2015年8月1日土曜日

倭奴国王印


 漢字というものの発音が、

 なぜ?

 どう? 変化するか、

 ということからお話しするのがわかりやすい。

 ご存じのとおり

 漢字は偏(へん)と冠(かむり)と旁(つくり)からできている。

 木ヘンは木の仲間、草カムリは草の仲間というふうに、

 偏と冠はその種類を表している。

 これに対して旁は発音を表している。

 己(キ)がついたものは紀、記、起と、

 どれも「キ」と発音するようなものである。

 しかし初めは、その原則が守られていた発音も、

 時代が変わるにつれて変化してしまって、

 今では原則どおりでないものも多い。

 それは中国が多地域から流入した

 さまざまな言語集団の複合国家で、

 革命で異なった集団が政権をとるたびに、

 政府が使い国民にも使わせる

 標準語が別の発音に変わったためである。

 古代ほど原則に近いので、

 「倭」について書いた中国の古代文献

 『山海経』や『論衡(ろんこう)』『三国志』などは、

 どれも原則があまり崩れなかった時代、

 カールグレンの分類では「上古音」の時代に属するので、

 「倭」の旁、

 すなわち「委」が当時までの発音記号だったことがわかる。

 しかしそれでも「委」は上古音「イ」「イワル」、

 南中国音で「ゥオ」「ウワイ」1ワイ」と、

 やはり地域差があったのである。

 日本で「最初に漢字が使われた時期」は、

 その宝貝の輸出などで非常に古いとみていいが、

 「漢字が知られた最古の記録」は

 『後漢書』にある漢の光武帝が

 「委奴国王」に与えた金印で、

 それに当たるとされる金製印鑑が、

 天明四年(1784)に

 福岡市の志賀(しか)の島で

 見つかったことはよくご存じのとおりで、

 それには「漢・委奴国王」と彫ってある。

 この国名に合う「イヌ・イナ」と発音される

 先住民がいたことは、

 東北シベリアからカナダに現住する

 イヌイト人(エスキモー人の正式の自称)であり、

 その人々が今も使っているのと同じ器具の遺物が、

 縄文時代以後の各地の遺跡で出土していること、

 またそれと同じイヌ・イナの発音をもつ

 猪野、猪名、伊那、稲といった当て字のつく地名が、

 日本全土に広く分布することからも推定される。

 また、現在では詳しくわかっている

 後漢政府の外交制度では、

 今まで日本で教えているような

 「漢の<ワ>の<ナ>の国王」という

 「委奴」を二つに割って、
 
 前の「委」を上位の宗主国の名と考え、

 後の「奴」をその下に従属している国と

 考えるようなことは絶対にない。

 また第1に、超大国と自負していた中国が、

 そんな従属国と直接外交することは絶対にないし、

 一人前の国として認めることも絶対にない。

 第2に、その相手が大国でも、

 「金印」というのは容易に与えていないから、

 なおのこと従属国などではない。

 第3に、ヒミコ当時の奴国は、

 はるか「極南界」の沖縄にあった小国・那覇で、

 邪馬壹国誕生前には福岡には奴国はない。

 それが福岡県の南部に移動したのは

 垂仁天皇がヒミコ政権を倒して、

 壹與を新女王に邪馬壹與国を建国した後である。

 それは『魏書倭人章』を正確に読めば

 誰にでもわかることである。

 それには帯方郡使・梯儁(ていしゅん)が記録した

 ヒミコ時代の旁国21カ国と、

 ヒミコ政権が倒された直後の、

 帯方郡使・張政の追加記事にある

 邪馬壹国・奴国・不弥国・投馬国4カ国とが

 同時に書かれているため、

 うっかり読むと「奴国」が

 二つあったというオカシナことになる。

 だが一つの国にまったく同じ名の国が

 二つあることは絶対にないことと、

 福岡の奴国が人口2万余戸という超大国であること、

 それが邪馬壹国と同時に追加されていることなどを考えれば、

 それが政変後の移動であり、

 垂仁天皇の兵士としてヒミコ政権打倒に働いたか、

 または戦争で、もとの居住地を追われた難民たちが、

 伊都国を追われたもとのヒミコ政権時代の住民たちと、

 当時大変な沼地で、

 水国(ミズマ=三瀦)と呼ばれていた筑後平野に移動して、

 「新・奴国」を造ったことが、

 伊都国の人口の激減などとあわせて、

 はっきり事実だとわかる。

 この角度から考えても、

 とても1世紀には、福岡には「奴国」などない。

 志賀の島の金印は、

 「委」の字も「ワ」とは絶対に読めず、

 「ナ」の国も絶対に存在しないのだから、

 「ワのナの国」などと読むのは、

 きっぱりやめないと恥ずかしい。

 これだけの事実が明らかなのだから、

 委奴国は絶対に3世紀の倭連邦中の奴国のことではなく、

 金印は先住民の大国

