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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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≪正確な『三韓史』≫
種子島はまた、
沖縄から中国東北区やロシア沿海州に及ぶ海上支配権をもち、
「漕ぐ人(りょ)」という呼び名から始めは
「高句麗(コグリョ)=朝鮮語」
という当て字をもった大国の本国で、
位宮と卑弥呼時代には、
ビシュヌー神を名にもつ
道の大人(うし)を王とする海軍王国の本国だったが、
ポントスを名乗るギリシャ系応神朝以後、
ポセイドンが国名に選ばれたことによって、
ポセイドンの名から
<百済>と<出水・和泉・出雲>が生まれたことも、
その<百済>が<ハツセー>と読まれて
<長谷>の地名を残していることも、
また<百>が<ホ>と読まれて
「豊(ホ)の国=豊津国(ホツマ)=豊玉(ほつま)
=秀真(ほつま)国」
という国名で呼ばれることなども、
すでに充分、確認済みである。
そしてその<和泉の首都>が
百舌鳥耳=百済(モズミ)こと<堺>であることは、
幾つもの謎を明快に解いてくれている。
まず『魏書・東夷・韓章』の辰韓の部分にある、
「この国には鉄が出る。
韓・濊・倭は従(欲しいままに)それを取る」
という記録であるが、
この辰韓を朝鮮半島東南部の、
後の新羅(慶州地方)のことだとすると、
そこには鉄の産地は全くない。
この辰韓を南九州語で「タッカラ」と読むと、
宝島や<トカラ列島>のある<薩南諸島>のことになり、
豊玉を漢音で「リユウ」と読む>ことから、
豊玉姫が竜になり、
竜宮伝説が生まれたりした種子島が、
鹿児島県の辰巳の方角=東南に位置するので
「辰巳(タミ)が島や辰韓(タッカン)=立神」
と呼ばれたことがわかる。
すると<馬韓>は<マカラ>で
「靺鞨(マカラ)」と書かれた国、
インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、
臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)
を生んだ語源。
弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、
南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、
ソナカ仏教徒を中心とした
「倭人」移住者の国だったことが判る。
卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。
なぜなら卑弥呼は別名の息長帯(ソナカシティ)姫
(蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、
明確に「帯方郡」を意味する
朝鮮半島の領主であることを名乗っているからである。
それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから
当然の名乗りだが、
神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と
共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、
その結果が南鮮への大移動を生み、
三韓が朝鮮半島にあることになったのである。
<韓・カラ>の地名は今も
「吾平=姶良=カラ」「韓国見嶽(からくにみだけ)」
として南九州に名残りを止めている。
こうみてくると
鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が
「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。
こちらの辰韓は、
朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、
同じ名をもち、
同じ人たちが住む2つの国の報告書が
混同されて引用されたために、
南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、
真相は種子島の豊富な鉄資源が
倭人連邦人に広く使われていた記録である。
では、<タタラ>を我が国まで持ってきたのは、
インド人か?ギリシャ人か?
それとももっと古くやって来た
<シュメル人=カリエン>たちだったのであろうか?。
今も東南アジア各地では
カレン人(カリエン)が、
鍛冶屋部族としてよく知られている。
それも女性の仕事である場合が多い。
彼等が我が国へタタラ文化をもってきた証拠は
我が国で<カジャと呼ぶその職業名>が、
はっきり立証する大文化財になっている。
<鍛冶屋>と呼ぶその名は、
<リ>を<ジ>と発音し
<家(イエ)>を<ヤ>と発音する<南九州語>は、
今でも<カリエン>を<カジャン>と訛るし、
英語でもカルデアンはカージャンと発音する。
カリエンの名がそのままで鍛冶屋なのである。
彼等は今、
タイでカリエンだが、
ミャンマーでカレンと呼ばれてカレン、カレンニの2州を
構成する勢力をもっている。
女性を族長とする女系家族で、
その住居は大きく『魏書倭人章』にある倭人の大家族、
大家屋と多くの一致点をもち、
入れ墨をし、
女性は貫頭衣を着、健康維持に肌に土を塗る。
『魏書倭人章』は朱丹と書くが、
それを我が国では朱砂・スサと呼ぶ。
スサの王の一族がタタラをもってきたことが、
これらとその「鉄鏃」という2字で、
徹底的に立証されている。
こうお話しすると、
私(加治木義博)の東南アジア歴訪調査が、
どんなに効果的に倭人と『魏書倭人章』の実体を明確にしたか、
その行動力の成果がよくご評価戴けると思う。
鎌倉時代末期、元寇の約半世紀前の寛元元年(1243年)、
肥前から中国へ渡ろうとした商人たちが、
漂流して沖縄へ漂着したときに写生した、
当時の沖縄漁民の風俗スケッチで、
その体験を記録した貴重な
『漂到流球国記』の巻末につけられた絵図の一部である。
この女指揮者は間違いなく「三叉鉾」をもっている。
それには房飾りが垂れているので、
魚を突くための漁具ではなく、
神の助力を祈るための象徴=聖器だとわかる。
するとそれが<三叉鉾>であることは、
キリストの十字架と同じく、
その<三叉鉾>だけで、
その神が<ギリシャの海神・ボセイドン>だと判る。
それだけではない。
女性が指揮者であることは、
当時沖縄にいたことの確かなカリエン人の習俗で、
その風貌も西方のもの、この絵が表わしている人種は、
カリエン人とギリシャ人との混血なのである。
さらによく見ると、
「貫頭衣」を着て、断髪した頭に布を巻き
『魏書倭人章』にある
「招頭」とはどんなものだったかを眼のあたりに見せてくれる。
その弓は上が長く下が短い倭人の弓である。
たった1枚のスケッチだが、
それが元禄の荒井白石から、
明治大正の大論争を繰り返した大歴史家たち、
そして戦後に、
雨後の筍のように現われた大量の邪馬台学者の、
その誰もが、
全く立証できなかった真実の<倭人の風俗と文化>を、
この絵は物の美事に完全に描写して、
証明し尽くしているのである。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会・大学院講義録30:28~32頁」
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