2015年8月14日金曜日

正確な『三韓史』

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 ≪正確な『三韓史』≫

 種子島はまた、

 沖縄から中国東北区やロシア沿海州に及ぶ海上支配権をもち、

 「漕ぐ人(りょ)」という呼び名から始めは

 「高句麗(コグリョ)=朝鮮語」

 という当て字をもった大国の本国で、

 位宮と卑弥呼時代には、

 ビシュヌー神を名にもつ

 道の大人(うし)を王とする海軍王国の本国だったが、

 ポントスを名乗るギリシャ系応神朝以後、

 ポセイドンが国名に選ばれたことによって、

 ポセイドンの名から

 <百済>と<出水・和泉・出雲>が生まれたことも、
 
 その<百済>が<ハツセー>と読まれて

 <長谷>の地名を残していることも、

 また<百>が<ホ>と読まれて

 「豊(ホ)の国=豊津国(ホツマ)=豊玉(ほつま)

  =秀真(ほつま)国」
 
 という国名で呼ばれることなども、

 すでに充分、確認済みである。

 そしてその<和泉の首都>が

 百舌鳥耳=百済(モズミ)こと<堺>であることは、

 幾つもの謎を明快に解いてくれている。

 まず『魏書・東夷・韓章』の辰韓の部分にある、

 「この国には鉄が出る。

  韓・濊・倭は従(欲しいままに)それを取る」

 という記録であるが、

 この辰韓を朝鮮半島東南部の、

 後の新羅(慶州地方)のことだとすると、

 そこには鉄の産地は全くない。

 この辰韓を南九州語で「タッカラ」と読むと、

 宝島や<トカラ列島>のある<薩南諸島>のことになり、

 豊玉を漢音で「リユウ」と読む>ことから、

 豊玉姫が竜になり、

 竜宮伝説が生まれたりした種子島が、

 鹿児島県の辰巳の方角=東南に位置するので

 「辰巳(タミ)が島や辰韓(タッカン)=立神」

 と呼ばれたことがわかる。

 すると<馬韓>は<マカラ>で

 「靺鞨(マカラ)」と書かれた国、

 インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、

 臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)

 を生んだ語源。

 弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、

 南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、

 ソナカ仏教徒を中心とした

 「倭人」移住者の国だったことが判る。

 卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。

 なぜなら卑弥呼は別名の息長帯(ソナカシティ)姫

 (蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、

 明確に「帯方郡」を意味する

 朝鮮半島の領主であることを名乗っているからである。

 それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから

 当然の名乗りだが、

 神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と

 共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、
 
 その結果が南鮮への大移動を生み、

 三韓が朝鮮半島にあることになったのである。

 <韓・カラ>の地名は今も

 「吾平=姶良=カラ」「韓国見嶽(からくにみだけ)」

 として南九州に名残りを止めている。

 こうみてくると

 鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が

 「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。

 こちらの辰韓は、

 朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、

 同じ名をもち、

 同じ人たちが住む2つの国の報告書が

 混同されて引用されたために、

 南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、

 真相は種子島の豊富な鉄資源が

 倭人連邦人に広く使われていた記録である。

 では、<タタラ>を我が国まで持ってきたのは、

 インド人か?ギリシャ人か?

 それとももっと古くやって来た

 <シュメル人=カリエン>たちだったのであろうか?。

 今も東南アジア各地では

 カレン人(カリエン)が、

 鍛冶屋部族としてよく知られている。

 それも女性の仕事である場合が多い。
 
 彼等が我が国へタタラ文化をもってきた証拠は

 我が国で<カジャと呼ぶその職業名>が、

 はっきり立証する大文化財になっている。

 <鍛冶屋>と呼ぶその名は、

 <リ>を<ジ>と発音し

 <家(イエ)>を<ヤ>と発音する<南九州語>は、

 今でも<カリエン>を<カジャン>と訛るし、

 英語でもカルデアンはカージャンと発音する。

 カリエンの名がそのままで鍛冶屋なのである。

 彼等は今、

 タイでカリエンだが、

 ミャンマーでカレンと呼ばれてカレン、カレンニの2州を

 構成する勢力をもっている。

 女性を族長とする女系家族で、

 その住居は大きく『魏書倭人章』にある倭人の大家族、

 大家屋と多くの一致点をもち、

 入れ墨をし、

 女性は貫頭衣を着、健康維持に肌に土を塗る。

 『魏書倭人章』は朱丹と書くが、

 それを我が国では朱砂・スサと呼ぶ。

 スサの王の一族がタタラをもってきたことが、

 これらとその「鉄鏃」という2字で、

 徹底的に立証されている。

 こうお話しすると、

 私(加治木義博)の東南アジア歴訪調査が、

 どんなに効果的に倭人と『魏書倭人章』の実体を明確にしたか、

 その行動力の成果がよくご評価戴けると思う。

 鎌倉時代末期、元寇の約半世紀前の寛元元年(1243年)、

 肥前から中国へ渡ろうとした商人たちが、

 漂流して沖縄へ漂着したときに写生した、 

 当時の沖縄漁民の風俗スケッチで、

 その体験を記録した貴重な

 『漂到流球国記』の巻末につけられた絵図の一部である。

 この女指揮者は間違いなく「三叉鉾」をもっている。

 それには房飾りが垂れているので、

 魚を突くための漁具ではなく、

 神の助力を祈るための象徴=聖器だとわかる。

 するとそれが<三叉鉾>であることは、

 キリストの十字架と同じく、

 その<三叉鉾>だけで、

 その神が<ギリシャの海神・ボセイドン>だと判る。

 それだけではない。

 女性が指揮者であることは、

 当時沖縄にいたことの確かなカリエン人の習俗で、

 その風貌も西方のもの、この絵が表わしている人種は、

 カリエン人とギリシャ人との混血なのである。

 さらによく見ると、

 「貫頭衣」を着て、断髪した頭に布を巻き

 『魏書倭人章』にある

 「招頭」とはどんなものだったかを眼のあたりに見せてくれる。

 その弓は上が長く下が短い倭人の弓である。

 たった1枚のスケッチだが、

 それが元禄の荒井白石から、

 明治大正の大論争を繰り返した大歴史家たち、

 そして戦後に、

 雨後の筍のように現われた大量の邪馬台学者の、

 その誰もが、

 全く立証できなかった真実の<倭人の風俗と文化>を、

 この絵は物の美事に完全に描写して、

 証明し尽くしているのである。

 ※出典:加治木義博
    「言語復原史学会・大学院講義録30:28~32頁」
   
  

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