 「イナ・イヌ・イノ国王」のものだったことがわかる。

 それは「漢委奴」は

 「ハンイヌ」で「羽の犬」という

 当て字をもった地名「羽犬塚」が

 福岡県筑後市の中央にあることでもわかる。

 国変わり人変わって後にはなにも残らなかったが、

 「漢委奴国王」は金印のほかにも、

 「塚」と、この「地名」を残したのである。

 この事実から「委」の字は、

 日本では現在と同じく古来「イ」と発音してきたこともわかる。

 「倭」の字もそのツクリが「委」である字形からみて、

 勝手に「イ」と発音して読んだり使った人々がいても

 不思議ではない。

 『記・紀』その他の日本の古代文献には、

 その実例がたくさん見つかる。

 たとえば倭姫命は「イキメ」と読むと

 伊支馬と同じになって謎が解ける。

 だが「倭」が国名だった時代には、

 すべての国民がその発音は「ウワイ」だと知っていた。

 とすれば、

 それが「ワ」と発音されるようになったのは、

 どう考えても7世紀以後、

 遣唐使が唐と往来して初めて新しい発音「唐音」を知り、

 それが漢字の正しい発音だということになった時、

 以後だということは、はっきりしている。

 「漢・委奴・国王印(国宝)と漢・帰義・姜長印」

 「姜」は和人のカリエン人たちから分かれた人々で、

 前漢代に万里の長城の外で国を建てていたが

 武帝に帰属して帰義部族になった。

 これはその時のもので銅製である。

 独立国の王でもこうした扱いなのだから、

 倭国の下の小国であるとされる「奴国」などに、

 漢の皇帝が金印を授けることなど絶対にない。

 委奴「イヌ」なのである。

 「殷」について、

 さらに見つかった最新情報をご報告申し上げておこう。

 それは古代中国の政府が、

 我が国を「イヌ」の国と呼び、

 それを国名として認めた事実の、

 絶対に動かない証拠なのである。

 それはほかでもない、

 志賀の島の金印である。

 そこに彫られた文字を在来は、

 「カンのワのナのコクオウ」と読むのだと決め、

 私(加治木義博)は

 「委奴はイヌである」と反対し続けてきたが、

 それは委にはワという発音はなく、

 一般にワと読まれている

 「倭」も漢魏音ではウワイだからだった。

 そしてさらに中国人は、

 もっとよく委はイだと知っていた。

 それは倭人を「東夷(イ)」の中に入れていることである。

 彼らはそれだけでなく、

 同じ人々が中国より西にも居ることも知っていた。

 それを

 「西夷=西のイヌ人の略」と呼んでいるからである。

 だが今になってみれば、

 殷人も倭人も夷も皆、

 同じウバイド人の一族なのだから

 中国人が知っていて当然だったのである。

 漢の皇帝がくれた金印に間違ったことが彫ってあるはずがない。

 委奴国王印は、

 我が国の代表者が「イヌ=殷」人であって

 漢人とも同族だと知っていたから、

 わざわざ「漢の」と肩書語を付け加えたのだと解らねば、

 学者としては半人前だということになる。

 だが、さらに重要なことを見逃してはならない。

 それは、

 古代ペルシャ語と古代ギリシャ語とは、

 まるっきりの他人ではないということである。

 それは沖縄語と鹿児島語ていどの差しかないということを、

 よく記憶しておく必要がある。

 これでウバイド以来、

 カルデヤ、

 フェニキヤ、

 スサ、

 メソポタミヤと、

 スメル文化の一族が、

 続々と我が国にやって来た事実は疑えなくなった。

 そこで、

 最初にご覧頂いたメソポタミヤ周辺の地名を、

 改めて再検討して行って、

 この結論を高めていくことにしよう。

 メソポタミヤという名詞は、

 母音にeとoが入っているので、

 本来の古代ペルシャ語の名ではないとすぐ判る。

 本来の発音は沖縄語型だから、

 ミスブチミヤでなければならない。

 沖縄語のミスは本土語のメス=雌で、

 英語のミスと共通している。

 ブチミヤはボツミヤまたはモツミヤで、

 これに雌・母津宮と当て字してみると、

 「メスは女牲を意味する古代日本語」だから、

 ウバイド系の政体の特徴である

 「母系の女帝の国」を意味する

 日本語に完全に一致する。

 これで古代メソポタミヤ語と古代日本語とが、

 ごく近縁の言語だったことが、

 この複雑な名詞で、さらによく理解できた。

 在来は、

 これだけ解明でききれは充分だとせるものが多かったが、

 果たしてそれでいいのか?を、

 さらに検討し続けて考えてみよう。

 ※出典:加治木義博

     「WAJIN:73~78頁」
     「大学院講義録37:10・11頁」

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