

 その距離と時間の経過を示す真実の歴史なのである。

 また『記・紀』は

 そのころの天皇を全て男王として描いているが、

 黄金塚が教える真相は、

 和泉王朝には少なくとも一人は女王がいたという史実である。

 そしてイズミは倭済だから、

 倭の五王の「済」と一致し、

 観世音菩薩を本尊とする古寺・水間寺が近くにある。

 水間はミズマで、古い沖縄発音だとミズバである。

 倭の五王はすでにお話ししたとおり、

 讃は仁徳天皇。

 珍は履中天皇。

 済は反正天皇。

 興は允恭・安康天皇。

 武は雄略天皇である。

 反正天皇の名乗りは「瑞歯(ミズパ)別」だから

 ミズバ=ミズマ=水間である。

 そこに水間寺があるのは偶然ではない。

 多くの例証によって倭国の皇室の特質は、

 姫木山と卑弥呼と同じく、

 寺の名と天皇の名乗りの発音が一致すれば、

 その古寺は元皇居だったという証拠になる。

 さらに黄金塚の名も強い傍証になる。

 これを文字通りの金属名だとしては、

 全く無意味に近いが、

 「黄」をオウ、

 「金」をキンと

 漢音で読むと「オウキン」、

 「大君(おおきみ)」または

 「倭王(オウキン)」の九州発音に一致する。

 この地域の住民は九州からの移住者だ。

 埋葬当時の呼び名が残っていた間に、

 後世人が、わざとか、洒落てか、

 「黄金」と当て字したことが見えてくる。

 こうして和泉倭国の皇居が見つかると、

 そこで観世音菩薩を祀っていた優婆夷女王こそ、

 2人の武人と景初三年鏡に守られて眠る、

 この黄金塚古墳の主だと確認できる。

 ※出典:加治木義博
    「大学講義録17:31・32・33・34頁」

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