2015年8月17日月曜日

天の目一箇神

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 ≪天の目一箇神≫

 スサノオという名は、

 3000年前から実在していたことは確かである。

 また<7つの頭をもつ大蛇>は<ビシュヌー神の象徴>として、

 古代アジアでは周知の存在である。

 <八耳>の名から偶然着想されて生まれたものではない。

 その<ビシュヌー神>も<天の御中主神>として

 『古事記』の巻頭に掲げられ、

 垂仁天皇の后妃の父・<ミチノウシ>という名乗りで

 周知のものだと確認できている。

 そしてその7つ頭の蛇は、

 仏の守護神に変わり、

 仏の光背の位置にいる像が東南アジア各地に見られる。

 その<蛇の7つ頭>は、

 <仏体から放射しているオーラ>であって、

 <仏そのもの>なのだから、

 それに<仏頭>を加えると「八頭の大蛇」になる。

 それは仏の化身である

 卑弥呼を指していると言っても無理ではない。

 こうみてくると、

 <八耳>から<八岐>が生まれたのではなく、

 <八つ頭の大蛇>が先に実在して、

 それを「八岐」と書いたことから

 「八耳」という名乗りが生まれたという順序になる、

 前頁の結論とは完全に正反対になるのである。

 卑弥呼は1000人もの侍女を使っていたと記録しているから、

 ある年齢達した乙女が

 徴兵制のように強制的に集められたとするしかない。

 これも大蛇の所業に一致する。

 その女王を位宮・垂仁天皇が倒して、

 卑弥呼に仕えていた乙女・壹與=日葉酢姫を皇后にした。

 これは稲田媛そのものである。

 どこからみても

 「八耳の名から連想した作り話」ではない。

 <出雲神話>と呼ばれて来たものは

 <天皇の事跡を伝えた歴史>であって、

 <スサノオの尊>は在来の解説のような、

 形代でもなければ、田舎者の武勇談でも、

 タタラ起源でもない。

 次は速水保孝氏のタタラ説を検討してみよう。

  タタラはいつから我が国にあった文化か?。

  文献記録の一番古いものは、

 『日本書紀』の「天の石窟(いわや)隠れ」の部分の、

  「石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、

   <真名鹿の皮>を全剥(まるはぎ)にして、

  天の羽鞴(はぶき)を作り、

  <天の香山の金(かね)>を採って<日矛>を作り」の、

  「羽鞴」だが、

  それが製鉄用のタタラだということはすぐ判る。

 『古事記』の記事のほうは、

 「天の安河の河上の天の竪石を取り、

  天の金山(かなやま)の鉄を取り、鍛人・天津麻羅を求め、
 
  伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科して……

  真男鹿の肩を内抜きに抜いて……」

 とさらに詳しい。

 竪石は普通の石より堅いのだから鉱石。

 また「鉄=砂鉄」。

 「鍛人=鍛冶職人」だし、

 鹿の皮を傷付けずに内部を取り出して

 風船のように膨らませると「浮き袋」が出来、

 その空気を噴出して扇ぐと火力を強めるのに使える。

 足で踏むと、より強い火力が得られるので、

 木製のペダルをつけて

 両足で踏んで吸気、排気を繰り返す。

 これを「タタラを踏む」という。

 この『記・紀』の記事で

 天照大神以前にタタラが我が国に実在したことが

 完全に立証されている。

 ではそれは、どこから伝わった文化だったのか…?。

 その答は「天孫降臨」のところにある。

 <天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、

 「天の目一箇神」が居る。

 彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。

 鍛冶屋なのだ。

 この神の名は片目だったという名だから、

 ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが

 片目だったのと同じであり、

 和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、

 名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。

 鍛冶屋=1眼というこの大原則は、

 ギリシャ神話の

 天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である

  雷鳴・プロンテス、

  光・ステロペス、

  白光・アルゲスの、キクロープス

 と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。

 この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、

 ゼウスに強力な鉄槌の雷を、

 ポセイドンに三叉鉾を、

 ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。
 
 ご覧の通り3つとも武器である。
 
 一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。

 「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、

 ギリシャ文化から生まれた名詞で、

 『記・紀』の用語や神や天皇名が、

 ガヤ=伽那・谷=国土、

 ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといった

 ギリシャ語名乗りをもっていることの、

 動かない証拠なのである。

 ギリシャは

 トロヤ戦争以前から、鉄器文化の栄えた国である。

 金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、

 タタラが実在していたことは動かない。

 『日本書紀』では

 天孫が降臨して、

 木の花開耶(さくや)姫との間に生まれたのが
 
 彦火火出見の尊=山幸彦で、

 海岸で塩土の老翁がくれた目(ま)無し籠(かたま)に

 乗って海に出る。

 この<籠の正体>は様々な説があり、

 ベトナムなどの、

 竹をカゴ編みにしてタールで

 籠目を塗り潰した小舟だろう、という説が有力だ。

 しかし本当はどんなものだったか、直ぐお判りになる。

 「マナシカタマ」とは

 「真名鹿(シカ)」の皮で作った

 球(たま)=真名鹿(シカ)球のことである、

 マナは真魚(まな)板の真魚=魚のこと、

 魚の鹿とは斑紋のあるアザラシのことである。

 真名鹿(シカ)球>は<タタラ>であり<浮袋>であり、

 <飲み水をいれる容器>でもあった、

 それは中近東からアフリカで今も使う実用品である。

 それが古代の我が国に実在して

 片目=鍛冶屋を意味するカタマと呼ばれていた。

 スサノオが皮を剥いだ斑駒(ぶちごま)(尾久鹿)を

 日の神の神殿に投げ込んだというのも

 現実的なことだったと判る。

 「ギルガメシュの竜退治」が

 <スサの王の事跡>とされても不思議はない。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録30:22~25頁」

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