2015年8月31日月曜日

鬼子母神(きしもじん):カリー女神


 ≪人類が生存できる限界の激しい気象環境も宗教の内容を左右する。≫

 同じ仏教でもラマ教の悪魔や怪物の仮面舞踏は、

 そうした環境が悪魔や悪神の暴力によるもので、

 それらから身を守り子孫を繁栄させるには、

 仏の教えに従って身を慎み善を行って、

 善神が悪神を退治る戦いに参加し助力せよと教える。

 また農業が成立しない環境では、

 畜産によって乳を飲み、

 殺して肉を食べ、

 皮を着る以外に生存の道がない。

 争わず殺さずという釋迦の教えは、

 とうていそのままでは守れない。

 殺生が容認される幅が、

 私たちからみれば遥かに拡大される必要があったのである。

 北方へ進んだ布教団の教義は、

 卑弥呼の名の実意「慈悲や愛」といった

 甘っちょろい観念論ではありえない。

 中国に西域から入った仏教は、

 生首を提げた女性像が

 訶梨帝(カリティ)菩薩として壁画に描かれるような、

 卑弥呼仏教とは正反対のものだったのである。

 この鬼菩薩を鬼子母神(きしもじん)と訳して

 日本に紹介したのは日蓮で13世紀末である。

 日本で過去に信じられて来た6世紀の仏教伝来は、

 この北方仏教(北伝仏教)であって、

 東南アジア経由の南方仏教(南伝仏教)だった

 ソナカ=卑弥呼の仏教とは別物である。

 日本語の[クロ]も正確にはインド語の一つだし、

 韓という当て字の当時の発音[カラ]も、

 シンドゥの女神で

 日本で鬼子母神と呼ぶ[カーリー]も、

 みな[黒]のインド語の方言なのである。

 「カリー女神像」は北インドのものである。

 シバ大神の妻であったカリーは、

 仏教にとりいれられて訶梨帝菩薩と変化し

 新らしい縁起を与えられた。

 日蓮はこれを鬼子母神と訳したが、

 一方ではインド亜大陸の南海地方で

 慈母聖母としての愛の女神「カシー」となり、

 観世音の文字があてられた。

 奈良朝の厚い崇敬にもかかわらず

 香椎廟が当時の重要な祭政施行令であった

 延喜式の神名から除外されているのは、

 神功皇后を観世音すなわち仏と見ていたことの一証である。

  ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録20:21頁」
           「JINMU・KKロングセラーズ:161頁」
           「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:193頁」

2015年8月30日日曜日

貨幣の発祥


 ≪ 貨幣の発祥 ≫

 ペルシャ語の母音はpa、saと「a(ァ)」だが、

 ギリシャ語はpe、seと「e(ェ)]だ。

 これは沖縄語の「a」が鹿児島語で「e」になる関係と同じである。

 私たちは既に、

 ペルシャ湾岸のカルデア人が移住してきて、

 カリエンとよばれ、

 沖縄を中心に養殖、加工して、

 それを貨幣として中国その他と交易。

 高句麗や蒙古などを建設し、殷帝国を興して、

 東亜の経済を支配していた史実を、

 充分な証拠群によって、よく知っているから、

 古代湾岸語が沖縄語の基礎にあることも

 私達の常識の範囲内にあった。

 またギリシャ人が東亜に移民して

 私たちの祖先に加わった事実も、

 あらゆる角度から見た証拠群の多さで、

 疑う余地のない史実であると知っている。

 鹿児島語の祖語がギリシャ語である可能性も、

 すでに3000語以上の共通語が

 存在する事実を発見しているから、

 それをさらに高めただけに過ぎない。

 沖縄にもイオニアを指す

 パーリ語の名「与那国」があり、

 他にも与那のつく地名が分布しているから、

 各語の影響が単純ではないことは

 申し上げるまでもない。

 「殷」と言えば、

 私(加治木義博)は昭和の初めに

 古墳などの霊域ラインを発見してから、 

 それがさらに古代に

 中国の殷墟にまで伸びている史実を発見。

 殷人が商業を基盤に強大になって

 商帝国を興し夏帝国が自滅したが、

 それは貝貨幣の発明によるもので、

 その宝貝が琉球列島を生産地とするものであったことを、

 数十年間かけて広く調査して突き止めた。

 その宝貝は中国で宝貝型銅貨を生み、

 それからギリシャ・コインなどが生まれたのである。

 いま全人類を支えている貨幣経済が、
 
 沖縄から始まったことを知れば、全人類が驚く!

