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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?
天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?
≪天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?≫
慈悲と平和を理想としたウバイド哲学は退けられて、
その最大の後継者だった仏教と、
その象徴だった優婆畏(うばい)=女王政権は排除され、
新羅=神羅=神国(シンラ)として、
全てが一新されてしまった。
かつて位宮と壹與(第2の神功皇后)が
邪馬壹国を建国したシーラバッガ革新
(これが壹與を『三国史記』が
新羅始祖王・赫居世(カグイヨ)=鹿児壹與(カグイヨ)
だとする理由である)を、さらに徹底させた。
同じ論争は履中天皇と皇后の間でも起こり、
その争いが伊弉諾・伊弉冉2尊の争いとして神託化され、
3つを一括して教義化したものが、
従来『神話』と誤信されてきたものの正体であり、
『記・紀』が天皇初め為政者たちの、
政治哲学と行政の教科書。
だから隼人という名が
ウバイドから連綿と続いた帝国の首都名として
使われていたのは当然のことで、
それは本来、優姿畏人(うばいど)を意味し、
倭人(ウワイト)とは、
それへの漢魏音と和音を使った倭人が
当てた当て字だったのである。
これらの史実の最大の核心は、
天智天皇の行為が「革命」ではなかった事実である。
彼は唐による侵略を最も恐れ、
それを防ぐには武装以外ないことを熟知していた。
かつて位宮・垂仁天皇が直面した魏による
侵略の危機と全く同じ国難に直面して取った、
やむを得ぬ緊急非難だったのである。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会32:15頁」
「大学院講義録32:15頁」
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