2015年8月13日木曜日

戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 《明星院・広島県(歴史&地名)他》
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利
 戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利

 ≪戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利≫

 白村江を韓国の地名と信じている人がいる。

 戦勝国新羅の正史『三国史記新羅本紀』は

 百済戦を詳細に記録しているのに、

 白村江に似た地名も海戦も倭軍と戦った記録さえもない。

 『日本書紀』だけが

 「大唐 軍将 率 戦船一百七十艘 陣烈 於 白村江」と、

 たった一度書いているだけ。

 しかもその前には

 この戦船一百七十艘は安曇比邏(アヅミヒラ)夫が

 扶余国太子豊璋を百済に送った船団だと書き、

 同年、阿部比羅夫が船師一百八十艘で蝦夷国を攻めたと、

 斉明天皇紀の最後の部分にわざと離して書いてある。
 
 ア津ミ・アベはアメ、ヒラ夫(オ)は

 シラ王(オ)で新羅王=天(アメ)命開(ヒラキ)別=天智天皇の名。

 蝦夷は蘇我蝦夷=百済倭国王で、

 白村江・百済・蝦夷の国は皆同じ大阪なのだから、

 この3船団は本当は敵の日本軍の1船団だけ。

 そんな事実はこの大戦直後には、

 『日本書紀』編集者も天武天皇も国民も、知り尽くしている。

 それをわざわざ3船団のように見せ掛ける努力を

 重ねた目的は、簡単に割り出せる。

 天武天皇の当時最大の敵は、

 彼が倒した天智天皇一族よりも、

 巨大な兵力をもつ唐だった。

 『日本書紀』はその唐に読ませるのが目的だったから、

 本当は敵の新羅=日本軍の船団なのに、

 それを自国の船団に見せる記事に仕立て、

 百済倭国の首都・大阪の大敗戦も、

 朝鮮半島の植民地・扶余国の敗戦にすり替え、

 自国の名もわざと日本のまま押し通した。

 それが可能だったのは唐軍が

 実戦に参加した半島植民地の地名が、

 もともと倭国の地名と共通のものが多かった。

 それは大量過ぎるので省略するが、

 『三国史記』「誌・地理四」を見れば一目瞭然。

 唐は、

 朝鮮半島の植民地を百済の本国と錯覚していて

 『日本書紀』のウソを見抜けなかった。

 その「地理四」に半島百済の略史がある。

 「至 二十六世 斐王 移都 所夫里 国 号 南扶余

  至 三十一世 義慈王」。

 この記事は武寧王の息子・斐王が

 538年に

 洒比(シヒ)

 (所夫里はソウルで「都」という意味)に遷都して、

 国名を「南扶余」に変えた。

 それが最後の王・義慈まで続いたというのだから、

 7世紀には半島には事実上「百済」という国は存在しなかった。

 それなのに唐は南扶余と百済とを混同し、

 新旧の両『唐書』も、

 大化・壬申の2大革命ほどの大事件を全然知らない。

 前記の百済・蝦夷・白村江などの

 国名・地名が同じ大阪地域だと知らず、

 天武『日本書紀』の謀略を見抜けない。

 唐の役人に見抜けなかったのは当然。

 しかしそのお陰で日本は唐の侵略を免れたのだから、

 滅びたのは半島の百済だとした

 天武天皇の智略が唐に勝ったのである。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学講義録17:21・22頁」

0 件のコメント:

コメントを投稿