 この我が国の古代文明の高さを明らかにして、 

 太平洋戦争敗戦の愚と

 日本人蔑視を一掃したいと思うようになったのが

 70年の研究を支えて、

 8000年前のウバイドに導き、

 スサノオの来航や、

 日本語と西方語との

 共通点や思想・信仰の類似点の多さ、

 体格と風貌が相似する人々の多い謎を

 解くことに生涯をかけ続けてきた。
  
  ※出典:加治木義博
  「言語復原史学・大学院講義録37:8・9頁」

2015年8月29日土曜日

鵜戸神宮


 ≪鵜戸神宮≫

 「我が国に現存するエリヅ、エレチ、エンキ」

 バビロニヤの都市国家の名と神名とに戻ろう。

 エリヅの主神は水の神・エンキだった。

 乾燥に悩む環境から

 水に深い関心のある国だったことは間違いない。

 それも灌漑用水なら、

 大河沿いの土地はどこも同じだから国名にすることはない。

 これは飲料水としての水質が良いことの、

 神への感謝と宣伝のための国名で、

 屋久という名と、全く同じ発想なのだ。

 それを我が国なら何と表現するだろう?。

 清水や吉水は各地にある。

 エリヅに合う当て字を考えると「選(え)り水(ず)」がある。

 選(え)り津(ず)にすると良港にもなる。

 どちらにしても水の神の担当である。

 ではそんな名の土地が我が国にあるか?。

 津は沖縄語ではチと発音する。

 次の国のErech エレチは、エリヅから分かれた国だと解る。

 エレチは沖縄ではイリチと発音する。

 それは鹿児島ではイリキになる。

 入来という地名と姓は

 エレチ人が鹿児島へ来たことを伝え続けているのである。

 その氏神は天の神「アヌ」。

 沖縄でNがMになるとアム。

 それが鹿児島へ行くとアマ、

 天の神は天津神で意味も発音も

 スメルと我が国は完全に同じだ。

 エリヅの神はエンキである。

 これは標準化されて

 「榎木(エノキ)」という姓になっている。

 その有名人には

 鹿児島出身の映画スター・榎孝明君がいる。

 彼は姓だけでなく、その体格容貌で、

 私(加治木義博)の説が正しいことを、

 実に明確に証明してくれているのである。 
  
 さらに付け加えると

 榎という木は川や池などの水辺を好む。

 環境が良ければ大樹になって葉を垂れ、実をたくさんつける。

 古代人はそれを水の神・エンキの化身として祈ったのだ。

 ラルサの神はウツで太陽神である。

 宇都の宮はまさにウツの宮である。

 その祖先もやはり古代日向の東端の、

 昇る太陽の光をさえぎるもののない太平洋岸に、

 古風きわまる洞窟神社として現存している。

 鵜戸神宮である。

 何時からか「ウド」神宮と訛ってしまっているが、

 その地理条件は、

 間違いなくウツの宮だったことを証言して余りがある。

 しかし、「ラルサ」という国名はどこにもありそうにない。

 一体、どうなっているのだろう。

 ご存知の通り、南九州語はラ行音はダ行音に変わる。

 ラルはダヅになる。

 またサはセになるから、ダヅセ。

 これは耳で聴くと「ダッセ」になる。

 鹿児島には田布施という地名と姓がある。

 これはいまではタッセと呼ばれるが、

 田はダとも読むから、

 本来はダッセへの当で字で、それも布施という用字で、

 仏教の影響が大きくなってからの当て字だと解る。

 ウルは沖縄の古名で、今もウル国(マ)という。

 漆間と当て字した姓もある。

 その神は新月の神で「ナンナル」である。

 新月は、月とは名ばかりで、無くなってしまう。

 「無くなる」を古代は「無(ナ)ンナル」と言った。

 「無(むん)になる」は、無を漢音に変えただげである。

 従来中国の文化だとされてきた四神の「玄武」は、

 私たちには黒と高(たけ)を意味し、

 高句麗(タカクロ)という国名と全く同じだとわかっている。

 そのトーテムは亀と蛇。

 その亀がなぜ象徴だったかもよくわかったが、

 ここまでくると不明だった蛇も何だったか、

 ご理解戴けたと思う。

 京都の祇園(ぎおん)、

 飛騨(ひだ)の高山などの曳(ひ)き山(やま)祭(まつ)り、

 山車(ダシ)・壇尻(ダンジリ)を使う全国的な

 「ヤマ祭礼」は

 すべて、

 現在もインドや東南アジアなどで見る

 シンドゥ祭礼と全く同じで、

 大隅の「大人弥五郎どん祭り」を最古に

 全国に広まったものだが、

 大隅町の囃子言葉は「ダンジイ討った」で、

 ダンジイは大人の訛りだとわかる。

 南九州語は大人をウドと発音するからすぐ近くの

 宮崎県日南市の旧官幣大社鵜戸(うど)神宮と同音だ。

 大人はダイジンとも読むので大神でもある。

 この神宮は海岸にあって本当の神殿は岩窟である。

 デルプォイ神殿もまた岩窟で有名な遺跡を残しているから、

 鵜戸神宮は元は大神宮だったものが、

 大神→大人→鵜戸と当て字が変わったとみると、

 大神宮=ウジンミヤ=オリンピヤだ。

 壇尻(ダンジリ)や山車を使っているから

 シンドゥだと単純にはいえない。

 言語復元によらない原始的な比較文化は、

 学術の中には入らないのだ。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録37:23・24頁」
     「言語復原史学会・大学講義録25:34頁」

