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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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≪天の目一箇神≫
スサノオという名は、
3000年前から実在していたことは確かである。
また<7つの頭をもつ大蛇>は<ビシュヌー神の象徴>として、
古代アジアでは周知の存在である。
<八耳>の名から偶然着想されて生まれたものではない。
その<ビシュヌー神>も<天の御中主神>として
『古事記』の巻頭に掲げられ、
垂仁天皇の后妃の父・<ミチノウシ>という名乗りで
周知のものだと確認できている。
そしてその7つ頭の蛇は、
仏の守護神に変わり、
仏の光背の位置にいる像が東南アジア各地に見られる。
その<蛇の7つ頭>は、
<仏体から放射しているオーラ>であって、
<仏そのもの>なのだから、
それに<仏頭>を加えると「八頭の大蛇」になる。
それは仏の化身である
卑弥呼を指していると言っても無理ではない。
こうみてくると、
<八耳>から<八岐>が生まれたのではなく、
<八つ頭の大蛇>が先に実在して、
それを「八岐」と書いたことから
「八耳」という名乗りが生まれたという順序になる、
前頁の結論とは完全に正反対になるのである。
卑弥呼は1000人もの侍女を使っていたと記録しているから、
ある年齢達した乙女が
徴兵制のように強制的に集められたとするしかない。
これも大蛇の所業に一致する。
その女王を位宮・垂仁天皇が倒して、
卑弥呼に仕えていた乙女・壹與=日葉酢姫を皇后にした。
これは稲田媛そのものである。
どこからみても
「八耳の名から連想した作り話」ではない。
<出雲神話>と呼ばれて来たものは
<天皇の事跡を伝えた歴史>であって、
<スサノオの尊>は在来の解説のような、
形代でもなければ、田舎者の武勇談でも、
タタラ起源でもない。
次は速水保孝氏のタタラ説を検討してみよう。
タタラはいつから我が国にあった文化か?。
文献記録の一番古いものは、
『日本書紀』の「天の石窟(いわや)隠れ」の部分の、
「石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、
<真名鹿の皮>を全剥(まるはぎ)にして、
天の羽鞴(はぶき)を作り、
<天の香山の金(かね)>を採って<日矛>を作り」の、
「羽鞴」だが、
それが製鉄用のタタラだということはすぐ判る。
『古事記』の記事のほうは、
「天の安河の河上の天の竪石を取り、
天の金山(かなやま)の鉄を取り、鍛人・天津麻羅を求め、
伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科して……
真男鹿の肩を内抜きに抜いて……」
とさらに詳しい。
竪石は普通の石より堅いのだから鉱石。
また「鉄=砂鉄」。
「鍛人=鍛冶職人」だし、
鹿の皮を傷付けずに内部を取り出して
風船のように膨らませると「浮き袋」が出来、
その空気を噴出して扇ぐと火力を強めるのに使える。
足で踏むと、より強い火力が得られるので、
木製のペダルをつけて
両足で踏んで吸気、排気を繰り返す。
これを「タタラを踏む」という。
この『記・紀』の記事で
天照大神以前にタタラが我が国に実在したことが
完全に立証されている。
ではそれは、どこから伝わった文化だったのか…?。
その答は「天孫降臨」のところにある。
<天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、
「天の目一箇神」が居る。
彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。
鍛冶屋なのだ。
この神の名は片目だったという名だから、
ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが
片目だったのと同じであり、
和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、
名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。
鍛冶屋=1眼というこの大原則は、
ギリシャ神話の
天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である
雷鳴・プロンテス、
光・ステロペス、
白光・アルゲスの、キクロープス
と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。
この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、
ゼウスに強力な鉄槌の雷を、
ポセイドンに三叉鉾を、
ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。
ご覧の通り3つとも武器である。
一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。
「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、
ギリシャ文化から生まれた名詞で、
『記・紀』の用語や神や天皇名が、
ガヤ=伽那・谷=国土、
ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといった
ギリシャ語名乗りをもっていることの、
動かない証拠なのである。
ギリシャは
トロヤ戦争以前から、鉄器文化の栄えた国である。
金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、
タタラが実在していたことは動かない。
『日本書紀』では
天孫が降臨して、
木の花開耶(さくや)姫との間に生まれたのが
彦火火出見の尊=山幸彦で、
海岸で塩土の老翁がくれた目(ま)無し籠(かたま)に
乗って海に出る。
この<籠の正体>は様々な説があり、
ベトナムなどの、
竹をカゴ編みにしてタールで
籠目を塗り潰した小舟だろう、という説が有力だ。
しかし本当はどんなものだったか、直ぐお判りになる。
「マナシカタマ」とは
「真名鹿(シカ)」の皮で作った
球(たま)=真名鹿(シカ)球のことである、
マナは真魚(まな)板の真魚=魚のこと、
魚の鹿とは斑紋のあるアザラシのことである。
真名鹿(シカ)球>は<タタラ>であり<浮袋>であり、
<飲み水をいれる容器>でもあった、
それは中近東からアフリカで今も使う実用品である。
それが古代の我が国に実在して
片目=鍛冶屋を意味するカタマと呼ばれていた。
スサノオが皮を剥いだ斑駒(ぶちごま)(尾久鹿)を
日の神の神殿に投げ込んだというのも
現実的なことだったと判る。
「ギルガメシュの竜退治」が
<スサの王の事跡>とされても不思議はない。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会・大学院講義録30:22~25頁」
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