2015年8月12日水曜日

天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?

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 天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?
 天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?

 ≪天智天皇の大化改新(乙巳の変)とは何だったのか?≫

 慈悲と平和を理想としたウバイド哲学は退けられて、 

 その最大の後継者だった仏教と、

 その象徴だった優婆畏(うばい)=女王政権は排除され、

 新羅=神羅=神国(シンラ)として、

 全てが一新されてしまった。

 かつて位宮と壹與(第2の神功皇后)が

 邪馬壹国を建国したシーラバッガ革新

 (これが壹與を『三国史記』が

  新羅始祖王・赫居世(カグイヨ)=鹿児壹與(カグイヨ)

  だとする理由である)を、さらに徹底させた。

 同じ論争は履中天皇と皇后の間でも起こり、

 その争いが伊弉諾・伊弉冉2尊の争いとして神託化され、

 3つを一括して教義化したものが、

 従来『神話』と誤信されてきたものの正体であり、

 『記・紀』が天皇初め為政者たちの、

 政治哲学と行政の教科書。

 だから隼人という名が

 ウバイドから連綿と続いた帝国の首都名として

 使われていたのは当然のことで、

 それは本来、優姿畏人(うばいど)を意味し、

 倭人(ウワイト)とは、

 それへの漢魏音と和音を使った倭人が

 当てた当て字だったのである。

 これらの史実の最大の核心は、

 天智天皇の行為が「革命」ではなかった事実である。

 彼は唐による侵略を最も恐れ、

 それを防ぐには武装以外ないことを熟知していた。

 かつて位宮・垂仁天皇が直面した魏による

 侵略の危機と全く同じ国難に直面して取った、

 やむを得ぬ緊急非難だったのである。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会32:15頁」
     「大学院講義録32:15頁」

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