2015年8月27日木曜日

謡曲『高砂』の起源


 ≪謡曲『高砂』の起源≫

 日本式の結婚式には欠くことのできないものに

 『高砂(たかさご)』という謡曲があります。

 そこでも翁と嫗が「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」

 と呼ばれて出てきます。

 『竹取物語』と『高砂』。

  この二つの関係を調べてみましょう。

  謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている

  観世元清

 (足利義満らに仕えた観世流二代目=1443<?数説あり>年没)

 の作で、

 始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、

 いつか謡い出しの「高砂」の方が

 題名として有名になったものです。

 その、あらすじは、

 肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、

 高砂の浦で老人夫婦に出会って、

 高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、

 なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられます。

 そこで神官は、

 その有名な「高砂や、この浦船に帆をあげて……」

 という謡の通りに

 高砂の浦から船出して、

 住吉の浦に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、

 前の老人が住吉明神になって現われ、

 美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、

 次第に消えていく。

 という大層、夢幻的で優雅なものです。

 今、

 高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、

 この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、

 日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、

 全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、

 それ以上の追究をやめていたきらいがありました。

 しかし詳細に、

 この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、

 世阿弥は創作者ではなく、

 彼は古くから伝わっていた伝承を、

 香り高い文芸作品に仕立てあげた

 「脚色者」だったという事実がはっきりします。

 この「高砂」は

 現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、

 伝承が生まれた当時の高砂は、

 『桃太郎』『竹取物語』の老夫婦がいた

 「タカの国」でなければなりません。

 「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、

 砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、

 「スナ」と読んでみると、

 何と、ぴったり一致するのです。

 日本の古語の特徴の一つに

 「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。

 古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。

 また「ナ」は国のことですから、

 「ス国」と「ツ国」、は同じです。

 これを「高の国」と比較しますと、

 助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、

 「(ス)国=(ツ)国=(津)国」と、謎がほぐれてきます。

 高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する

 別の当て字だったのです。

 この「高津国」は仁徳天皇の皇居が

 「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。

 その宮は大阪市にあったとされますが、

 大阪には「住吉」もあります。

 ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、

 そこから住吉へは船では行けません。

 大阪の地名は

 後世に南九州から幾つもがセットになって大阪へ、

 一緒に移動してきたものです。

 「高砂」はなくて「高津」しかないのです。

 もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。

 ここでその謡曲『高砂』の主題は何か?

 考えてみましょう。

 それはもとの名が相生だった通り、

 高砂の松と住吉の松とが、

 「相生」であるということが中心になっています。

 「相生」とは一体、何のことでしょう?

 「相」という字にはいろんな意味がありますが、

 この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、

 相対する状態をいっています。

 相生とは

 「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。

 ところが実際には、

 その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。

 だからこそ肥後の神官は

 「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」

 と疑い、

 老夫婦は、その疑問に答えたのです。

 その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、

 「別れ」という悲劇を吹き飛ばす

 内容をもっていなくてはなりません。

 それは、

 今は別れ別れになっていても、

 もとは一つ、心も何時までも一つだから、

 それで「相生」の松というのだ、という以外にありません。

 それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、

 二人は「松の化身」でもあることが

 それとなく暗示されています。

 しかしそれだけでは実のところ、

 なにが「非常に目出度い」のか、

 まだよくわからないと思います。

 『高砂』は、

 離ればなれになっても、白髪の老人になっても、

 なお愛情は変わらないことを

 「相生」という言葉に掛けて、

 「あい(愛)」と「おい(老い)」の

 美しさ、悲しさを歌ったもので、

 厳密にいえば、

 そこには「目出たい」という要素はありません。

 前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、

 「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、

 両親もまた、

 それぞれ「沖縄と奄美大島の王と女王」として、

 白髪の老人になるまで、

 末永く栄えたという点以外には見つかりません。

 ところが世阿弥の『高砂』では、

 かんじんのこの部分が抜けています。

 だから何が目出度いのかさっぱりわからない。

 わからないのに世間では

 この『高砂』を目出度いものとしてきました。

 それは

 当時の人々がもとの話をよく知っていたという証拠なのです。

 だから世阿弥は周知のことを

 今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。

 ※出典:加治木義博
     「日本国誕生の秘密・徳間書店:277~280頁」

2015年8月26日水曜日

アトレウス古墳


 ≪アトレウス古墳≫



 ギリシャ・ミケーネにある

 欧州青銅期時代後期の紀元前1300年ごろのもの。

 「アトレウスの宝庫」と呼ばれているが、

 今ではクリュテムネストラの墓であることがわかっている。

 高さ13mのドームで床は13.5m。

 日本・朝鮮の古墳墓と共通性が多い。


 従来は畿内型と呼ばれる墳丘古墳が

 南九州につくられるようになったのは、

 5世紀以後だというのが定説だった。

 しかし

 鹿児島県阿久根市の鳥越古墳は石室が細長く

 古式の割竹式木棺が副葬品なしで出土したことから、

 4世紀より以前のものであることは間違いない。

 これは卑弥呼政権の邪馬臺が南九州だったことが確定した今、

 当然のことで、

 過去の大和邪馬台国説に基づく古墳学が、

 いま崩壊し始めていることを物語っている。

 またその積み石の様式がアトレウス古墳に近いことも、

 よく注意してみる必要がある。

 大石をザット並べただけの蘇我馬子の墓とされる

 石舞台古墳などの方が新しいのである。

 「北鮮古墳群と高句麗・将軍塚」
  
 高句麗・将軍塚 

 中国吉林省集安(広開土王碑がある昔の通溝)にある。

 階段状になっていて、

 エジプト・サッカラにある

 第3王朝ジュセル王の階段状ピラミッドによく似ている。

 同じく集安の鴨緑江近くにある環文塚古墳。

 アトレウス古墳のミニュチアのような形がよくみてとれる。


 亀墓は沖縄にある墓として知られているが、

 同じ形をした墓が、

 タイ北部の人里はなれた場所に点々と見られる。

 中国人華僑たちの墓である。

 沖縄のものも宋の時代に中国から来た

 36姓と呼ばれる支配者がもちこんだもので、

 近世の沖縄は華僑に侵略され占領されていたのである。

 亀墓のルーツはその形態でわかるように

 ギリシャのアトレウス古墳の系統。

 卑弥呼と血縁のある南中国・呉の孫権らが

 ギリシャ系だったことの傍証。

 烏孫=ウースン=呉孫=大隅とつながり、

 ヤタ烏(カラス)=アレタサンドロスともつながる。

  ※出典:加治木義博
     「KOFUN・KKロングセラーズ:49・57・202頁」
     「YAMATO・KKロングセラーズ:128頁」

2015年8月25日火曜日

ウルマ




 ≪ウルマ≫

 『シュメル人の都市国家』

  「図」《シュメル人の都市国家》※出典:加治木義博

図版:オリエント周辺の地図


出典:『シュメル神話の世界』中公新書2008


  『ヤマトバル陥落以外にない東方大移住の出発点』

  沖縄は自称を「ウルマ」と言う。

  ウル国(マ)であり、漆島=ウル之国(シマ)の姓もある。

  アムールも隼人町に天降(アモリ)川があり、

  中国ロシア国境にアムール河がある。

  その東方移動は間違いないという証拠が、

  このほかにもびっしりと残っている。

  リム・シンはエラムのヤマトバルを都にした。

  この地名が我が国の古代の都・ヤマトの語源だから、

  我が国まで来た人たちは、

  このヤマトバル出身者だと判る。

  すると永良部が

  我が国統一の最古代の重要地だったことが

 理解できるのである。

  では何故?

  そんなに遠隔のイラクなどから絶海の孤島といいたい

  日本列島まで移住してきたのか?

  という疑問にも、これまで見てきた言語の一致などから、

  このヤマトバルの陥落が契機になって、

  移動が始まったと判断できるし、

  何故?本拠を海中の国・沖縄に置いたのか?という疑問も、

  上記の地図でご覧の通り、

  当時はペルシャ湾が北に深く伸びていて海に面していたので、

  ヤマトバルもスーサもウルもすべて、

  そこの住民たちは海洋人だったからである。

  戦いが不利とみると彼等は、敵の支配下で暮すのを嫌って、

  すぐ海に乗り出した。

  そして東に進んで転々としながら沖縄海域にやってきて

  定着した。

  そこで稲敷から中国へ移住した殷人と出会い、

  互いに助けあって、

  宝貝貨幣産業の黄金時代を築いたのだと推理できる。

  それをこれから、さらに正確に跡づけてみよう。

  『「初代・スサノオ=スサの王」登場』

  ヤマトバルでリム・シンを捕虜にしたのは

  バビロン第1王朝のハンムラビ王だった。

  この名もバビロンは

  バ=馬=マ、

  ビ=美=ミで馬見(まみ)の丘陵、

   狸穴(まみあな)などのマミ。

  ロ=末盧のロ=国。

  ン=助詞。

  ハンムラビも=ビ=ミで

  磐叢耳(ハンムラミン)尊と書ける名だし、

  半村姓もある。

  彼はハンムラビ法典を制定したことで有名だが、

  それは、

  今はイラン領に入っている古代エラムの都市国家・

  スサで1901年に、

  法文を彫った石碑が見つかった。

  バビロンに侵入したスサの王が

  戦利品として持ち帰ったものであった。

  我が国に関係のある

  「スサの王=スサノオ」の名乗りは、

  やはりエラム人のものだったのだ。

  スサノオと永良部は

  共に高天原のあった九州の南の海上にあって、

  当時、都を意味した「原」は、

  九州語では「バル」と発音する。

  それらも皆、

   シュメルの都市・ヤマトバルと

  一緒にやって来た

  「渡来人訛り」だったのである。

  地図でおわかりの通り、ヤマトバルとスサは近接して、

  前面に海をひかえている。

  だから山人(やまと)は本来は山の民ではない。

  それが山地の奈良に都を置いたのは、

  倭の五王時代に九州を出発して近畿へ移動し、

  倭王・<武>が奈良の高市へ入ったからなのである。

  卑弥呼の時代には位宮が沖縄・種子島・屋久島にいて、

  まさに海幸そのものだったし、

  それを迎え討った卑弥呼は姫木(ひめこ)山にいて、

  山幸そのものだったが、

  五王は海幸側の壹與の子孫で山人ではない。

  『古式大嘗祭と一致するバビロニヤ王の即位儀礼』

  また、バビロニヤの王は古来、毎年、年頭に厳粛な儀式を

   行なった。

  それは王衣を脱いで神の前にひれ伏し、

  改めて遵法を誓った後、衣冠をっけて、

  王位に復してから儀式にはいる独特の復活儀礼で、

  それを毎年繰り返した。

  これは我が国で毎年行なわれた

  古式の大嘗祭で神前に高く真床が敷かれ、

  天皇は位冠を全て脱いで、

  板枕をして真床に横たわり、

  追衾(おうふすま)を被って物忌みの後、

  改めて現(あき)っ神として起き出られてから、

  冤服(べんぷく)をつけて高御座(みくら)に登り、

  百官の拝謁を受けられた儀式と、

  その信仰も形式もまったく同じである。

  この世界にも希な表現方式をもつ2つの儀式が、

  思想と信仰の一致で、

  天皇がシュメル文明の後継者であり、

  そこに強力な都市国家スサが実在したのだから

  スサノオとはスサの王だった史実を、

  物(もの)の見事に幾重にも立証しているのである。

  「地図:シュメル人の都市国家」

  「チグリス川(エラム)」

  アッカード・ウンマ・スサ・ラガッシュ・ヤマトバル

  「ユーフラテス川(バビロニア)」

  キシュ・バビロン・イシン・ウルク・ラルサ・ウル・エリドゥ

 ※出典:加治木義博
        『大学院講義録18』


 ≪鵜戸神宮≫

 「我が国に現存するエリヅ、エレチ、エンキ」

 バビロニヤの都市国家の名と神名とに戻ろう。

 エリヅの主神は水の神・エンキだった。

 乾燥に悩む環境から

 水に深い関心のある国だったことは間違いない。

 それも灌漑用水なら、

 大河沿いの土地はどこも同じだから国名にすることはない。

 これは飲料水としての水質が良いことの、

 神への感謝と宣伝のための国名で、

 屋久という名と、全く同じ発想なのだ。

 それを我が国なら何と表現するだろう?。

 清水や吉水は各地にある。

 エリヅに合う当て字を考えると「選(え)り水(ず)」がある。

 選(え)り津(ず)にすると良港にもなる。

 どちらにしても水の神の担当である。

 ではそんな名の土地が我が国にあるか?。

 津は沖縄語ではチと発音する。

 次の国のErech エレチは、エリヅから分かれた国だと解る。

 エレチは沖縄ではイリチと発音する。

 それは鹿児島ではイリキになる。

 入来という地名と姓は

 エレチ人が鹿児島へ来たことを伝え続けているのである。

 その氏神は天の神「アヌ」。

 沖縄でNがMになるとアム。

 それが鹿児島へ行くとアマ、

 天の神は天津神で意味も発音も

 スメルと我が国は完全に同じだ。

 エリヅの神はエンキである。

 これは標準化されて

 「榎木(エノキ)」という姓になっている。

 その有名人には

 鹿児島出身の映画スター・榎孝明君がいる。

 彼は姓だけでなく、その体格容貌で、

 私(加治木義博)の説が正しいことを、

 実に明確に証明してくれているのである。 
  
 さらに付け加えると

 榎という木は川や池などの水辺を好む。

 環境が良ければ大樹になって葉を垂れ、実をたくさんつける。

 古代人はそれを水の神・エンキの化身として祈ったのだ。

 ラルサの神はウツで太陽神である。

 宇都の宮はまさにウツの宮である。

 その祖先もやはり古代日向の東端の、

 昇る太陽の光をさえぎるもののない太平洋岸に、

 古風きわまる洞窟神社として現存している。

 鵜戸神宮である。

 何時からか「ウド」神宮と訛ってしまっているが、

 その地理条件は、

 間違いなくウツの宮だったことを証言して余りがある。

 しかし、「ラルサ」という国名はどこにもありそうにない。

 一体、どうなっているのだろう。

 ご存知の通り、南九州語はラ行音はダ行音に変わる。

 ラルはダヅになる。

 またサはセになるから、ダヅセ。

 これは耳で聴くと「ダッセ」になる。

 鹿児島には田布施という地名と姓がある。

 これはいまではタッセと呼ばれるが、

 田はダとも読むから、

 本来はダッセへの当で字で、それも布施という用字で、

 仏教の影響が大きくなってからの当て字だと解る。

 ウルは沖縄の古名で、今もウル国(マ)という。

 漆間、閏間と当て字した姓もある。

 その神は新月の神で「ナンナル」である。

 新月は、月とは名ばかりで、無くなってしまう。

 「無くなる」を古代は「無(ナ)ンナル」と言った。

 「無(むん)になる」は、無を漢音に変えただげである。

 従来中国の文化だとされてきた四神の「玄武」は、

 私たちには黒と高(たけ)を意味し、

 高句麗(タカクロ)という国名と全く同じだとわかっている。

 そのトーテムは亀と蛇。

 その亀がなぜ象徴だったかもよくわかったが、

 ここまでくると不明だった蛇も何だったか、

 ご理解戴けたと思う。

 京都の祇園(ぎおん)、

 飛騨(ひだ)の高山などの曳(ひ)き山(やま)祭(まつ)り、

 山車(ダシ)・壇尻(ダンジリ)を使う全国的な

 「ヤマ祭礼」は

 すべて、

 現在もインドや東南アジアなどで見る

 シンドゥ祭礼と全く同じで、

 大隅の「大人弥五郎どん祭り」を最古に

 全国に広まったものだが、

 大隅町の囃子言葉は「ダンジイ討った」で、

 ダンジイは大人の訛りだとわかる。

 南九州語は大人をウドと発音するからすぐ近くの

 宮崎県日南市の旧官幣大社鵜戸(うど)神宮と同音だ。

 大人はダイジンとも読むので大神でもある。

 この神宮は海岸にあって本当の神殿は岩窟である。

 デルプォイ神殿もまた岩窟で有名な遺跡を残しているから、

 鵜戸神宮は元は大神宮だったものが、

 大神→大人→鵜戸と当て字が変わったとみると、

 大神宮=ウジンミヤ=オリンピヤだ。

 壇尻(ダンジリ)や山車を使っているから

 シンドゥだと単純にはいえない。

 言語復元によらない原始的な比較文化は、

 学術の中には入らないのだ。

 ※出典:加治木義博
     「言語復原史学会・大学院講義録37:23・24頁」
     「言語復原史学会・大学講義録25:34頁」


  『歴史(8000年)「ウバイド+スメル」文明⇒インダス文明』

   ウルといっても、これだけの歴史があるから、

  沖縄の古名「ウル国(マ)」は、

  そのうちのどの時代の人がやってきて命名したのか?。

  その答も『日本書紀』の中にある。

  ウル第3王朝もB.C.E.1960年頃には

   南部メソポタミヤのイシンとラルサの2国が

  支配権を争う時代に入り、

   B.C.E.1830年には中部バビロニヤに新たなバビロニヤ王国が生まれ、
  
  法典で名高いハムムラビ王がB.C.E.1792年に即位した。

  この即位年の『1792年』が、

   我が国建国史にとって、最も重要な記録数字になっている。

  それは「神武天皇紀」の始めに特記された

  「建国回顧年数」に完全に一致するからである。

  「我が 天祖 彦火 瓊瓊杵(ニニギ)尊 天関を開き

   (中略) 此の西偏を治む。

   (中略) 年を歴る所、多し。

   「天祖降跡以逮=天孫降臨以来」于(今までに)

   一百七十九萬二千四百七十余歳(1792)。」

   と明記してある。
  
  この1792年は、

  ほぼ正しい神武紀元だとされる西暦からさかのぼると、

  ハムムラビ王が即位したB.C.E.1792年に、

   ぴったりと合うのである。

  『日本書紀』は千倍になっているが、

   それは翻訳者が記録にある数字の、

  単位の知識をもっていなかったためで、

  書かれていた数字は非常に正確なものだったことが

 確認できる。

  『日本書紀』はそれらの古記録を焚書してしまったが、

   これでその記録と、

  沖縄のウル国(マ)が、

 ハムムラビ王までさかのぼることがわかる。

  とすればそこに書かれている瓊瓊杵(ニニギ)尊とは、

  ニンギルスへの当て字としか考えられない。

  ウルマを沖縄に作ったウル人は、

  円筒印章発明以前のウルから来た人たちだったこと

 が解るから、

  この紀元を記録したハムムラビ王とは無関係である。

  『神武天皇紀』にその数を特記した記録を持っていた人たちは、

  後からやってきた人たちである。

  すると神武天皇が行なった東征とは、

  この後続の人たちの史実の記憶が根底にある

 伝承だったことが判る。

  それに次々に起こった類似の事件が重なって、

   層をなしたものが、

  神託による教えの基礎になって、

   予言として役立つものに成長した。

  それが『記・紀』の原型になった、

  「十八氏纂記」などの実体だったことが、

  これでさらに確認できた。

  『記・紀』とは何か?…という疑問の答は、

  ウバイド~スメル史を正しく知ることで見つかったのである。

  湾岸戦争まで続いたメソポタミヤ最南部の

   テル・エル・オウェイリの調査で、

  ウバイド期はさらに古く8000年前にも及ぶことが

 推定されている。

  途中政権の個人的な左右はあったが、

   倭人(ウバイド)の皇統は絶える事なく続いている。

  永年、本講で御研鑽になった受講会員は今、

 世界の人々に先駆けて、

  世界最古・最長の皇統をもつ祖国の真の歴史を

 お知りになった。

  ※出典:加治木義博
          「言語復原史学会・大学院講義録31:28~29頁」


 『沖縄の国名の変遷』

  日本列島に移動してきて日本人を構成した人たちが、

  どんな人々だったかを示し、

  記録しているものに、

  伝承されて今もよく知られている地名の呼び名がある。

  それは過去には単なる別名ぐらいにしか

 考えられていなかったが、

  こうして次々に真相が明かになると、

  それらは無意味な別名ではなくて、

  それぞれが私たち日本人にとって、

  ゆるがせにすることのできない重大な史実であり、

  いつ、そう呼ばれていたか、

  それはなぜだったかが明瞭に理解できるようになった。

  それは同時にこれまでお話ししてきた歴史が、

  すべて根拠のある真実の歴史だったことを、

  完璧に立証しているのである。

  1 <ウルマ>

   英国のウーリーの発掘で有名なメソポタミヤの大都市国家

   [ウル]国(マ)=最古の国名=第一王朝建設

   (B.C.E.1750年頃)によって

   カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、

   沖縄についたのは殷時代(B.C.E.1500年頃)より前、

   それが更に中国本土に入って

  中国最古の王朝・夏を築いたが、

   殷人が侵入してきて商王朝を興し、夏王朝を倒した。

   皮肉なことに殷商帝国を強力にした殷の貝貨幣は、

   琉球列島に残って貝貨幣産業で栄えていた

   カリエン人が供給したものだった。

   殷人はインディアという名前への中国式当て字。

   その青銅器製作技術は、

   B.C.E.1500年頃に西アジアから伝来しているので

   カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、

   夏帝国が誕生した時期に一致している。

   この琉球カリエン人たちが国名を故郷と同じ

   〔ウルマ]とつけなかったなら、

   今の沖縄に「ウルマ」という古い国名は残るはずがない。

   また殷人の同族は、縄文時代後期には、

   すでに茨城県稲敷郡の福田貝塚に、

   殷人と同じ信仰をもっていたことの明かな、

   より原始的な宗教遺物を残していること、

   「稲敷」という名は「殷の儀式=祭り」を

   意味する発音をもっているから、殷人の聖地に当たり、

   それは単に殷人が知っていたというだけでなく、

   正確に2200km東西に大測量をして

   都の位置を決める起点にしている事実など、

   どこからみても殷人は日本列島に故郷をもつとみるのが

  妥当だから、

   日本列島から中国に移動した人たちだったことは動かない。

  2 <流求>

   この発音は、現地では「ルク」と発音されていた。

   これはドイツのルクセンプルクがギリシャ名の

   「ルキウス」に語源があるのと同じく、

   古代インド東アジア帝国のギリシャ人皇帝ルキウスの

   支配下にあるという意味の[ルキウス国]への、

   中国人による漢字の当て字であるとみると、

   アレクサンドロス大王の残したルキウスはB.C.E.2世紀の人。

   日本の弥生時代の始めに合う。

   また日本語に大量のギリシャ語が入っていること。

   『日本神話』のモチーフは

   100%『ギリシャ神話』と一致するので、

   ギリシャ人が私たちの先祖であることは

  全く疑問の余地がない。

  3 <ウチナ>
 
  [大秦=ウチナ]。

   徐福(徐市=どちらもジョフッ)が、

   秦の始皇帝の命令を受けて、童男童女、数千人を連れて

   山東半島から支那海へ航海に出た後、

   日本へ着いたという記録がある。

   紀元前200年頃。

   この秦は秦氏が実在し、

   天武天皇の名乗りが始皇帝の子孫を意味しているなど、

   多数の文化財を残しているのでこれも疑問の余地がない。

   詳細はそれぞれの専門項目でご覧戴きたい。

  ※出典:加治木義博「大学講義録7:23・24頁」